第23話
抜いたのは何の変哲もない鉄剣。
無論、剣とは安いものではない。特に魔術による付与などされていないものではあるが、騎士の腰にあるようなものはそれなり以上の剣匠によるものである。
磨かれた剣身が陽光を照り返す。
だが、そこに明るさを感じたものは誰一人とていないはずだ。
まだ構えることもなく、だらりと下げた剣。
しかしてそこから放たれる威圧。それが殺戮者の権能の一端である。
空気がまるで凍てつくが如く、陰の神気が世界を侵食していくのだ。そしてそれは命あるものを脅かす。
最初に、闘技場の上空高くを飛んでいた渡り鳥が地に堕ちた。
次いでバサバサと羽音と鳴き声、近くの公園などに停まっていた鳥たちが逃げていく音だ。
ボハーチェク卿の馬が嘶き、竿立ちになった。
前脚が宙を掻く。そして手綱を無視して走り出し、卿は振り落とされた。馬はついに柵を跳び越えて外へと逃げ出していった。
俺の背後は比較的影響が少ない。
先ほどまで俺が乗っていた馬が同様に嘶くのが聞こえるが、馬丁とヴィートが二人がかりで動きを押しとどめているようだ。
客席でも婦女子らを中心に、何人もの観客たちが気を失い倒れていく。
俺はゆっくりとした言葉で告げる。
「立ち上がり、剣を取れ。戦うのだ、ボハーチェク卿」
「ひいっ!」
地面に転がっていた彼は受け身くらいは取っていただろう。甲冑が重くて起き上がるのに難儀しているところであった。
彼は砂地の上、手をついて後退る。
「卿は決闘の場において剣を手にしていながら、構えることもできずに不名誉な死を迎えるおつもりか」
騎士が戦場において武器を構えることもできずに死ぬというのはどれほどの不名誉か。それは一家が断絶するほどのものに他ならぬ。
「こ、ここ降参を……」
俺は息を吐く。
こうなるから決闘は面倒なのだ。俺が黒騎士になったのと時を同じくして、俺に与えられた加護はその力を増した。今や殺戮者の前に立てるのは英雄か強大な魔獣のみ。分かってはいたことであるが彼は英雄の器では無かった。
俺が故郷を離れ、遍歴をしなくてはならなかったのは、伯の次男を決闘で殺してしまったのが原因であるが、加えて魔獣との戦いによってしか腕を磨くことができなくなってしまったからだ。
「残念ながら我が加護、殺戮者は一度放たれたら命を啜らねば収まらぬ。俺は昨日卿に告げたぞ、負けるのではなく死ぬのだと。俺に決闘を挑んで生きて帰ったものはいないと」
ボハーチェク卿は共に来た友人たちを助けを求めるように見上げたが、彼らも固まって動けはしない。
立会人の方に目をやる。宰相閣下は武人ではない。倒れぬのは大した胆力とは思うがやはり動けない。
近衛の長が手を上げて騎士の決闘の始まりを宣言した。
「これよりダヴィト・フェダーク卿とエドムント・ボハーチェク卿の決闘を始める。各々、正々堂々とその武芸を、騎士の誇りを示されよ!」
俺は盾を持つ左手は構えることなく腰の辺りに、右手の剣を中段に構える。盾を構えていては無駄に疲労してしまう故に。
咳き一つない沈黙と静寂。
野戦で飯を食う位の時間を掛けて、のろのろとボハーチェク卿は立ち上がる。前に一歩出て、それ以上は足が前に進まぬのか止まり、剣と盾を構えた。
剣の鋒が震える。そして盾に身を隠そうとするかのように盾を前に突き出している。
「……あ、鉄塊の身体よ。……神よ……」
彼は自身の賜った加護の名を、そして祈りの言葉を口にした。
「決闘始め!」
立会人の声が響いた。かーんと合図の鐘が闘技場に響く。
普通であれば歓声が続くところであろうが、それは起こらない。
俺は無造作に一歩前に踏み込んだ。
「つあぁっ!」
そして気迫を込めて剣を掲げ、振り下ろす。
彼我の立ち位置は、明らかに彼の身体に剣の届かない距離であり、実際に届いてはいない。
だが斬った。
ボハーチェク卿の身体はゆっくりと後方に傾いでいき、どう、と倒れた。
次いで剣を横薙ぎに一閃。卿の後ろ、壁際に立っていた兵たちもまた倒れた。
誰一人傷は無い。しかし誰一人動き出さない。
残心。剣を再び中段に構えると、近衛の長が手を上げて言った。
「そこまで! ダヴィト・フェダーク卿の勝利である!」
俺はゆっくりと剣を鞘に納めた。
陽光がその役目を思い出したかのように熱気が戻り、溜息とどよめきが闘技場を満たす。
俺は兜を脱ぎ、それを天に掲げた。
兜につけられた女性ものの飾り布が、誰の目にも映るように。
そして高らかに叫ぶ。
「この勝利を我が貴婦人。幽閉されしヤロスラヴァ・レドニーツェ姫に捧ぐ!」
そして兜を抱いて、北の離宮の方向に向けて跪いた。