イベント発生!?
学園長エドワード・モンクリーフは、隠しキャラかもしれない。
――という懸念をいだいてから、それなりに警戒してきたはずなのだけど。
なぜ、わたしは学園長にせまられているのでしょう!?
このイベント、何? どうして元悪役令嬢に、こんなイベントが発生するの!?
「妃殿下、あなたは魅力的すぎる。このままだと、本気で止まれなくなりそうだ。……ご夫君とは違う、大人の男を知りたくありませんか?」
腰に響くような低音ボイス。長くてたくましい腕に抱きしめられ……。
まだ成長期のセドリックとは異なる、しっかりと筋肉の張った広い胸の中に閉じこめられると、悔しいけれどドキドキしてしまう。
王立高等学園の理事長になってから数日後。三回目の出勤日。
王族の名誉職的なところもあるので、そんなに頻繁に顔を出さなくてもいいのだが、長らく理事長不在が続いていたので、わたしはとりあえず現状の確認と、たまった執務の整理に来ていた。
そして、ふとした出来事から、こんなことになってしまったのだった。
あーあ、こんなことなら、隠しキャラ絡みの理事長の仕事なんて、真面目にやらなければよかった。とほほ……。
* * * * *
セドリックと一緒の馬車で学園に来て、理事長室で一人執務をしていた午前中のこと。
必要な資料を探して、理事長室にある書棚を見ていたところまでは、いつもと変わらない平穏無事な朝だった。
「これかしら……」
どっしりと大きな書棚は背も高く、上のほうには手が届かない。誰か人を呼べばよかったのだけれど、このくらいなら……と思ったのが、間違いのもとだったのだ。
もう少し……もう少しで、届くのに。背伸びして、思いきり手を伸ばしても、少しだけ足りない。うーん。
「…………」
誰もいないことを再確認して、少しだけジャンプ! もう一回、ジャンプ! あと一回!
「えいっ、えいっ、えいっ」
自慢じゃないけど、わたしはそんなに運動神経がよくない。
その時も、その運痴が発揮され……、
「きゃあ!」
厚い革張りの本が、数冊頭上から降ってきたのだった。
直撃する……!
顔を腕で覆った瞬間。
わたしの目の前に、大きな影があった。
「…………?」
重い本は……わたしにあたらず、わたしの前に出現した壁にあたって、床へと落ちていく。
怖々と腕を下ろすと、そこには男物のシャツと、貴族らしく華やかな刺繍のほどこされた上着。着ているのは、厚い胸板を持つ洒落者の男性。
「え……エドワード様!?」
「大丈夫ですか? お怪我は?」
かばってくれたのは、学園長のエドワードだった。エドワードは黒い瞳を細めて、わたしの頬にそっとふれ、微笑んだ。
「あ、あの、申し訳ございません! エドワード様こそ、お怪我はございませんか!?」
「私は大丈夫ですよ。これでも鍛えていますので」
「本当に、申し訳ございません……。ふぅ……、わたくし、突然本が落ちてきて驚きましたけれど……、助けていただいたこともびっくりしました。あの……ありがとうございました」
「落ち着いて。まだ動揺しているでしょう。深く呼吸をしてみてください」
「はい……」
深呼吸をすると、バクバクしていた鼓動が少し収まってくる。
わたしを腕の中にかばったまま、エドワードはクスリと笑った。
「妃殿下はお転婆なのですね」
「……え?」
「ノックをしても返事がないので、中をのぞいたら、妃殿下が本を取るために飛び上がっていました。非の打ちどころのない淑女だと噂に聞いておりましたので、意外でしたよ」
「お、お恥ずかしゅうございます……」
うわぁ、運動音痴のジャンプを見られてしまったのね。淑女として、王子妃として、とんでもないところを……。
顔が火照る。ああ、どうしよう。もう、貴婦人の仮面とか言っていられないわ。
「あの……あの、わたくし、幼いころは体が弱くて……領地でずっと療養しておりましたの。緑の多い場所で……その、体力をつけるために乗馬をしていたのですけれど、実は木登りなども大好きで……あっ」
まずい、しゃべればしゃべるほど、淑女らしくなくなっていく。言い訳にもなってない!
