第20話
彼は頷かれました。
「そういうことです。そして辺境伯の御子息であった騎士を決闘で殺したが故にエーガーランドにいられなくなり、遍歴の旅に出た。そして旅先でエーガーラント陥落の話を耳にすることになったのです」
わたくしの手の甲に、冷たい雫が落ちました。
運命は彼になんと厳しくあるのでしょう。
フェダーク卿は黒騎士になってから領を出るまでの話をかなり端折られました。それはわたくしに聞かせるような話ではないという思いからでしょう。
でもそこにはきっと辛いこともたくさんあったはずです。
そして、彼が故郷を離れている間に、かの地は敵の手に落ちてしまったのですから。
「あー……泣かないで下さい。姫様」
わたくしの頬が濡れているのに気付いた卿が慌てだします。
彼は自身の胸元や腰に手をやりますが、そこにポケットはありません。甲冑に上衣ですからね。
「姫様、こちらを」
ヘドヴィカがハンカチを渡してくれます。
彼女はフェダーク卿に不満の表情を向けました。
「……準備が悪く申し訳ありません」
卿は頭を下げます。
紳士たるもの常に三枚のチーフを携えるべきだというのはどの本に記されていたのでしたか。手を拭うために一枚、涙を拭うために一枚、涙を流す淑女に差し出すために一枚。
騎士である彼にそれを求めるべきではありません。そもそも騎士としての正装であり、ここに来ることなど想定していなかったのですから。
「いけませんよ、姫」
しかし目元をハンカチで押さえるわたくしの考えていることなどお見通し、ヘドヴィカはそう言わんばかりに言葉を紡ぎます。
「涙を流す女性に差し出せるものが無かった段階で、これは卿の落ち度なのです。社交とはそういうものですよ」
卿は再び頭を下げました。その様子を見て思わずくすりと笑みが溢れたのです。
「謝罪を受け入れますわ。代わりにお話を続けて下さる?」
「続きですか。レドニーツェ王国の各地を放浪し、ノートラント伯爵、ラドスラフ・ガシュパル殿の食客となっている時にエーガーラントの陥落を聞いたというくらいですかね。それで暫くはそこに留まっていたのです」
ノートラントといえば王国南東の領地で、豊かではありますが魔の森が近く、戦争こそ無くとも魔物との戦いが頻発する地域。フェダーク卿はやはり戦いを求めてそちらにいらしたのでしょうね。
「王都にはノートラント卿といらしたのですか?」
「ええ、遍歴の騎士である俺が戦のために召集されるのに、領地の兵をつけて下さいまして」
「まあ、それは忠国の臣ですわね」
と言うと、彼は少々顔を顰めます。
「彼が国家を想う気持ちは誰にも負けんでしょう。ただ、少々女癖が悪いので、あまり近付かれませぬよう」
「まあ」
ヘドヴィカがわたくしの手から用済みのハンカチを受け取るついでに卿に頭を下げます。
「ご忠告、感謝いたしますわ」
「今日は出陣前の決起と騎士たちの顔合わせのために王城は謁見の間に向かったのです」
「お父さま……陛下は元気そうでしたか?」
「体調としては問題なさそうに見えましたが、やはり隣国に攻められている状態ですからな。少々疲労が蓄積されているように見えました」
なるほど。お父さま……もう何年お会いしていないでしょうか。
「そしてその後、こちらに立ち寄らせて頂きました」
「フェダーク卿、お話が抜けていますわ。決闘を、挑まれたのでしょう?」
彼は頷きます。
「まあ、そういうことです。謁見の間にて、エドムント・ボハーチェクという騎士から決闘を挑まれました」
「決闘はいつなのです?」
「明日です」
「明日!」
まあ! 戦の前で時間が取れないのでしょうけど、それにしても急な話ですわね。
「なので明日こそこの離宮には立ち寄れませんし、この後は出陣の準備もありますから、もう来ることは難しいでしょう」
わたくしは頷きます。
悲しいことです。わたくしの元に来てくださった唯一のお客さま。それとのお別れなのですから。ですが、そのような我儘をいうわけには参りません。
これは国を護っていただく、大切なお仕事なのですから。
フェダーク卿はソファーから立ち上がり、跪かれました。
「ヤロスラヴァ・レドニーツェ姫。俺はこれにて失礼いたします。姫様への無礼、田舎騎士故の不調法としてご寛恕いただきたい」
わたくしも立ち上がります。
「ええ、許しますわ」
「それではこれにて御前失礼……」
「待って! ……ほんの少しお待ちになって!」
わたくしはフェダーク卿を呼び止めると、ヘドヴィカに耳打ちします。
彼女に鋏を持ってきてもらい、わたくしはドレスの袖に鋏を立てました。
「何を!」
卿が叫びますが、わたくしはそれに応えず、ヘドヴィカにも手伝ってもらい、左の袖を断ちました。
古い衣装のものではありますが、最高級の絹と透かし編み。
「決闘の勝利を、戦の勝利を、御身の無事を祈願し、差し上げます」
「なんという……」
「わたくしは貴方と共に」
騎士物語の定番の言葉です。理想の貴婦人ではなく、わたくしみたいな小娘に言われてもとは思いますが。
それでも彼はわたくしに向けて祈る所作をし、布を捧げ持つように受け取られました。
「俺ごときになんという名誉を下さるのか。必ずや貴女に勝利を捧げて見せましょう」
そう言って彼は離宮を後にしました。