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闇き乙女  作者: 徒耀子
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第1章(1)~(11)

「姫様、帯壬たちしろ様がまた新しい妃を迎えられたそうでございますよ」

 寝ぎたなく上掛けをかぶっていた桃生ものうは、年とった侍女のその言葉でがばっと跳ね起きた。「何ですって」

「たいへんおめでたいことですわね」侍女の中で一番の古参である和可女わかめは言った。だが、年若い侍女のほうは、ちっともめでたくなさそうにあいづちを打った。

「あの兄は、いったい何人の妃を持てば気が済むのかしら」桃生はいらいらと言った。「遠征に行くたびに妃が増えていくではないの。それで、兄様はいつ戻ってくるの」

 起きあがった桃生をつかまえて、和可女はすばやく着替えをさせた。帯壬からの便りはその帰還を知らせるものであり、妃のことはほんの片隅にしかつけ加えられていなかったのだが、それをあえて持ち出すところが、さすがに侍女の古強者だった。桃生の性格をよく心得ている。

「あと三月みつきは、お戻りになられないでしょう。豊日国とよひのくにはずいぶん遠うございますから」

「そう」桃生はいらだちを抑え、平静になろうとした。和可女の術にはまり、まんまと心地よい寝床から追い立てられてしまった。

「どこの姫なの? 新しい妃になったというのは」

「国麻呂様のところの末姫ですわ」和可女は早くも朝餉の準備に移っており、桃生のそばに寄ってきたのはまだ娘と言ってよい侍女たちだった。

「国麻呂? 聞いたことがないわ」

「そうでございましょうとも。鄙びた土地の、ろくに財もありはしない貧しい里長ですもの」侍女たちの口調に非難がありありと込められていた。「その祖先は、あろうことか上様を軽んじ、謀反を企てたことがあるとか。今だって、異教を信仰しているという噂がありますのよ」

 今は日継ぎの御子としてあり、やがてすめらぎの地位を継ぐことになる帯壬命は、宮廷の女性たちの間で絶大な人気を誇っていた。その将来性がすばらしいのはもちろんのこと、見目もよく、華やかで陽気な気質である。人気がないほうがおかしかった。

 帯壬は、まほろばにある自分の宮に、すでに十人以上もの妃を迎えている。桃生が眉をひそめるのはもっともで、世間ではとうの昔に女好きの悪評が立っている。戯歌ざれうたの題材にされるほどだというのに、父である皇は、この日継ぎの御子にたいへんな期待をかけているのか、何も言わない。

「兄様には、身を慎んでいただきたいわ。印南いなみの姫が輿入れなさったときのこと、あなたたちも覚えているでしょう」印南の姫とは、記念すべき帯壬の十人目の妃である。「祝いの宴で詠まれた歌には、その種のからかいが込められた歌ばかり。特に叔父様のお歌がうけて、ふた月の間はどこへ行ってもあの歌を聴いたわ。とても恥ずかしくて、宮の中でさえ歩けたものではなかった」

「胸中お察しいたしますわ、姫様」

 侍女らは口をそろえて言ったが、それが建て前であることを、桃生はちゃんと見抜いて聞き流した。もし帯壬の妃になれるものならば、彼女らは何の犠牲も厭わないに違いない。無力な姫御子がどう思うかなど、どうでもいいに決まっている。

(この前、印南の姫を娶られたときに、もう妃は増やさないでと兄様にお願いしたのに。まるで聞いていないんだから)今度こそ次がないようにさせなくてはいけないと、桃生はかたく決意した。

 桃生自身は気づいておらず、彼女以外の者はみな気づいていることだが、桃生はたいへん帯壬を好いていた。いらだちのすべては若い侍女たちと同じ、嫉妬心からくるものだった。身内の好色なふるまいが恥ずかしいのは嘘ではないが、そのためにあれこれと骨を折ろうとするほど、桃生は外聞を気にしなかったし、繊細でもなかった。



 肥沃なこの大地を、先人は豊葦原とよあしはらと名付けた。なかでも桃生たちの祖は、一年のあいだに四つの異なる季節がめぐり、それゆえ実りが豊かになるこの豊葦原こそ桃源郷、夢の国であるとして、理想の国造りにはげまれた。彼らは天つ神と呼ばれ、古より豊葦原に住まわれていた国つ神の協力をも得て、彼らの小さな国を全土に広がる大国へと変えていった。

 それでも天つ神に反する荒ぶる神はいまだ存在し、それを平らかにするため御子たちが派遣される。彼らの力量をはかり、皇となるにふさわしいかの試験でもあった。荒ぶる神は当然討伐の将である御子の首をねらうし、それでなくても明日の命をも知れない戦の中に身を置くことになる。

 それは危険な役目であり、だからこそ得られる名声も高いのだった。討伐とは、気をひきしめてかかるものごとのはずだった。だからそれで妻を得てくるなど、もってのほかのふるまいだと桃生は思うのだが、紀伝を紐解いてみると、案外そういう色事にうつつをぬかして帰ってくる天つ御子は多かったりする。決して帯壬が特異なわけではなかった。

 しかし、それを承知したからといって、この胸のいらだちがおさまるものではなかった。桃生はずっとぴりぴりしていた。三日経ってもその状態から抜けだせず、何事にも手がつかなかった。ときどき思いだしたようにかんしゃくを起こすので、侍女たちは気をはりつめていたが、和可女は涼しい顔だった。桃生はよく眠れないらしく、いつものように寝坊をすることがなくなったし、寝床でねばることもなくなった。この姫を寝床からひきずりだす手間にくらべれば、かんしゃくなど大した問題ではないと、和可女は考えていたのである。

 このときも、侍女のちょっとした行いが勘に障り、桃生は怒りだす寸前だった。とつぜん慌ただしい足音がしたかと思うと、若い侍女が鹿のように飛びこんできた。

「何なのですか、騒々しい」眉をつり上げたのは和可女だった。桃生はふいをつかれて気がそれ、腹立たしかったことを全部忘れてしまった。

「帯壬命様がお戻りになられました」

「まだ三日しか経っていませんよ」

「でも、お戻りになられました」侍女は息を切らせ、馬鹿になったように受け答えた。

 桃生は考えるよりも早く動いていた。立ちあがって部屋を出ると、まっすぐ広場へと向かった。その後ろから侍女たちもついてくる。二番目に通る渡殿を過ぎたところで、母の氷室姫とはち合わせた。

「まったく帯壬ときたら、なんて子でしょう。こんなに早く着くなんて」予定をくるわされるのが何よりも嫌いな氷室姫は、かなりな渋面だった。

「たぶん豊日国からは、ずっと前に出発していたのですわ。あの便りを出したのは、まほろばに近づいてからのことなのよ。いかにも兄様のしそうなことだわ」

 氷室姫は眉をひそめた。「桃生、もうちょっと慎ましやかに歩けないものなの。あと、そういう顔はおやめ。みっともないですよ」

「兄様が悪いのよ。わたしのせいではありません」普段はしおらしく母親の機嫌をとる桃生も、今回ばかりは言い返した。

 日継ぎの御子の帰還を見届けようと、宮廷中の人々がつめかけていた。いつもは落ち着いて雅な神都の宮は、偲ぶ影もなかった。

 両翼を広げた殿舎の前には見はるかす広場があり、今はそこに戦支度の一行が折り目正しく控えている。彼らはたいへん静かに待っていた。それとは対照的に、正面にそびえる高殿をはじめ、左右の宮では官人たちが支度にあわただしく行き交っている。長旅から戻ったばかりの一行は消耗していて見るからに哀れっぽく、事情を知らない者が見たら、まず間違いなく顔をしかめ、宮の体制を批判することだろう。

