第11話
彼女はうっかりして忘れていたことに気づいたような素振りで、胸の前でぱちんと手を合わせて言った。
「わたくし、ヤロスラヴァ・レドニーツェと申しますの」
くっそ、マジかよ。
俺は慌てて立ち上がり、ソファーの横で片膝を突いた。
「これはレドニーツェの末の姫君とは知らず不敬を」
「構いませんわ。名乗り忘れたのはわたくしですし、姫と言っても名ばかりですもの」
そう言って再びソファーに座らされる。
「しかし、ヤロスラヴァ姫自ら出迎えとは……不用心過ぎる」
「他に人がいないのだもの。仕方ないわ」
苦言を呈せば使用人も護衛もいないと言われた。あまつさえ、屋敷の周りにいた兵たちを護衛と言いだす。
「見張りは護衛ではない」
あの兵たちは奇妙な配置と思っていたが、ここにきて分かる。
姫との接触を避けさせ、遠巻きに囲った見張りである。
そもそも護衛というのであれば、今この場にいないのならなんの意味もない。俺が狼藉を働く可能性もあるのだから。
「……ごめんなさい」
姫は頭を下げた。
「姫、貴女を責めている訳ではない」
いかんな。彼女に謝罪させてどうするというのだ。
「どうも……すまんな。口下手で人を不快にさせたり、怖がらせる」
思わず視線を逸らす。
じっと見られていると怖い、不吉だなど、さんざん言われてきたからな。
「いいえ、わたくしを心配してくださったのでしょう?」
だが姫はそう言って笑みを浮かべられた。俺は滅多にない反応に口籠る。すると彼女はなぜここに来たのかを問うた。
思わず舌打ちが漏れそうになる。
ここの侍女か、ヤロスラヴァ姫に悪意持つ人物かは分からん。だが彼女を貶めようとしたことは間違いあるまい。
「宮廷に巣食う雀共に騙されたのさ。北の離宮に悪魔が住んでいると。黒騎士の武勇以って討伐して欲しいとな」
「まあ、悪魔さんですか。見かけたことはありませんわね」
それはそうだろう。俺だって見たことはない。
「でも、雀さんたちはなぜそんな嘘を?」
「武装した厳つい顔の男が行けば、姫が恐れるだろうとでも考えたのだろうよ。悪趣味なことだ」
「わたくしを悪魔であると討伐させようとしている訳ではないのですね?」
流石に直接的に害させたいというのではあるまいがな。
だが、怖がらせる以上に、男と共にいたということから悪評を流したいのかもしれん。人目がある訳ではないが、名誉を汚すということだ。
それであれば早く出る方が得策だろう。
俺は立ち上がり、再び片膝を突いて頭を下げた。
「お騒がせいたしました。御前失礼仕ります」
だが、俺が帰ろうとするとヤロスラヴァ姫は俺を引き止めようとする素振りを見せた。
「明日も、来ていただけ、ますか?」
さらには、明日も来てくれるようにと懇願する。
「来る理由がありませんな」
分からなくはない。
この離宮に一人、実質的な幽閉である。先も思ったが、屋敷は清潔に保たれている以上、彼女一人しかいないということもないのだろうが、俺みたいに不調法な男であっても、貴重な話し相手だったのであろう。
「な、何もおもてなしもできませんでしたし。お茶とか……」
「不要です。お一人では準備などもできぬでしょう」
だが、姫君にさらに不名誉な噂を広める手伝いをすることもあるまい。
だが彼女は最後にこう言った。
「あ、悪魔!」
ふむ?
「悪魔っぽいの用意しますから明日の同じ時間に来て下さい!」
……俺は直接的な返答を避けて辞去し、ノートラント伯爵家タウンハウスに戻る。
夕方に戻ってきたラドに今日の話をすると、とても面白そうに笑われた。
「悪魔っぽいのって」
俺も肩を竦める。
「つまり悪魔はいないと言っているということだ」
ラドは笑いながら戸棚から酒瓶を取り出すと、自ら二つの酒盃に注いで一方を俺に渡した。
礼代わりに軽く片手を上げて杯を手にする。
「そうかヤロスラヴァ姫か」
「ああ」
「ダヴィトは地方にいたから知らないだろうけど、彼女が生まれた頃から八歳までか。美しい姫君と噂になって大変だったんだよ。私も一度ご尊顔を拝したことがあるけどね。これは美しき女性になると確信したものだ。だが……」
ラドは酒杯を片手にヤロスラヴァ姫についての話をする。
結局八歳のお披露目以来、誰も見ていないということ。当時のツォレルン帝国の帝王の孫、先帝は三年前に亡くなっているから今は皇子と婚約していたが破談になっていることなどを伝える。
「ふむ、それが幽閉されていたという訳か」
「なんだろうね、あの時はツォレルンの皇太子も来ていたし、何か余程の粗相でもしでかしたのか」
俺は別のことを考えていた。つまり俺と同じだ。
神より賜る祝福がよほど好ましくないものであったのか。
「ねえ、美人だった?」
「む……?」
「いや、ヤロスラヴァ姫さ」
美人かどうかか……。扉を開けた時の彼女の姿を思う。輝く金の髪、青い瞳、つるりと丸い顔立ち。健康的な肌の色。
「ああ、そうか」
「なにさ。自分だけ納得するなよ」
そうだ、彼女は顔を白く塗りたくり、紅を乗せてはいなかった。甘ったるい香水の匂いを纏ってもいなかった。
「貴族の令嬢や姫君といって思い浮かぶような姿では無かった。ドレスも恐らく長く着ているのだろうし、化粧っ気もなかった。だが美しい姿だった。特に瞳は印象的な色をしていたな」
ひゅう、とラドが口笛を吹く。
「ダヴィトが女性の容姿を褒める日が来るとは! 明日は槍が降るな!」
「一般論だ」
「お前は今までその一般論ですら口にしなかったんだよ」
ラドはテーブルに杯を置いた。
「ダヴィト・フェダーク」
椅子に真っ直ぐ座り直し、威儀を正して俺の名を読ぶ。
「む?」
「お前の仮の主人、ノートラント伯爵として命ずる。明日も北の離宮へ足を運び、ヤロスラヴァ姫の話し相手となれ」
俺はしばし黙考する。
「……何か彼女に伝えることはあるか?」
「いや、ない。ただ、お前が彼女の側にいるのは望ましい」
俺は宮中に詳しくない。権力闘争も彼女の置かれていた状況も。だが、こいつがこう言うからには何か意味があるのだろう。
俺もテーブルに杯を置いて頭を下げた。
「御意」
こうして明日の予定が決まった。