8.森を抜けて
《風の馬車馬》が、生い茂る木々の間を駆ける。
根源が起こす風が光を屈折させることで大きな馬車のように見えるというだけで、実体があるわけではない。例えその身体が幹にぶつかり足が根にひっかかろうとも、二頭の馬は止まることはなかった。風はただそれらを何事もなくすり抜けていくだけだ。
遠くに見えた一本の木があっという間にすぐそばまで近づいてきたと思ったら、その次の瞬間には視界の端へと消えていく。そんな光景を何度か繰り返している内に、陽が射さず薄暗かった森の中が少しずつ明るくなってくる。そうして格子のように立ち並ぶ木々の向こうから、眩いほどの光が挿し込んできた。
荷馬車は光に向かって進み、やがてその中へと飛び込んだ。
――やっと森を抜けた。
周囲に木も雑然と生える草もなく、ひしめき合う根っこが一つの生物のようにうねり大地を隆起させるようなこともない、舗装された道へと出た。
『舗装された』とは言っても、当然ながらコンクリートで固められたというわけでもなく、せいぜい地面が均され余計な砂利の類が取り除かれている程度だ。それでも先程の不整地そのものといった地面よりかは遥かに移動しやすいだろう。まぁ、実質空中に浮きながら移動している《風の馬車馬》にはどんな道も関係ないが。
これまで右を向いても左を向いても同じものばかりを見てきた身としては、それこそ別世界にたどり着いてきたかのようで安堵する気分だ。差し込んでくる日差しがいっそ痛いほどに眩しい。
「疑ったわけじゃないが、ルチアーノの言う通りだったな。となれば……」
ここから右方向へと道なりに進めば、連中の言っていた“中継都市”とやらに着く。
荷台の前の方に、そうする必要もないのに御者さながら座り込んでいた俺が手綱も持たずに念じると、二頭の馬は右を向きそのままゆっくりと進み始めた。
荷台の左右、車輪のように見えるものも単なる無質量の根源なので、走行する荷馬車に揺れは生じない。もっと速いスピードで進むこともできるのだが、それはそれで相応の根源を消費する。
ひとまず森を抜けてまともな道に出ることはできたので、わざわざ急ぐこともないだろう。俺はぼんやりと、街道の両脇で森というよりかは林といった姿になった木々が流れていく様や、ようやく視界を埋め尽くすほど大きく見えるようになった空を眺めていた。
太陽は天高くあり、沈んでいるというよりかは未だ昇っている最中に見える。どうやらまだ時間としては朝方らしい。ルチアーノ達は朝っぱらから魔物退治と洒落込んでいたわけだ。それはそれでご苦労なことだとは思う。
街道はかなり幅が広く、今乗っている荷馬車と同じ大きさのものが(見た目の話であって、実際はもっと小さいのだが)七、八台は並んで進んでも事故の心配がない程度だ。
が、それほどの広さの街道をぐるりと見渡しても、他に道を行く影は見えない。どうやら今この場にいるのは俺達だけのようだ。
それもそのはずか。この街道を囲う森にはついさっきまで魔物が住み着いていた。だから再征者であるルチアーノ達が着たんじゃないか。そんな道を好んで通る者はそうそういないだろう。
その魔物共を討伐した色男が率いる一団も、どうやら先んじてこの街道へと出たらしい。おそらく今頃は俺達がいる所よりも遥か向こうを進んでいることだろう。まぁそれはそれでいい。今更あいつらと鉢合わせになるのは御免だ。
「随分と寂しいもんだが、まぁ、これはこれでいいか」
とはいえ魔物云々はもう過ぎた話であるし、もうしばらくすれば、今は閑散としたこの街道も本来の光景を取り戻すことだろう。
と、不意に俺の耳朶を声が打った。
「ねえ」
例の少女の声だ。
彼女は荷台の中、草に覆われた魔物――《カーネイジウルフ》の死体と共にまるで隠れるように座り込んだまま、こちらに話しかけてきた。
「……他の人達は助けられなかったの?」
「他のって……」
彼女が言わんとしていることは分かった。
『他の人達』というのは要するに……