「まあ、見てください。兄様ったら、先ぶれの使者も寄こさなかったのだわ」

「そうなのでしょうね。でなければ、このわたくしが裾を乱すことなど、あってはなりませんからね」

 氷室姫の声は並々ならぬ怒気をはらんでおり、桃生はぎくりとした。氷室姫は前庭のほうを刺すようなまなざしで見つめ、そして背を向けた。正面の宮に、氷室姫の席は用意されている。

 母の怒った背中が見えなくなると、桃生は広場を見回して、帯壬の姿を探した。一行の将である彼は、最前にいるはずであり、すぐに見つけられた。さすがにやつれて汚れている。始終浮かべているにこやかな微笑は消え、険しげといってもよい顔つきだった。

 しかし、それは見せかけに過ぎなかった。一行を迎える準備にあわてる役人たちを見つめる帯壬の目が、うれしそうに輝いているのを桃生は見逃さなかった。彼はこの状況を仕組み、おおいに楽しんでいる。

「馬鹿みたい」

 桃生は言うと、踵を返した。付き添ってきた女官がびっくりした声をあげた。

「姫様、どちらへ?」

「部屋へ戻ります。あんな兄様など、どうでもいいわ」

「上様に叱られますよ」

「叱るなら、わたしよりも兄様よ。こんな帰りかたをして。どれほど皆が迷惑したか、ちっともわかっておられないのだから」

 桃生に従いながら、若い女官は名残惜しそうに広場をふり返った。実に一年ものあいだ、日継ぎの御子の姿を見ることなく過ごしていたのだから、無理もなかった。

「あなたたちはいいわよ、残っても」桃生は気づいて、ちょっと微笑みながらつけ加えた。気に障ることが少しあるとしても、身内が好かれているのに悪い気分はしない。

「まあ、とんでもないですわ。和可女様に怒られます」

「黙っていてあげる――でも、わたしが一人で先に戻ったらばれてしまうわね。いいわ。わたしは道草をしてから帰ることにする」桃生はてきぱきと指示を出した。「あなたたちは終わったら部屋に戻って、わたしがどこかへ行ってしまって見つからなかったと和可女に報告なさい。あの人なら、わたしがどのあたりをふらついていても、すぐに見つけだすわ」

 女官の一人が首を傾げた。「それなら、姫様もご臨席なされたほうが……」

「ここに居たくないの。わたしには兄様を労うつもりなんか、これっぽっちもないのよ」桃生はきっぱりと言った。



 宮の中は、まるで人払いをしたように静まりかえっていた。帯壬の帰還のため、皆が広場につめかけているせいだ。

 これなら和可女もいないのではないかと、桃生が試しに部屋をのぞいたら、本当にいなかった。彼女も、桃生が出た後に行ったらしい。なんとなく奇妙な感じがするが、これが普通なのかもしれなかった。なにせ、日継ぎの御子が帰ってきたのだから。

 部屋にいても良かったが、桃生はそこから離れた。めずらしく無人な部屋は不気味で、心細くもあった。手近なきざはしを使って、庭へと降りる。こぎれいに植木の調えられた庭には、とりどりの花が咲きそろい、甘い芳香をはなっていた。枝にとまった小鳥がさえずっているのも見かけた。目的もなく、桃生がぶらぶらと庭を散策していると、ふいに小手毬こでまりの茂みが揺れた。

(狸、かな?)

 子どもの狸を庭で見かけたと姉が言っていたのを思いだし、桃生は足を止めて待った。

 だが、現れたのは人間だった。茂みの後ろにしゃがんでいたものが、桃生が来るのを聞きつけて立ちあがったらしい。桃生よりいくらか年上に見える青年だった。まとっている高価な着物を見れば、そうとう身分が上らしい。

 桃生は困惑した顔で相手を見つめたが、その相手も同じように戸惑った顔で桃生を見ていた。繊細な顔だちの、とてもきれいな青年だった。

 相手の顔をじっくりと検分できるほどの時間が経った頃、桃生はさすがにまずいような気がしてきた。桃生はいちおう深窓の姫であり、みだりに姿を見せていけないとされているからである。

 だからといって、いますぐ回れ右して立ち去るのは不躾ぶしつけだった。相手が何者かわからないので、なおさら下手なことはできない。とりあえず青年の顔から視線をはずし、下を向いた桃生は、青年の白い手首に御子のしるしの腕輪がはまっているのを見つけた。兄君なのだ。

(でも、どこの兄様だろう……?)同胞はらからの兄は帯壬以外にいないが、腹違いの兄となるとその数は知れなかった。覚えるように努力はしているものの、如何せん数が多すぎて把握しきれずにいる。桃生は必死になって思いだそうとした。だが、いくら考えてみても、思いあたる兄はいないのだった。

 桃生はふたたび青年の顔を見上げた。ひらめいたのはそのときだった。

明吉良あきらの君ですか? もしかして」

 明吉良の君は、厳密に言えば桃生の兄ではなかった。どこかの国からの養子で、毎日の暮らしを隠者のようにひっそりと過ごしている。公式の場であろうと非公式の場であろうと、滅多にその姿を現すことがなく、その存在は伝説化しつつあった。

 桃生は実物を目にしたことはなかった。ただ、とても美しい青年だと聞いている。

 青年はにっこりと笑った。桃生は正解したことがわかってほっとした。

「わたしは桃生と言います。ご存じないかもしれないけれど、あなたの妹です。帯壬命ならわかるでしょう? あれの実妹ですわ」

 桃生は、宮廷に迷いこんだ狸よりもめずらしいものを目の前にしているのだった。桃生は興奮して口早にしゃべったが、明吉良の君が弱ったようすでいるのに気づいて、口をつぐんだ。

「すみません。うるさかったかしら」

 明吉良の君は首をふった。そのしぐさが幼い子どものようで、桃生は思わず微笑んだ。「兄様はちっとも話されないのね。口をきかないという願かけでもしているのですか?」

 桃生が無邪気にたずねると、明吉良の君の顔がかげった。桃生は失言だったのを悟り、それと同時に明吉良の君に関するもう一つの噂を思いだした――明吉良の君はおしだったのだ。話すことはできない。

「そうでしたわね。兄様は特別なおかただったのですわね。ごめんなさい。忘れておりました」

 桃生は気まずげに謝った。明吉良の君も、なんとなく落ちこんだらしかった。庭はあいかわらず静かでのどかだったが、今はそれが重たく桃生にのしかかってくるようだった。

「あの、わたし、そろそろ戻ります。お邪魔いたしました」長い沈黙の後、桃生はやっとそれだけ言った。不作法だったが、桃生は居たたまれなさの極みにあり、そんなことを気にする余裕はなかった。まるで逃げだすように庭を後にした。

 一行の出迎えが終わったらしく、いつの間にか、宮の中には人々が戻ってきていた。騒がしくはないながらも活気にあふれ、華やいだ雰囲気に満ちている。がらんどうだった先程が嘘のようだ。

