第16話
「エーガーラントの名も無き農村一つを管理している郷士、その三男のただのダヴィトとして俺は生まれ、野山を駆け回って生きていた」
「楽しかったでしょうか?」
農家の方々の生活を見たことはありません。王城においてはそのような暮らしを知る術もございません。ただ、ヘドヴィカがかつて生前の領地の様子について話してくれたことがあるくらいでしょうか。
とは言え、彼女ももとは高位貴族の令嬢ですからね。王家に仕える者はそもそもそういった出身でないとなりませんし。
「そう……ですね。まあ子供の頃の記憶は楽しかったように思うものです。ですが、農家としては裕福でしたし、長男でもなく気楽でした。八歳のあの日までは」
フェダーク卿は過去に想いを馳せているのか、灰色の瞳に優しい色が混じりました。ですがそれは最後の言葉を苦々しく放つと共に消えてしまいます。
「神授の儀……」
「ええ、そこで俺は殺戮者という加護を賜った。そしてそこで俺の人生は変わってしまった。友はみな俺のそばを去ったよ。いや、分かる。彼らが悪いのではない。親が俺に近寄らせないようにしたんだろう。そして家族からも疎まれるようになった」
わたくしは思わず息を吐きます。
万能なる神にはあらゆる相を持っておいでです。魔を討ち滅ぼすが為の荒ぶる気性、戦神としての相。その顕れではあるのでしょう。
ですが殺戮者とは人が賜るには余りにも禍々しい名です。
「卿とわたくしは似ていますわ。わたくしもそうでしたもの」
わたくしも神授の儀で全てが変わってしまったことをお話しします。彼はその境遇に良く理解を示してくださいました。そして話を続けられます。
「姫様と俺で違うことは、俺にはその環境に手を差し伸べてくれた人がいたということかもしれません」
「幼き日のダヴィトさんは救われたのですね?」
「ええ、ある日、俺のところにぴかぴかの鎧を着て馬に乗った一団がやってきたのです。その先頭にいたのが、ボフミル・フェダーク」
「フェダーク!」
「ええ、隣の村を治めている騎士。フェダーク卿であり、俺の養父になる人物でした」
わたくしは彼の物語に聞き入ります。
ある種よく似た境遇、ですが彼はこうして黒騎士として身を立てています。彼とわたくしとの違いはどこになるのでしょうか。
フェダーク卿が苦笑します。
「なるほど、俺のような拙い語りを姫君が楽しんでくれるとはな。人が出入りしていないのは本当のようだ」
「そうですわ。わたくし、こうした物語に飢えているのです。吟遊詩人も歌劇も、わたくしには縁遠いものですから。でも、フェダーク卿のお話は面白いわ。ね?」
わたくしは振り返ってヘドヴィカに問います。彼女も頷きました。
「ええ、楽しませていただいてますわ。ぜひ続きを」
彼女はそう言って前へ出て、お茶を片付けます。話している間にぬるくなってしまったので交換してくれるのでしょう。
フェダーク卿は照れたように頭を掻くと、話を続けてくださいます。
「まあ、まずは騎士見習いとして従者になった。身体を動かすのは元々好きだったし、農民にしては豊かな出身ではあるので文字は書くことができたから、訓練も勉強もそこまで苦ではなかった。面倒だったのはやはり人間関係だ」
「やはり死の加護持ちは疎まれましたでしょうか?」
彼は少しの間、押し黙ります。
「疎まれたというとちょっと違いますね。もっと直接的というか……」
言葉を濁されました。わたくしは首を緩く傾けます。
「フェダーク卿、あまり言葉を選ばなくとも宜しいですわ。わたくし、貴方のことを詳しく教えていただきたく思いますの」
「あまりそういう言い方は……まあ良いです。同期である従者や、先輩にあたる従騎士たちから過度な扱きを受けていたということです。分かりませんか。騎士見習いなのでもちろん荒っぽいのですが、必要以上に痛めつけられていた」
……なるほど。彼らの主人であるボフミル・フェダーク卿がわざわざ迎えに行った余所者であり、死の加護持ちでもある彼をやっかむ者も多かったのでしょう。
わたくしの理解を見てから彼は話を続けます。
「ただまあ、それもあって俺が従騎士になる頃には養父殿の部下でも一番の腕前にはなっていた。帝国との小競り合いの中で従騎士として初陣を迎え、そこで運よく首級を挙げることもできた」
「まあ、運良くなんてことはないでしょうに。卿の研鑽の結果だと思いますわ」
「有難いお言葉です。さて、そろそろお暇せねば」
「ええっ」
話が盛り上がるところですのに!
「俺みたいなのがあまり長く離宮に滞在しては、ヤロスラヴァ姫にも不名誉な噂が付き纏ってしまうでしょう」
むむむ。勿論ここにはわたくししかいないということになっていますから、男女が誰も見ていないところで席を同じくすることに悪評が立つことは分かります。
わたくしなんかの評判にもはや下がるところはありませんが、黒騎士卿に悪評を立てるわけにはまいりませんものね。
わたくしがしょぼくれていると、彼は笑って言いました。
「ちと明日は予定あって来れませんが、明後日なら」
「まあ、ぜひ! お待ちしていますわ!」
立ち上がった彼に対して、シェベスチアーンが何か苦しげな表情を見せています。
わたくしは彼にも具現化の術式を唱えました。
高貴ではあるけれども古風な佇まいの執事が部屋の中に現れたのを見て、フェダーク卿がぴくりと眉を動かします。
「何か伝えたいことがあるなら言うといいわ」
シェベスチアーンはわたくしに頭を下げ、フェダーク卿に向きました。
「感謝いたします、ヤロスラヴァ殿下。初めましてフェダーク卿、シェベスチアーンと申します。お話、拝聴させていただいておりました。ご挨拶できていないことお許しください」
「ええ。許します。……というより仕方ないのではないでしょうか」
霊体ですからね。
「ご寛恕感謝致します。一つお伺いしても宜しいでしょうか」
「なんでしょう、答えられることなら」
「先ほど、今はなきエーガーラント領と仰られましたな」
「ええ、今はツォレルン帝国領となっております」
シェベスチアーンは僅かに上を見上げてから、頭を下げました。その表情はここからは窺い知ることができません。
「ありがとうございます。お話の続き、また聞かせていただけますよう。お帰りはこちらでございます」