辺境の地へと風は吹く
「セドリック、アーリア、よく来てくれました。こちらにおかけなさい」
何事もなかったかのように、にこやかな王妃殿下がわたしたちを呼んだ。
わたしはつい歩みを止めてしまったが、セドリックは堂々と近づいていく。
「母上、お招きありがとうございます」
「王妃殿下、ご機嫌麗しゅう……」
「ほほほ、少しにぎやかでごめんなさいね」
少しにぎやか……。
王妃殿下もなかなかきつい。
「ヒューバート、エマニュエルもお座りなさい」
柔らかいけれど断固とした口調に、ヒューバートとエマもわたしたちとは別の椅子に座った。
「アーリア、今、あなたのことを話していたのですよ」
「はい……」
「ヒューバートが突然あなたとの婚約を破棄したのは、あなたがエマニュエルにひどいいやがらせをしたからだという噂が流れているの」
確かに、そういうこともあるだろう。
王立高等学園の卒業パーティーには卒業生や在校生、またその父兄や来賓などたくさんの人々がいた。衆目の集まる中で、わたしは断罪されたのだ。
ただ、早々に婚約破棄を了承したため、おそらくエマが期待していたほどの大事にはならなかったが。
「もちろん、わたくしは信じておりませんよ。あなたのことはヒューバート以上に知っていますからね」
「ありがとうございます、王妃殿下」
「いやねぇ、もうお義母様と呼んでほしいのに」
王妃殿下は、ふふと笑った口もとを扇で隠す。
「セドリックと新たに婚約したことで、あなたが王家からうとまれているわけではなく、むしろ望まれているのだと周知したはずなのに……、近ごろまた妙な噂が流行っているようで困っていたのです」
ヒューバートとの婚約を解消し、年の離れた弟のセドリックとすぐに婚約したのは、さすがに社交界のスキャンダルだろう。そう思って、わたしはしばらく社交を控えていた。
だから、あまり最新の噂は耳に入ってこなかったけれど、そんなことになっていたのか。王妃殿下がいろいろ手を尽くしてくれていたことも知る。
「王妃殿下のお心遣いに感謝いたします」
「うふふ、あなたのそういう素直なところも好きよ」
「アーリアは僕の婚約者ですからね。もう何があっても、婚約者の変更はしませんから。もちろん母上にもあげません」
セドリックが少しわざとらしい子供っぽい口調で、茶々を入れる。
「王妃様! やっぱり王妃様はだまされています!!」
その時、ヒューバートに押さえられて、なんとか沈黙を保っていたエマがついに爆発した。
「エマ、やめるんだ」
「いいえ、やめません。わたくしはもう侯爵家の人間で、あなたの正式な婚約者ですのよ。元平民だからといって、不当に扱われるのはおかしいわ」
「元平民かどうかは今は関係ない。侯爵令嬢なら侯爵令嬢らしく振る舞うのだ」
「そうよ、わかっています。わたくしは侯爵令嬢。アーリア様が身分をかさに着て、わたくしをいたぶっていたことを、公明正大に裁ける立場なのよ!」
「…………」
「ね、ヒューバート。あなたもあのころ、わたくしがどれほどつらい想いをしていたか、知っているでしょう?」
黙りこむヒューバート。
一瞬の静寂の中に、王妃殿下のひと言が重々しく響いた。
「……お黙りなさい」
そして、エマを静かに見遣る。
「わたくしが調べさせたところ、アーリアのいやがらせを証言したのは、王立高等学園の一部の男子学生だけだとか。その殿方はみな、あなたとかかわりがあることもわかっています。どのようなつながりか、今、明らかにしましょうか?」
「違います! そんなの嘘です。誰かがわたくしを陥れようとして……」
「そうね。そういう罠もあるかもしれませんね。たとえばアーリアのことも、誰かがアーリアをおとしめようと、悪意のある噂を流したのかもしれない。噂の出どころは一体どこなのでしょうねえ、ヒューバート?」
エマは押し黙り、ヒューバートは諦観の表情を浮かべていた。
王妃殿下は優雅に微笑んでいるけれど、その瞳は獲物にとどめを刺す狩人のようだった。この女性は、王宮内で一番怒らせてはいけない人なのかもしれない……。
結局、ヒューバートはエマと結婚後に臣籍降下し、次期辺境伯を拝命することに決まった。
現在の辺境伯は、ハロルド王子の妻クリスティーナの父親である。その跡を継ぐ予定なのだが……。
年を取ってからできた一人娘を王家に差し出す代わりに、クリスティーナがこれから産むであろう次男が、辺境伯を継ぐことはもう決まっている。
ただ、現辺境伯は老齢だ。ヒューバートは、現辺境伯とその孫との間のつなぎ。一代限りの辺境伯として内定したのだ。
故に、エマに子ができても跡を継ぐことはできない。むしろ、子作りは奨励されない境遇になってしまった。
辺境は国防の最前線。領地は広大だが、荒れた土地も多い。
質実剛健の気風で娯楽も少ないし、贅沢もできないだろう。エマには過酷な場所なのではないだろうか。
「ヒューバートは騎士並みに剣技の腕を磨いていると聞きましたよ。あなたにはおあつらえ向きの領地ではないかしら」
王妃殿下は優美な扇を口もとで開き、じっとヒューバートを見遣った。
「この話は内々のことですけれど、陛下も了承されています。後日、改めて辞令が出ることでしょう」
「母上……王妃殿下、寛大な計らいを感謝いたします。力の限り、名誉ある職務を果たします」
ヒューバートは深く頭を垂れた。
エマはまだ信じられないようで、ヒューバートにつかみかかる。
「ヒューバート、嘘でしょ!? わたし、田舎なんて嫌よ」
ヒューバートが反応しないことを知ると、エマはセドリックに向き直って、ひときわ愛らしく笑いかけた。
ヒロインのイメージそのものの、誰もに愛されるような明るく純粋な笑顔だった。
「ねえ、セドリック。あなたは、わたくしを助けてくださるわよね。わたくしのこと、好きだったでしょう? わたくし、これからはあなたと……」
「連れてお行きなさい」
王妃殿下の下知が、エマの媚びた声をさえぎった。ヒューバートが叫ぶエマを軽く拘束し、否応なく応接室を退出していった。
なんだかヒューバートがさらに哀れになって、さすがに手放しでざまぁみろとは思えなかった。
けれど、二人には二人の、また違った形の幸せがあるのかもしれない。
グッドラック。
わたしは人差し指と中指をクロスさせる前世の仕草で、ヒロインと元婚約者を見送った。おそらく個人的に会うことはもうないだろう……。
セドリックは不思議そうにわたしを見ていたが、わたしは何も応えなかった。少しくらい謎があるほうが、きっと飽きずにいてくれるに違いない。