 最後のあたりから駆けだしてきた桃生は、止まって息をついた。いつもと変わりない宮中に戻ると、明吉良の君に出会ったことが、とたんに夢かまぼろしのように思えてきた。桃生はふり返ったが、そこに明吉良の君の姿はなかった。

(部屋に戻ろう)庭の植えこみから視線を移し、桃生は自分の立つ回廊のようすを見回した。

 宮中の庭は一応それぞれに区切られているものの、囲いなどがあるわけではないから、行こうとすれば別の庭へでも入れてしまう。しかし、それは礼儀に反することであり、決して誰もやったりはしない……はずなのだが。

 桃生は冷たい視線で見られながらそのあたりをうろうろし、ここは侍女たちの寮だという結論に達した。礼儀を守らなかった代償はけっこう高くついた。回廊を通る女官などの視線を背中に痛く感じながら、桃生はそそくさとその場所を離れた。

 自室に戻ろうとした桃生だったが、角を曲がったところでふと足を止めた。水の焼ける匂いがして、あたたかな空気がどこからか漂ってくる。湯屋が近いのだった。

 桃生はちょっと考えこんだ。おそらくあれは、遠征から戻った帯壬命がその疲れと汚れを落とすために準備されたものだ。

 帰還したばかりの兄には休息が必要だし、皇に報告をしなければならなかったりして、しばらく時間が経ってからでないとじかには会えない――しかし、今ならどうだろうか。

 必要なときには頭が働かず、いらないときには働く桃生であり、それで和可女をいつも嘆かせている。裳裾をさばいて、桃生はくるりと向きを変えた。立ちのぼる白い湯気を目標に、湯屋を目指す。桃生がたどり着いたちょうどそのときに、丈高い影があらわれた。いかにも上機嫌なありさまで、桃生の姿を認めると、彼はますますうれしげに目を細めた。

「このとおり無事に帰ってきたよ。わが妹君は出迎えてくれなかったようだが……」

 せせらぎのように快く響く声だった。けれども桃生は、非難をこめてさえぎった。「先ぶれの使者くらいはお寄越しになってください、兄様。宮廷じゅうの者が皆、迷惑したんですよ」

「たまには、ああいうのもいいだろう。刺激があって」

 向き合う兄妹はあまり似ていなかった。帯壬の顔だちが誰をもふり返らせてしまうほど麗しいのに対し、桃生はごくふつう程度の容姿しか持ち合わせていないのだった。兄御子と並ぶと実にそれが際だって、とにかく地味な感じのする娘なのだが、帯壬の影にかすんでしまうということだけは不思議となかった。

「帯壬様、急がれませぬと。皇がお待ちにございます。姫様もお気持ちはわかりますが、どうぞ後になさって――」付き従っていた従者が急かしたが、帯壬はどこ吹く風だった。

「堅いことを申すな。じつに一年――いや、それ以上のあいだ会っていなかったのだから」帯壬は桃生の頭をなでた。彼は背が高く、桃生は兄の胸のあたりまでしかとどいていない。「大きくなったようだ。たしか桃生は、この月で十七になったのだったね」

「十五です」桃生は訂正した。「兄様がお年を召されているからといって、わたしまで一緒に老けさせないでくれます?」

 帯壬はその見た目よりも年を取っていて、そろそろ三十路に近かった。宮中の年齢層から考えると若造のようなものだが、桃生から見れば立派に年寄りだった。

 桃生のその発言に、帯壬の後ろで控えていた従者は眉をひそめたが、言われた本人は愉快そうだった。「桃生姫はなにやら機嫌がお悪いらしい」

「新しい妃を娶られたそうですね」桃生は気持ちを静めて言った。

「ああ、そうだけれど」

「どういうことなのですか。もう妃は増やさないと、印南の姫のときに約束してくださったでしょう」

 桃生がしかめっ面ですごむと、帯壬はきょとんとした表情になった。――忘れていたらしい。

「信じられない」

「もしかして、妬いている?」

「馬鹿おっしゃらないで。誰がやきもちなど焼くものですか。恥ずかしいのよ。身内が、しかも同胞はらからの兄が、十数人もの妻を持っているなんて。自分がどういうふうに言われているか、兄様はご存じ?」

「もちろんだとも。たいていおもしろいものばかりだが、三年前に市で流行った戯れ歌は傑作だったね。あれが一番気に入っている」

 帯壬は、にこにこと笑いながら言った。いきなり帰ってきて皆を驚かせるといういたずらが成功したためか、たいへん機嫌が良かった。

「それが、どれだけわたしの評判に響いていると思うの」

 桃生が怒鳴ると、帯壬はたちまち笑みをひっこめ、きまじめな顔になった。「すまない。おまえがそんなに奥ゆかしい娘だったとは知らなかった」

「わざとらしい。兄様、ふざけているでしょう」

「たまに真剣な顔をすると疲れるねえ」帯壬は認めて、いつものような楽しげな顔に戻った。

「新しい妃って、どんなかたなの?」桃生は詰問口調でたずねた。

「さあ。桃生があのかたをどのように思うかは、わからないね。わたしは好ましく思うけれど」

「美人?」

伊志治いしじは、稀に見る美女だと誉めていた」誰も言わないことだが、美しいものに対する帯壬の感覚はかなりずれていた。美女を不細工というときもあったし、その逆もしばしばだ。よって彼の妻たちの中には、絶世の美女もいれば、むくつけき醜女しこめもいたりする。桃生にはいまいち理解できない現象だった。

 しかし、兄の部下の中でもまともな見解をもつ伊志治がそう言うなら、本当に美しいのだろうと桃生は考え、それはそれでおもしろくなかった。

「桃生、今宵は空いているか。できれば早いうちに、おまえと速津はやつ姫を引き合わせたいと思っているのだ」

「暇です」桃生は息巻いて答えた。こうなったら新しい妃とやらを、一刻も早く検分してやらなければ気が済まなかった。

「では、時間になったら使いをやるから――」言いさした帯壬は、ふと言葉をとめて微笑んだ。「お迎えだ」

 桃生が嫌な予感にふり向くと、そこには和可女が厳めしい形相でたたずんでいた。

「帯壬様、申し訳ございませぬ。わたくしが至らないばかりに姫様が――」

「構わぬ。こちらのほうがかえって息抜きになるくらいだ」

「それならばよろしいのですが。失礼させていただきます」

 和可女に連れられていく桃生を、帯壬は同情のこもった瞳で見送った。



 自室に戻り、人に聞かれないような奥まった場所へ桃生を連れていくまで、和可女は一言も言わなかった。だが、説教の準備がきちんと整ったが最後、その口はなかなか止まらないのだった。