「さっき“あいつら”から聞いたでしょ。あの森には、私以外にも大勢《下級》がいた。そいつらは助けてやれなかったの」
そこには別にこちらを蔑むような気配はなく、ただ純粋に単なる疑問として問うてきただけのようだ。
だというのなら、こちらもただ事実だけを応えることにする。
「言っただろ。まず特別な理由なんてなかった。あんたを助けたのはちょうど目の前にいたからで、まったくの偶然だった。他に助けられなかった人達がいたとして、それはしょうがない。俺はそいつらには何の義理もないんだからな。……あんただって実際のところはそいつらと同じなんだぞ」
それだけで端的に片付けていいことではないのかもしれない。だが、現実として助けられなかった者がいる以上そう割り切るしかない。
そもそも俺がこの世界にやってきたその時には、森にいた二十人(少女を除いて十九人か)の《下級》達は、すでにどうしようもない状態になっていただろう。それではこちらの意気込みがどうこう以前に、物理的に助けることなんて不可能だ。
それどころか、魔物に襲われて生命を落とす者というのなら先程の森だけでなく、この世界のあらゆる場所で、今この瞬間にだって大勢いるだろう。だが、俺にはその“誰か”がどこにいるのかも分からないのだから、やはり救いようはない。
世界の破滅を防ぎ、そこに住まう人々を守るとはいっても、“全て”ではないと最初から折り合いはつけている。仕事は最低限こなすが、下手に目標を高く持つと後々苦労するであろうことは俺にも分かっている。人助けは出来る範囲で、それ以外についてはどこで誰が苦しもうが死のうが気にもとめない。そうしなければやっていけないだろう。
俺の応えを聞いた少女はそれからしばらく黙り込んでたので、今度は俺の方から切り出すことにした。
「みんなを助けてやれなかった俺のことが憎いのか」
「そんなんじゃない……。私だって、今回の依頼であの男に契約された同士、誰も彼も初めて会う連中だった。どこから来たのかも知らない、声だってロクに聞いてない。そんな人達が死んだってなんとも思わない」
「……そりゃそうだろうな」
親戚でも、好きな有名人だとかですらない、本当に何でもない他人の葬式に参加したって泣くがどうか分からないし、そもそもそんなもの参加自体する気にもならない。
結局のところはみんな他人だ。他人の人生の結末にいちいち喜怒哀楽するものではない。そう思うことは薄情だとかそういう問題ではなく、人間というもののごく普遍的な心の防衛機構なのだろう。
全てに共感していては精神が消耗しすぎて生きてなどいけない。
だからつまり、俺があれこれ考える必要はないのだ。そうだとも、俺はよくやった。
とはいえ……
俺も少女もそれ以降何も言うことはなく、またしても重苦しい沈黙が場を支配する。気まずい空気が塞ぐものも隔てるものもないはずの開けた空間に、何故だかギチギチに充満していた。
街道を抜けるまでそれなりに時間があるから何か会話をするのはやぶさかではないのだが、話題があまりにも暗すぎた。
もう少し何か、もっとマシな話はできないものか。
――そうだ。これまでずっと忘れていることがあるのを思い出した。
「そういえば、あんたの名前を聞いてなかった。俺の名前はさっき聞いたよな。ニイハラ タカヤ。あんたは?」
いつまでも『少女』だ『彼女』だ、ではいけない。そろそろいい加減名前を教えてもらわなければ。
が、俺のこの質問に対する返答は、
「知らないよそんなの」
「……なに?」
「忘れた」
「わ、『忘れた』って……」
「ヒトってさ、自分で自分の名前を呼ぶ機会なんてほとんどないんだ。だから、誰かが呼んでくれないとどんな名前だって意味ない。確かに私にも名前はあったのかもしれない。でも、それに意味なんてなかった。誰も私を名前でなんて呼んでくれなかったんだもの。誰かに呼ばれる時があるとすれば、せいぜい『お前』とか『ガキ』とか『下っ端』とか『《下級》のクズ』とか、そんなモンだった」