「なるほど、木登りの得意なご令嬢か。さぞかし型破りで可愛らしかったでしょうね」
「いえ、違いますっ。得意か不得意かと言われたら間違いなく不得意なほうで、よく木から下りられなくなって……あ、あぁ、わたくし何を言って……」
「はははっ」
エドワードが楽しそうに破顔した。取りつくろった紳士の顔ではなく、子供のような笑顔。
「『紫水晶の君』は、本当はとても可愛らしい方だったのですね」
「紫水晶の君……」
「ええ。ご存知ですか? あなたが貴族たち――特に、男性からそう呼ばれているのを」
そう言って、ふと真顔になったエドワードが、わたしの目をのぞきこんだ。突然変わった雰囲気に戸惑う。
「綺麗な瞳だ。きらめく紫が神秘的で、汚れを知らない聖女のようだ……。しかも、美しいだけではなくて、まるで少女みたいに無垢で親しみやすい女性だったなんて」
「エドワード様?」
「もっと早く、あなたに逢えていたら……いや、考えても詮ないことですね」
「あの……そろそろ、腕を」
助けられた時のまま、ゆるく囲われていた腕を押すと、エドワードは抵抗なく離れていった。
彫りの深い、強い瞳のイケメンだったから、もしかしたら強引な人なのかも……と思っていたので、ほっとする。
「これは失礼いたしました、妃殿下。……つっ」
本があたった場所なのか、エドワードが肩を軽くまわして、少し顔をしかめた。
「肩が!? やっぱり痛めてしまいました……?」
どうしよう、わたしのせいで怪我をさせてしまったのかしら。
とっさに体を寄せて肩にふれようとした時、エドワードがふたたび腕を上げ、タイミングが合わなかったわたしは、その脇に飛びこむような状態になってしまった。
「あっ、ごめんなさい!」
「……大胆ですね」
「ち、違うのです。これは――」
エドワードの腕が下りてきて、またわたしを抱きこんだ。「わかっていますよ」とつぶやきながらも、離してくれない。
「だが、たとえ無意識でも、あなたに好意をいだく男の腕に飛びこんでくるなんて……誤解されても仕方がないですよ?」
エドワードの腕に、少し力が入った。わたしは呆然としたまま抱き寄せられてしまった。
こ、好意!?
いつからそんな流れになってたの!?
体をくねらせて逃れようとするけれど、エドワードの腕は鋼のようでびくともしない。
「妃殿下……あなたは魅力的すぎる。このままだと、本気で止まれなくなりそうだ。……ご夫君とは違う、大人の男を知りたくありませんか?」
「エドワード様、おやめください」
恥ずかしさに体が熱くなった。顔を思いきりそむけて、頬の赤みを隠す。
「私はあなたの冷たい美貌が、実はあたたかいものだと知ってしまった」
大人の男の低い声が鼓膜を震わせる。
「いや、いけません! おやめになって」
エドワードから逃げようとしていたからか、いつの間にかわたしは後ろ向きになって、エドワードに抱かれていた。
エドワードに何かされる前に、早く脱出しなければ。身をよじると、余計エドワードに拘束された。
「やめて――セドリック!」
助けて、と言いかけた時、長い腕にぎゅうっと強く抱きしめられた。
「……っ!」
「ここまでにしておきましょう。私の腕の中で、ほかの男を想われるのも口惜しい。ただ、今だけ……しばらくこのままで。……頼む」
ささやくような小さな声で「頼む」と言われて、抵抗できなくなった。
エドワードはそれ以上、何もしてこなかった。ただわたしを抱きしめたまま……。
わ、わたし、もしかして危機一髪だった?
エドワードが想像以上に大人で、助かったのかも……。
セクシーで自信家、大人の余裕をたっぷり備えた年上の男。
転生ヒロインのエマだったら、なんて言ったかしら。少しだけエマのネタバレを聞いてみたい気がした。
少し時間が経ってから、エドワードはわたしをそっと離してくれた。
にやりと男くさい笑みを浮かべる。
大人の余裕なのか、それとも意地なのか、何事もなかったかのように、エドワードはわたしのそばから一歩退いた。