「まったく、何をなさっておいでなのですか。帯壬様はお疲れなのですよ。そのくらいのことはおわかりでしょう」

「新しい妃のことをお聞きしたかったのよ」

 和可女は肩を怒らせた。「湯屋に行かれる方を待ち伏せなんて、はしたないにもほどがあります」

「話していないのに、よくわかるのね。もしかして和可女もやったことがあるの?」

 桃生が聞きとがめると、和可女は咳払いを一つしてごまかした。

「帯壬様が妃をいくらお迎えになろうと、姫様には関係のないことです。それで文句を申し上げるなど、もってのほかのふるまいでございますよ」

「関係はあるわ。家族なのだから。兄様に悪評がたてば、わたしにも影響があるのよ」

「姫様はじゅうぶんに悪評がたっておりますゆえ、少しぐらい悪いうわさが増えたとしても変わりはありますまい」

「まあ、ひどいわね。わたしの評判は悪くなんてないわよ」

 言うと、和可女はかなり怪訝そうな顔をした。桃生はひるんだが、胸を張って言った。

「だって、やましいことは何一つしていないもの」

「本当にそう思われるのでございますか?」

「ええ」

「……そう思えるうちが花なのかもしれませんね」和可女はため息とともにつぶやいた。

 攻撃の手がゆるんだのを見てとり、桃生は言うべきことを言ってしまおうと考えた。今言えば和可女の怒りを逆なでするのはわかっているが、ずっと黙ってられることではなかったからだ。後で聞かされたら、和可女はもっと気に入らなくて怒るだろう。

「わたし、今日は宵の頃になったら兄様のところに行くの。覚えておいてね」

「なぜです?」

「速津姫に会うの。どんなかたか、この目で見てくるのよ」

 和可女は皺の深く刻まれた眉間を押さえた。しばらく経って、腹を決めたように桃生を見据えた。「姫様は、もう大きくおなりなのですから、ご自分の立場というものをわきまえてくださらなければ。あなたは帯壬様の妹君であって、他の何でもありません。そのことを真に自覚なさってください」

「何を言っているの」桃生はびっくりした。「妹でなければ、わたしは兄様にとって何だと言うのよ」

 それは和可女にもよくわからないところだった。単純に見れば、桃生は帯壬を慕っており、帯壬も桃生をいたく気に入っている――という、貴人にはありがちな兄妹同士での恋愛図式が展開されており、たいていの者は二人の御子をそのように見ている。けれども、どこかおもむきが違うことを、年季の入った和可女は見抜いていた。どんな規則やしきたりがなくなり、縛るものが消え去ろうと、帯壬は決して桃生を妃に望むことはないし、桃生も妻の座を欲したりはしない。

「妃のかたがたは、姫様の存在をたいへん好ましくないものと考えておられるのですよ」和可女はよくよく考えて、これだけ言った。「敵をつくるのは良くないことです。御身に危険が及ぶこともあるでしょう。出過ぎた真似をなさってはなりません。もちろん今宵、速津姫にお会いになられるときもですよ」

 普段とはやや様子が違う和可女の説教を、桃生は静かに聞いていた。そして最後に、悩んでいるふうにたずねたのだった。

「ねえ、出過ぎた真似というのは、どういうのを言うの?」



 速津姫は床に指をつき、深く頭を下げた。床は完璧に磨きあげられており、ゆれる灯火のもと、姫自身の姿を鏡のように映しだしている。

 速津姫が顔を上げると、念入りに梳いた黒髪がさらさらと肩にこぼれ落ちた。目の前の御座みましには、帯壬がくつろいだふうに座っている。戦乱の最中にあってさえ麗しかった御子は、旅の汚れをすっかり落とし、いちだんとその輝きを増していた。御子の隣には娘がおり、玻璃の瓶を傾けて酒をそそいでいた。速津姫は身を強ばらせた。娘のその服装や、おざなりな給仕の手つきなど――どう見ても、娘は侍女のたぐいではなかった。

「野の原で駆けるあなたも素敵だったが、宮廷風のいでたちもお似合いになる。わたしは幸せ者ですね」帯壬の声音はそよぐ風のような響きを持っていた。

 正体のわからない女の存在に脅威を感じていた速津姫は、褒められても受け答えるどころではなかった。娘の手つきはかなり危なっかしく、いまにも酒をこぼしそうだ。帯壬はとうとう娘から瓶をとりあげた。

「これは妹です。あなたに引き合わせたいと思い、この場に参上させたのです。ご覧のとおり不出来ですが――」

「桃生と申します。豊日国からいらした義姉様ねえさま

 初めて速津姫のほうを向いた桃生は、にっこりと微笑みながら姫の姿形をつぶさに検分した。緊張のし過ぎか、顔色がやや青ざめているものの、隠れもない美人だった。全体的にふっくらとしていて、柔和な顔だちが気だての良さをのぞかせている。

「まあ――あなたが桃生姫。あなたのことは、帯壬命様がよく話してくださいました。わたくしもお会いしたいと思っておりましたのよ」妹御子が兄御子に少しも似ていなかったので、予想がつかなかったのだ。速津姫は、らちもないことを考えていた自分にどきどきしながら、あわてて答えた。

 しばらくの間は、帯壬が速津姫に語ったという、桃生が幼い頃の出来事などの他愛ない話が続いた。桃生は宮廷人の常として、始終にこやかにしており、速津姫に対する敵意などはおくびにも出さなかった。しかし、速津姫はかすかに感じるものがあるのか、強ばった態度だった。帯壬ただ一人のまわりを除いては、座敷の雰囲気は張りつめるようだった。

「わたし、そろそろ退室いたします。おやすみなさい、おふたかた」桃生はいきなり話を打ち切って立ちあがった。気がつけば、月の位置がだいぶ高くなっている。

 あたりは暗かったが、桃生が灯火のそばを横切ったとき、彼女の裳の鮮やかな色合いがはっきりと浮かびあがった。それは鮮烈に速津姫の目の中に焼きついた。美しくこそないものの、桃生には独特の愛嬌があった。表情や言葉のふしぶしにそれがにじみ出ていて、たいへん好感が持てる娘だった――敵意さえ持たれていなければ。

「宮仕えの女官に、どの妃よりも妹姫様のほうが手ごわいと言われたのですけれど、本当ですわね」桃生の姿がすっかり見えなくなると、速津姫は微笑んで言った。

「とんでもない。もっと恐いのがおりますよ。毒を盛ったり、刺客を放ったりとか。桃生がやるのはせいぜい嫌がらせ程度でしょう」

 速津姫はまた笑った。「桃生様に甘くていらっしゃる。帯壬様のそういうところが、桃生様を手ごわくさせているのですわ」

 帯壬はたわむれるのをやめ、静かに杯を置いた。

「あなたはわたしについてきてくださった」微笑むのをやめると、帯壬の顔はとたんに寂しげで幼く見えた。「もう故郷に戻ることはできません。同郷の人々はあなたを罵っているでしょう。すべての絆は断ち切られ、あなたは独りになってしまった」

「言わないで――わたくしが望んだことです。あなたの力になれるのならば、わたくしの身など、どうなろうと惜しいものではありません」

 速津姫はそっと帯壬の手に触れた。今の日継ぎの御子は、玻璃の瓶よりも傷つきやすい壊れ物のように見えた。

「国つ神の姫よ、あなたが幸せになるようにと願っています。けれども、そうなる日が来ないことを知っている。わたしには多くの妻がおり、そしてこれからも妻を迎えていくことでしょう。わたしはあなたに誠をしめすことができない。思わずにはいられないのです。わたしはあなたを不幸にしているだけではないのかと」