「……そうか」
少女が《下級》であることを思い出した。
国家によりその身柄を拘束され強制的に再征者として働き、別の再征者に半ば隷属するような形で危険な依頼へと駆り立てられる。言うなれば、社会における最底辺に位置する階級だ。それだけに、《下級》になる者達にもいろいろと事情がある。
生まれつき身寄りのないもの。罪人。生活に困窮した者。
彼女とて例外ではないのだ。前述したいずれか、あるいは全てか。
名前というのは最低限の身分と地位を証明し、自らが“ヒト”であるというアイデンティティをもたらす。
《下級》にはその最低限のアイデンティティである名前すらない。あるいはあっても、それを正当に扱われることがない。
そういうことも珍しいことではなかった。
……余計に暗い雰囲気になってしまった。
いや、俺は別にいい。だが彼女だ。
こちらの問いに応える彼女の声は無気力に吐き捨てるようなもので、まるで自分で自分を否定するようなものだと俺には思えた。彼女は時々、そんな空気を醸し出す。
俺には彼女がどのような人生を送ってきたのかは分からないし、もしそれを本人に聞いてしまうのはそれこそ彼女に対する侮辱となってしまうだろう。
しかし、これではあまりに可哀想だ。
他人はあくまで他人だ。それでも、自分のすぐ近くにいる人間にぐらいは心を費やすこともまた、人間が持つ当然の機微だと思う。
「……悪かった。こういう無思慮さが駄目なんだよな。気をつけないと」
とはいえ、今の俺には謝るぐらいのことしかできない。
小さく呟いた俺の声は、《風の馬車馬》が起こす風に巻き込まれて虚しく消えていくだけのような気がした。
また、しばらくの間沈黙が流れる。
それを破るように、もう一度少女が声をかけてきた。
「ニイハラ……は」
バツの悪そうな様子で、今しがた名乗った俺の名前を呼んでくる。
――それだけの、ただそれだけのことだ。
それだけのことなのだが、その声を聞いた途端、胸の中の澱がスッと引いていくのを感じた。
「どうした」
「……この馬車(馬車?)は今、中継都市に向かってるのよね。ニイハラは元々そこに行くつもりだったの?」
「まぁ、そうだな。“クロスロード”ってルチアーノは言っていたな。確か、中継都市っていうもの自体は他にもあるんだろ?別にどこの中継都市に行ってもよかったんだが、そのクロスロードってのが一番近いみたいだしな」
少女の言う通り俺は元々、森を抜けた後は中継都市に行くつもりだった。
厳密に言えばある目的を達成するために、それが可能な場所へ行くつもりだった。
「どうして?」
「俺はこれから再征者になるんだよ。そのための身分登録が、中継都市にある組合の施設でしかできないらしいからな」
今言った通り、目的というのは再征者――あのルチアーノ達のような、職業化された勇者になることだった。
世界を救うために、脅威、すなわち異常と戦う。そのためには力を行使できるだけの環境と立場が必要になる。
そのための第一歩、いろはの『い』とも言えるのが、再征者であるわけだ。
再征者は、組合と呼ばれる組織により管理されており、再征者になるにしてもその組合に手続きをする必要がある。そして、組合に直接接触できる場所は原則中継都市しかない。
中継都市というのはそもそも、再征者が活動するための拠点のような場所であるのだ。詳しい説明は今は省くが。
というわけで、ルチアーノが森の出口と一緒にその中継都市のひとつであるクロスロードとやらへの道を教えてくれたのは好都合だった。
あの男、例の神様以上にいけ好かない癖に、神様同様痒いところに無駄に手が届く奴だ……
まぁそれはいいとして、俺が次にやるべきことは概ねそういったところだ。
そして、ここでもう一つ少女に聞いておかなければならないことができた。
成り行きで彼女の身柄を預かることにはなったが、それもあくまで一時的。安全な場所に着くまでの間だ。それについては最初に話をつけている、