「あなたには果たすべきさだめがあるのですもの。わたしは承知しております。だから、どうぞ気に病むのはおやめください」

 姫は優しく言ったが、天つ御子の翳りは深まるばかりだった。

「ときどき――どこまでがさだめなのか、わからなくなります」帯壬は速津姫を抱き寄せてつぶやいた。

「そう、ですわね。神々のご意志に比べれば、わたくしたちの心などは無いに等しいのでしょう。しかし、わたくしが今ここにいること、あなたをお助けすると決めたこと、それにはさだめでないものが含まれていると信じています。たとえわずかでも、わたくしの心があったと……」

「きっとそうでしょう。あなたはお強い。さだめにふりまわされてばかりではないはずだ」

「そんなことはありません。本当はとても弱いのです。いつでも恐くてしかたがないの」

「何が恐いと、申される?」帯壬は屈みこむようにして速津姫の顔をのぞきこんだ。

 姫は少しためらっていたが、体を預けてささやいた。「お仕えしていた神を裏切ったこと――そしてその報復が、あなたに及ぶのではないかということです」

「そのくらいの危険は、わたしが身に引き受ける必要があるでしょう。他で楽をしているわたしなのだから」

 そう言った帯壬の口調にはいくらか明るさが戻っていた。速津姫は帯壬の首に腕をまわし、噛みしめるように言った。

「いいさだめですわ。わたくしにはあそこから飛びだす勇気などなかった。さだめがなければ、わたくしがあなたについていくことは叶わなかったでしょう――あなたをどんなに愛しく思っていたとしても」



 初春とはいえ、吹きぬける風は冷たく、野原で屈みこむ者たちのようすは哀れなものだった。空はどんよりと重くたれこみ、今にも雨が降り出しそうだ。姉の中角なかつのは、忌々しげに天を仰いだ。

「ああ、いやだ。若菜摘みの日が、よりにもよってこんな陽気なんて。凍えてしまいそうよ」

 中角姫は父親似で、その凛々しいまなざしが彼女を賢げに見せていた――実際の姿はそれと程遠かったけれども。

「どうしてこんな行事があるのかしら。煩わしいったらないわ」

「この一年の健康と、長寿のためです。煩わしくなどありません」そばにいた侍女がぴしゃりと言った。賛同してほしかった中角は、不満げに頬をふくらませた。桃生と中角はまるで外見の似ていない姉妹だったが、こういう顔のときだけはそっくりに見えた。

「七草の粥が万病を防ぐなんて大嘘よ。粥を食べたのに、わたし、去年は風邪をひいたもの」

「それは姫様がきちんとなさらないからでございましょう」

「ええ、そうよ。でも、そこをどうにかするのが、七草の効能なのではなくて?」

 中角は言うと若菜を入れた籠を放りだした。桃生も便乗して、自分の手籠を投げ出す。

「姉様、今年は恋人に七草を贈らないの?」

 桃生がたずねると、中角は首をすくめた。

「君がため――というやつね? もう、やらないわ。つまの数が増えてしまって増えてしまって、全員に贈ろうと思ったら一日じゅう摘んでいても終わらないわ。数人だけに贈るのでは、角が立つし」

 帯壬と毛並みは違うものの、中角姫もかなりの美人だった。もっとも、華々しい宮廷に置いては、美しくない者を見つけるほうが難しかった。桃生はいつもそれで引き比べられ、肩身の狭い思いをするのだった。

 二人の姉妹は、すっかりやる気のないようすで地面に座りこみ、おしゃべりを始めた。侍女は害もないと思ったのか、姫を放って、同僚たちのところへ行ってしまった。

 桃生と中角が話題にしたのは、新しく兄の妃になった速津姫のことだった。遠国から来た速津姫は、家柄も何も謎につつまれていた。情報通の中角はそれなりのことを聞きこんでおり、彼女の話によると、速津姫の祖先が逆賊だという噂は本当のことらしい。

「めずらしくはないわ。この大和にだって始まりがあって、もとは小国だったんですもの。戦をして、いまのような大国になったのよ。豪族というのは、実際には大和に敗れて滅んだ国の王族なの。だから、宮廷を歩いていれば逆賊の子孫にいくらでも行き当たれるわ」

 中角にしては知的な物言いだった。桃生が感心して見返すと、姉はげんなりと言った。「三日後に試験なの。これが出るのよ」

「わたしもそうだわ。明後日、計算の試験が」嫌なことを思い出し、桃生はため息をついた。

「頑張ってね」

 中角は疲れたようすで言った。励まされるどころか、ますます滅入ってくる桃生だった。(姉様の年になっても、まだ学んでいなければならないのよね……)

 中角は大きく伸びをして、気持ちを切り替えるように口を開いた。「速津姫のことだけど――なかなかおもしろい話を聞いたのよ。ほんの噂だけれどね」中角はそこで声を落とした。「彼女こそが反乱を企てていたというの。昔の話でなく、現在のことよ。速津姫は巫女で、たくさんの者達が従っていたのですって。そこへ兄様が行かれて、速津姫を娶り、騒ぎを鎮めたとかなんとか――」

「速津姫が謀反人? そんなのあり得ないわ。謀反人は縛り首でしょう。妃になるのではないわ」

「謀反で日継ぎの皇子の妃になれるのなら、皇に反旗をひるがえす者が続出してしまうわね」

「冗談はやめてよ。その話、本当なの?」

「噂だと言ったでしょう。真実のほどはわからないわ」

「でも、それが本当なら――兄様は、速津姫を征伐しに行ったということ?」

 桃生のしつこさに中角は閉口した。「おまえ、変なところでまじめな子ね。単なる噂よ。深く気にすることではないわ」

「だって、謀反といったら大事でしょう」姉の無関心なようすに、桃生は驚いた。

「そうでもないわよ。豊日などの東国はまほろばから遠すぎて、支配が行き届いていないのが現状だし」

「でも、それが妃になるなんて――父様はなんとおっしゃっているの?」

「噂ごときでは何もおっしゃらないわよ。だいたい、明吉良の君を御子にした父様なのよ。言えた立場ではないわよ」

「明吉良の君? どうして、いきなり明吉良の君が出てくるの?」

 中角は意外そうに首を傾げた。「あら、知らなかったの? 彼の親はふたりとも謀反人なのよ。昔、まほろばの北に佐保という国があって、明吉良の君の父君はその国の王だったのですって。つまり、明吉良の君は亡国の御子というわけ」

 桃生はぼうぜんとして言った。

「全然、知らなかったわ……」

「ずいぶん驚いているようだけれど。明吉良の君がどうかしたの?」

「わたし、このあいだ、明吉良の君に会ったの」

 桃生の心に真っ先に浮かんだのは、彼の子どものような笑顔だった。隠者のような寂しい暮らし、唖で話すことはできず、そして親は罪人。なのにどうして、彼はあれほど清々しく笑うのだろうか……

「まあ、すごいわ。わたしもまだ会ったことがないのに。どうだった? 噂どおり、美形だった?」

 中角ははしゃいで聞いた。桃生はなんとなく食い違うものを感じながら答えた。

「うん、きれいな顔をしていた」

「どこで会ったの? わたしも会えるかしら」中角の声は急に春風のようになり、曇天の下で聞くと非常に妙だった。

「庭にいたら、たまたま会ったのよ。運が良かっただけだわ」ころりと変わった姉のようすをいぶかしく思い、桃生は慎重に言った。

「では、わたしのほうから訪問してお会いしましょう」

「なぜ?」

「だって、明吉良の君はきれいなのでしょう? ぜひとも仲良くなって、手元に置いておきたいわ」

 桃生は思いきり顔をしかめた。帯壬の妃騒動にとりまぎれて忘れていたが、中角もかなりの好き者なのだった。

「不満そうね。まさか桃生は、兄様だけでなく、わたしのことにまでやきもちを焼くの?」

「姉様にはたくさんの相手がいるでしょう。それを増やさなくても。さっきだって多すぎて困るとこぼしていたじゃない。それに、明吉良の君は謀反の子なのだから……」

「皇族の養子になった時点で、そんな汚名はすすがれていてよ」

「明吉良の君は唖だわ。しゃべれないのよ」

「静かな人っていいと思うわ」

 あれこれと押し問答を続けた結果、桃生はがっくりと肩を落してうなだれた。「顔さえ良ければ、姉様はそれでいいの?」

「熱心に止めるわね。もしかして、桃生……」中角の顔がみるみるうちに楽しそうなものになった。桃生が何も言っていないのに、一人で知ったふうにうなずいている。「それならそうと早く言いなさいな。わたしはおまえの姉なのだから、協力は惜しまないわよ。明吉良の君のことは残念だけれど、おまえに譲りましょう」

「あのね、姉様……」

 桃生は止めようと試みたが、無駄だった。

「桃生は年頃だというのに、ちっともないようだから、姉様はこれでも心配していたのよ。わかったわ。必ずやこのわたしが、おまえの想いを成就させてあげる。大船に乗ったつもりでいてちょうだい」

 中角が大きな声を出したので、まわりの者達が顔をあげ、不審そうな視線を向けた。桃生はあわてて中角を押さえこんだ。

「姉様、やめて。余所のおかたも来ておられるのよ」

「あら。こうやって知らせておくことが、明吉良の君に対する手出しの牽制になるのよ」

「牽制なんてしなくていいの。明吉良の君なんて、何とも思っていないわ」

 中角はまじめな顔で諭した。「こういうときは素直にならないとだめよ、桃生」

「だから違うんだってば」

 しかし、時はすでに遅く、人々の好奇心に満ちたまなざしで桃生を見ていた。

(宮廷人って、どうして、こういう話が好きなんだろう)桃生は頭を抱えこみたい気分だった。宮中に戻ったとき、その話でいろいろと言われるのが、今から目に浮かぶようだった。桃生は繊細ではないが、やはりそういうのは気持ちよくない。

 中角が閃いたように言った。「七草を摘んで、明吉良の君に贈るといいわ。訪ねるときの口実にもなるし」

「姉様、あちらに行きましょう。ここの若菜はあらかた摘んでしまったわ」すぐさま中角を黙らせる方法が思いつかなかった桃生は、苦しまぎれにそう言って、姉をなるべく人気のないほうへひっぱっていった。



「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。うぶな子ね」

 中角はうれしそうに桃生をからかった。「若いというのはいいことだわ。わたしも恋をするけれど、そういうときめきって、もう感じないものね」

 若さが幼稚かどうかということであれば、こんなことで喜べる中角のほうが自分よりずっと若者だと思いながら、桃生は突き進んでいった。桃生が何を言っても、いまの中角は勝手に解釈して楽しむのだから、話さないのが賢明だった。

 人々のいる場所から離れると、野原はどんどん暗くて寂しいものになっていった。陰気に思えたあの野原がどれだけ賑やかだったか、桃生たちは今になって思い知った。日当たりが悪いのか、生える草は小さく、いじけたように地面に貼りついていた。若菜はまったく見あたらない――もっとも、見かけたとしても摘むつもりはなかったが。

「どこまで行く気なのよ」中角が言い、桃生はやっと足を止めた。気がついてみれば、桃生の息は切れていた。自分のことなのに気づけないのはおかしいようだったが、それほどあわてていたのだという証だろうか。

「重ねて言うけれど」桃生は息を整えてから中角のほうをふり向き、強い口調で言った。「明吉良の君のことは、わたし、本当に何とも思っていないから。妙な噂がたつようなことはやめて」

 中角はくちびるの端をつり上げて微笑んだ。きりりとした顔の中角がこういう笑みをすると、いかにも艶っぽく見えた。「わかったわ」

 本当にわかったのかどうか、かなりあやしいところだったが、桃生には追求することができなかった。とつぜん風が吹きすさび、さえぎる木立のない野原で、桃生たちはまともに冷たい風にさらされた。

「戻りましょう。本当に雪でも降りそうだわ。そろそろ若菜摘みはお終いになって、暖かい宮に帰れるころでしょう」中角は寒そうに着物の袷をひきよせた。

「賛成――でも、わたしたち、どこから来たのだっけ?」

 桃生はあたりを見回してたずねた。何にもない野原をただ横切ってきたはずなのに、若菜を摘む人々の姿は見えず、方向の見当もつかない。

「桃生、おまえが連れてきたのでしょう」

「ごめんなさい。さっきまではちゃんとわかっているつもりだったんだけど――」

 そのとき、中角がはっとしてさえぎった。「黙って」

 聞こえてくるのは吹きつける風の音ばかりだった。桃生は寒さに震えたが、中角は身じろぎもしなかった。気を張りつめ、じっと耳をそばだてている。

「姉様、どうしたの?」

「なんということなの――神の森が近くにある」中角の顔色が変わっていた。ひどく青ざめており、それは寒さのためばかりではなかった。

「神の森って何?」

 わからない不安を感じながら桃生はたずねたが、中角にはかまう余裕がなかった。「逃げなくては」

「え? 逃げる――?」

 桃生は驚いて聞き返した。何がそんなにまずいのだろう。それに、一体何から逃げるというのか。

 中角は桃生を引き寄せると、その耳元で低くささやいた。

「走るわよ。わたしの後ろからついてきて。絶対に遅れたりしないように。それと、なるべく息をしないで。話すのも、もちろん禁止」

「走るって……ここがどこだかわかったの? 皆のところにちゃんと戻れるの?」

「ここから離れることが先決なの。あとはどうにでもなる」

 いつにない姉の迫力に、桃生は圧倒されてうなずいた。中角が走りだし、長い髪と裳裾がひるがえる。普段のようすからは想像できないすばやさだった。ひきずるような長さの裳は、どう考えても走るには不向きだった。桃生は裾を踏んづけて転びそうになりながらも、あやかしのように前を行く中角を追いかけた。

 次第に息が苦しくなっていく。しかし、中角は走りつづけ、桃生のこともふり返らなかった――平気だと思っているのだ。運動など滅多にしない宮廷の生活で、姉がなぜこんなに速く駆けられるのか、桃生には不思議でたまらなかった。何かがおかしい。

 桃生は木の根に足をとられてよろめいた。いつの間にか、あたりは鬱蒼と茂る森になっていた。転びはしなかったものの、桃生には走りだすことができなかった。木の幹によりかかり、あがった息を鎮める。頭はがんがんと鳴り響き、胸には穴が空いたようだった。

 桃生が休憩していたのは、そんなに長い時間ではないはずだった。けれども、顔をあげて見回したとき、中角の姿はどこにも見あたらなかった。

(どうしよう……はぐれてしまった)