そして再征者の活動拠点である中継都市にはさすがに魔物の類など存在しないだろう。そもそも魔物を駆逐するのが彼らの役目のひとつなのだから。そこ以上に安全な場所は中々ない。
となれば、クロスロードに到着したら、改めて彼女をどうするのか考えなければならない。
「その……続けて『あんた』と呼ばせてもらうが。あんたはクロスロードに着いたらどうする?さっきも言ったが、俺はあくまであんたを魔物から助けただけだ。別にその見返りを求めはしないし、強要もしない。繰り返すようだが、安全な場所に着いてからのことはそっちの自由にすればいい」
「分かってるよ。そんなの分かってるけど。どうするって言われると……」
こちらの問いに対し少女は言い淀み、結局この場で応えてくれることはなかった。
よくよく考えると、本来ならばあのまま魔物に喰われて死んでいるところだったのだ、それを何の因果か生き残って、困惑しているのだろう。
これからどうするか考えるどころか、自分がそれを考えるべき状況にいるという実感さえ湧いていないのかもしれない。
「……まぁ、実際に着いてからいろいろ考えよう」
ひとまず俺は事なかれ主義的にそう締めくくっておいた。
とはいえ、彼女が実際に選べる道は少ないだろう。
《下級》もまた再征者の階級のひとつであり、組合にその身柄を管理されているものだ。そうである以上、彼女にもそれ相応の対応というものをしなければならないだろう。彼女自身がどう考えていようと関係なく。
まぁ、何にせよまずは目的地に到着するところからだ、そうでなければこちらの用事にだって取り掛かれないのだから。
※
《風の馬車馬》は風そのものでありながら風を切って、尚も街道を進む。
それからしばらくして、――しばらくと言っても具体的にどれぐらいの時間が経ったのかは分からない。まだ太陽は空の真ん中に昇っていて、一日の半分も過ぎてはいないのだろう。確かにそれほど時間はかからなかったようにも感じるし、それでいて気が遠くなるような長い時間だったような気もする。
まぁとにかくしばらくして、道の両脇に流れていた林がその姿を消し、荷馬車は広い平野へと抜けた。
あの陰鬱とした森から街道に抜けただけでも、世界そのものが広がったかのように気分が晴れたものだが、いやはや今度の景色はそれ以上だ。
文字通り見渡す限り、どこに眼を向けても続いている草原地帯。遠くの方を眺めれば、なだらかな斜面の丘陵地帯が少しずつせり上がりながらやがて山と呼べるようなものへ変化していき、蒼碧の空に稜線を描くのが見える。不規則に描かれるその線はさながら、空と大地の境界を示す世界の狭間への入り口のようでさえあった。
その一方で別の方向へ眼を向ければ、草原が少しずつ荒野へと変わりどこまでも続いて、果ての見えない地平線を刻んでいる。丘陵地帯の稜線をうねりと表現するならば、こちらは“一閃”だ。この世を一閃に切り裂いて二つに分割する、視覚化された創世記そのものとでも言えるようだ。
パノラマという言葉はまさにこのような光景にこそ当てはまるだろう。いっそ写真か絵に残して取っておきたいほどだ。
こんな光景生まれてこのかた――正しくは生まれてから一度死ぬまでの間、俺は見たこともなかった。
そして何より息を呑むのが、悠大な自然の景色に混入する一つの異物。遠方に聳える山脈にさえ比肩するほどに巨大な“壁”だった。
他でもない、あれこそが中継都市“クロスロード”。それを取り囲む城壁のほんの一角だ。
その存在自体はこの世界における基本情報として神様から教えられて知ってはいたのだが、実際に眼にするとまた話が違う。
実際はまだ荷馬車のいるこの場所からはかなり距離があるはずだ。だというのにその城壁は、いっそただそこにあるだけでこちらを射竦めるような厳然たる威圧を放っていた。
それはまるで、喧伝しているかのようだった。
かつてこの世界に現れた“それ”に対して、
お前達が振るった暴力に、撒き散らした破滅に、我々は屈しなかったのだ――とでも。