 桃生は泣き出したくなった。彼女が逃げてきた野原は陰気なだけだったが、この森には無意識に鳥肌が立つような恐ろしさがあった。木々の梢が空を分厚く覆いかくし、空の切れ端さえ見えなかった。たとえ曇り空であっても、この森とは違う場所があるということがわかれば、ずいぶんと慰められただろうに。

 直立する木々は静かな威圧感を放ち、桃生は押しつぶされそうだった。逃げだしたかったが、どこに行けばいいのかわからなかった。間違って進んで、より恐ろしい場所に足を踏みこんでしまわないだろうか――

 おびえながらも、桃生は少しずつ歩いていった。ここに居続けるのは危険だった。さだかな理由はなかったが、桃生はそう強く感じていて、中角がどうしてあれほど取り乱したのかわかるような気がした。ここは危険だ。

 しかし、進めば進むほど孤独感はつのり、じわじわとした恐怖が桃生を苛んだ。体中から汗が噴きだし、手足は小刻みに震え、立っていられないほどだった。(誰でもいい、誰でもいいから現れて――)この際、追いはぎや人殺しであっても、現れてくれるなら何でもよかった。一人でここに居ることにくらべれば、どうということはない――今の桃生には心の底からそう思えた。

 くじけずに歩き続け、桃生がやっと暗い森の中に見いだしたのは、おすいを被った小さな姿だった。顔が隠されているものの、衣からわずかにのぞく手を見れば、たいそうな年寄りであることがわかった。

 桃生はほっとなって駆けよろうとしたが、そのとき、急に小さな影がこちらを向いた。

「そなた、天つ神の血を継いでおるじゃろう」

 低くしわがれた声だった。この森の空気によくなじみ、溶けこんでいくようだ。けれども恐ろしくはなく、むしろ親しみを感じられた。桃生はさらに安堵して打ち明けた。

「言われるとおり、わたしは皇の者ですわ。ここから近い野原で若菜摘みをしていたのですけれど、皆からはぐれて、迷ってしまったんですの。どうか助けていただけないでしょうか」

「若菜摘み。確かにあそこでは良いものが育つ。この森から風に流れる気を吸いこんでおるからのう。じゃが、いい加減にして余所に行けばよいものを」

「どうしてですか?」落ち着いて余裕の出てきた桃生は、これは変なお婆さんだと思いながらたずねた。

「そなたのような迷い人が出るからじゃよ。そして、たいていは助からぬ。そなたはまことに運がよい」老婆が桃生のそばにやってきた。「ついておいで。送ってゆこう」

 しかし、桃生は行けなかった。老婆の「助からない」という一言に囚われていた。「姉が――わたしのほかに姉も迷っているのです。最初は一緒だったのですが、わたしがついていけなくて……今頃、気づいて探しているかもしれない」

「そなたの姉というのは誰じゃ?」

「中角姫です。母は氷室姫――」

「そのようなことは聞いておらぬ。どういう見目かと聞いておる」

 桃生は動転する気持ちを抑え、中角の特徴を答えた。「わたしより四つ年上です。背も高くて――頭の良さそうな顔をしています。皇に似ています」

「その者は、森に入りこんでおらぬ。近くにはおったが。そなたはどうやら、姉とはぐれた後に森に迷いこんだようじゃな」

 中角が無事と聞いて、桃生は胸をなで下ろした。「よかった――」

「二人でともにおって、自分だけ迷うとは、運があるのかないのかわからぬ子じゃ」老婆は言ったが、桃生の顔をよく見ると訂正した。「――いや、そなたのほうが血が濃いゆえに呼ばれたのじゃな」

「血が濃い?」

「そなたは天つ神じゃよ。この御代の天つ神は、皇と日継ぎの御子のみかと思うておったが、違ったようじゃ。この森の神が放っておかぬはずじゃ」

 老婆はそれきり黙ってしまった。ついてくるように桃生を目でうながし、足音をたてずに歩きだした。桃生がなんとなく悪いことをしたような気分になって歩いていると、老婆が急にふり返った。

「手をお貸し。確かめたいことがある」

 桃生がおとなしく従って手を出すと、老婆は桃生の中指の腹に爪をくいこませた。あっという暇もなく、桃生の指先は切れ、血の粒がふくらんだ。

 流れた桃生の血を見つめ、老婆がぽつりとつぶやいた。「くらの色じゃ」

「赤いですよ」桃生は思わず言ってから、そういう問題でないことを思いだして抗議した。「いきなり何をするんですか」

「言ったじゃろう。確かめたのじゃ。もしやと思ったら、そなたはやはりくらき者じゃった」

「くら――何ですって?」

 桃生は聞き返したが、老婆は懐かしむように言うばかりだった。「無事に成長した闇き者に会うのは本当に久しいことじゃ。そなたの力がわずかゆえ、誰にも見あらわせなかったと見える。よくぞ生き延びたものじゃ」

「放してください。放して」桃生は脅威を感じて抗った。この老婆も危険だ――逃げなくては。

 老婆を乱暴にふりほどき、桃生は走りだそうとしたが、意識はそこで途切れた。視界がぼんやりとして何も見えなくなる――



 目を開けると、のぞきこんでいるのは和可女だった。その背後には中角と母がいる。柱に身をもたせかけているのは帯壬で、落ち着かないようすで外を見ていた。

「姫様。お気づきになられましたか」

 全員が一斉に桃生のほうを見た。誰もが心配そうな顔をしていたが、桃生の心はうつろで、気づくことはできなかった。皆がいる、ということだけしかわからなかった。頭の中に靄がかかったようで、何も思い出せなかった。

(どうして、わたしは寝ているのだろう……)

 いろいろと変だった。自分が寝ているのもおかしいし、桃生の部屋に皆がこうやって集まることは絶対にないといってよい。

「これは夢なの……? わたしはまだ眠っているのかしら……」

「ごめんなさい、桃生。わたしが気づかないで置いていったばかりに……きっと、ひどい目に遭ったのでしょう」

 泣きだした中角を押しとどめたのは帯壬だった。彼は桃生のかたわらに寄り添い、優しく微笑んだ。

「ああ、そうだね。桃生の言うとおり、すべては夢だ。お眠り。そして、忘れてしまいなさい」

「計算の法則とかも? 明後日、試験なのだけど……」

「いいよ、忘れて。兄様が代わりにやってあげる」

「うん……」桃生の体は疲れ切っており、目をつぶると、ぬるい眠りにひきこまれていくのがわかった。

 帯壬が桃生の頬をなでていた。それはたいへん心地よく、桃生は安心して眠ることができた。



 桃生は、若菜摘みの、あの凍るような寒さのために熱を出して寝込んだが、二日も療養するとすぐに良くなった。他に変わったことはなかった。あの森を思い出してうなされることもなかったし、妙な老婆のこともほとんど忘れていた。いや、完全に忘れ去っていた。

 麗らかな春はあっという間に過ぎて、雨がしとしとと降り続く梅雨がやってきた。それも終わると、今度は、日差しが日を増すごとに強く照りつけるようになる。昼顔が淡い色合いの花をつけ、蝉が鳴きはじめた。熱気が体中にまとわりつき、夜でもその蒸し暑さは変わらない。

 その日は闇夜だった。宮中ではつごもりが忌まれており、桃生も好きではなかった。晦の日には決まって誰かが宴を催す。宴で一晩中騒ぎ続けることで、月のない夜をやり過ごすのだった。

 宴の会場へ向かうため、桃生が回廊を渡っているときだった。侍女の持っていた手燭の炎がふっと揺らいで消えてしまった。あたりはたちまち暗くなる。

「まあ、たいへん。代わりを持って参ります」

「火打ち石は? 持っていないの?」

「申し訳ございません。すぐに戻りますから、姫様はここでお待ちくださいませ」

 暗い場所に一人で残されるのは嫌だったが、桃生がそう訴える暇もなく、侍女は姿を消していた。裳をすそびく音だけがさらさらと聞こえる。

(少しの明かりもない中を、よく歩けること)桃生は感心して思った。聞こえてくる裳のこする音は一律で途切れがなく、あの侍女は転ぶどころか躊躇もしないで、目のきかない暗闇の中を突き進んでいるらしい。

 右手のほうから楽の音が聞こえ、宴は始まってしまったもようだった。侍女が戻ってくる気配はなく、桃生は風に流れてくる喧噪に耳を傾けた。今日は帯壬も笛を吹くと言っていたから、彼の奏でる音が混じっているはずだった。曲は語り物のようで、時折歌声が聞こえた。

(あ、これかな。兄様の笛の音は)聞き覚えのある音色を聞きつけて、桃生が思ったときだった。何者かが、桃生を捕らえて押さえこんだ。まるで闇が実体をもって現れたようだった。

 桃生が無我夢中で暴れると、相手の腕はかすかにゆるみ、桃生はその隙に突き飛ばして逃げだした。しかし、それで終わりではない。相手はまだ追ってくる――知り合いが悪ふざけをしただけではないかという希望はこれで吹っ飛んだ。相手は何も言わずに追ってくる。かすかな足音と息づかいが背後から迫ってきた。

「誰か! 誰か助けて!」桃生は叫んだが、駆けつけてくれる者はいなかった。楽器の優雅な調べがいやにはっきりと聞こえた。



沙流さる王の命により、おぬしを助けに参った。わしは大鷹と申す」そこには一つの明かりもなく、体の中まで入りこんでくるような濃厚な闇に包まれていたが、男の目は目的の青年をしっかりと見据えていた。

 大鷹は青年の顔に理解が浮かぶのを待っていた。けれど、いつまで経ってもその兆しはあらわれず、青年は強ばった顔つきで奇妙な男を見つめ返している。

「おい。そんなおびえた目をするな。いくらわしでも傷つく」男は弱った気色で頭をかいた。「覚えておらぬのか? 明吉良、わしだぞ。幼いおぬしとよく遊んでやったではないか――まあ、おぬしがまだ三つのときの話だからな。覚えておらぬのも無理はないか」

 すると、淡い瞳に映る戸惑いはそのままだったが、明吉良は関心を惹かれたように大鷹を見上げた。そのようすを見てとり、大鷹は熊のような顔をほころばせた。

「道すがら、話すとしようではないか。今は時間がないからな。行くぞ」

 部屋から回廊へ出ても、やはり真っ暗闇だった。しかし、大鷹は太陽の下と変わらない歩みで進んでいく。明吉良もたいして苦労せずについていくことができた。

 大鷹は侵入者でありながら、まるで宮廷人であるかのように堂々としていた。彼は宮廷風の装いを整えており、そう簡単に暴かれる恐れはないのだろうが、それにしても大胆不敵だった。皓々と照らす篝火かがりびの前をためらうことなく通りすぎ、一度などは宴の会場のすぐそばまで近づいた。

 明るさの中で見えた大鷹は、肩幅のがっちりとした偉丈夫だった。背は仰ぎ見るほどに高く、かたわらを歩く明吉良がまるで子どものように見える。大鷹は機嫌良くしゃべっていた。

「大和での生活はどうだった、明吉良。これだけの歳月が経つまで何の手も打てず、おぬしを助けられなかったこと、沙流殿はたいそう悔やんでおられる。間もなく面会するであろうから、そのときに慰めてやってくれるか。沙流殿が沈んでおられると、全体の士気が落ちこんでしまうのだ。おぬしも暗いのは好かぬだろう」

 舎人とねりや女官とすれ違うこともあったが、大鷹はかまわずに話を続けた。中には漏れ聞こえた会話の内容をいぶかしんでふり向く者もいたが、宴のもてなしに忙しい彼らは咎めずに去ってしまうのが常だった。

 だいぶ進んできたころ、とつぜん大鷹が話すのをやめ、顔をしかめて言った。「……合いの手がないというのは、どうもつまらぬな。一人きりでしゃべっているようだぞ」

 明吉良は困ったようすで首を傾げた。そうは言っても、唖なのだから仕方がなかった。

 大鷹は自分の腰のあたりを探り、ぶら下げていた革袋を取って、明吉良に手渡した。「開けてみろ」

 言われたとおりに明吉良が小袋を逆さにすると、中から勾玉がひとつ出てきた。その白い石は、暗中でうっすらと輝きを放っていた。

「本当は、沙流殿の御前でやれと言われていたのだがな。別にいいだろう。こういうことは早く済ませたほうが、たいてい良い結果が得られるのだ」大鷹は勝手なことを言った。

 明吉良は手のひらで輝く勾玉を不思議そうに見ていた。大鷹が豪快に笑って教えた。「それはおぬしの声だ。十数年前、まほろばの宮へ行くために、おぬしは声を封じられた。わしのことはわからずとも、それは覚えているだろう。玉を飲み下せ。さすれば、また口がきけるようになる」

 明吉良は躊躇して、大鷹と輝く勾玉とを交互に見た。尖った先端を持つ勾玉は、飲みこんでしまうと喉を引き裂くように思われた。

「怖がることはない。平気だ。さあ、飲め飲め」大鷹の言い方はまるで酒でも勧めているようだった。

 明吉良はそろそろと勾玉を口に含み、舌の上でしばらく転がしてから飲みこんだ。喉にひっかかる痛みがあったが、それは一瞬だけで、勾玉はゆっくりと明吉良の体内をすべり降りた。

 ふと気づくと、彼らは奥まった広場にいた。先程まで耳にしていたはずの宴の楽の音がとても遠くに聞こえる。そこは寂しい場所で、植えられた木や彩りを添える花などは一つもなかった。千木ちぎをあげた神殿だけがぽつりとたたずんでいた。

 大鷹がきざはしをのぼり、両開きの扉を押し開けた。内部には埃がうずたかく積もっており、手入れをするどころか、何年も人が足を踏みいれていないのは明らかだった。部屋の中央には祭壇を設けて、一振りの剣が捧げられていたが、これもまた埃をかぶっていた。

 自分のどこかがうずくのを感じて、明吉良は身じろぎをした。後ずさろうとする彼を大鷹が押しとどめ、明吉良を神殿のほうへ仰向かせた。

「おぬしの剣だ。触れられるのはおぬしのみ。持ってこい」

 その剣にはわずかな装飾もほどこされていなかった。御神体としては驚くほど質素で、実際的な品だった。ありふれた青銅ではなく、鉄でできており、光を当てれば鈍く輝いた。

 大鷹に押し出されるようにして、明吉良は神殿の扉をくぐった。裸足に積もった埃の感触が伝わる。板張りの床はひんやりと冷たかった。

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