5.二百年越しの勇者達
少女がゆっくりと閉じていた眼を開く。それは、昏睡の終わりを意味していた。
彼女には自分の身に何が起こったのか理解できないだろう。正しくは、何が起こったのかは分かっている。だがその理解に対して、事実として存在する自分の肉体とで認識の齟齬が生じていると言っていい。
要するに、獣の爪で引き裂かれたはずの身体が無事であることに彼女は困惑していた。
「これは、一体……」
そう呟く彼女の声。
その言葉は、俺にも馴染みの深い言語に聞こえた。間違いない、少女の声が日本語に聞こえている。
どうやらこれも神様からの贈り物らしい。おそらくではあるがこの世界で用いられる言語は日本語どころか、英語でもドイツ語でもない、本来ならばまったく未知の言語だろう。
そんな俺が知る由もないであろう異世界の言語を理解できるよう、脳内で自動的に翻訳する能力を与えてくれたようだ。
相変わらず一番肝心なところはおざなりなくせに、痒いところには無駄に手が届く神様だ。この分だとこちらが日本語のままで言葉を発しても、この世界の住人に理解できるような形に舌のほうが勝手に動いてくれるだろう。それはそれで空恐ろしいが。
さて、少女は眼は開いていながらも未だ夢心地といった具合に戸惑っている。
しかしそれも程なくして、戦慄のような驚愕によって終わりを迎えることになる。
ゆっくりと上半身を起き上がらせた少女は、次の瞬間目の当たりにした“それ”に息を呑み、思わずずるずると座り込んだまま後退りしてしまった。
「うわ……っ!?」
彼女が眼にしたのは、件の獣の死骸だ。が、驚嘆の理由は死骸そのものというよりも、その変わり果てた姿の方にあった。
狼を彷彿とさせるその巨大な頭はすでになく、それどころか腰の辺りまで獣の身体は消滅してしまっていた。筋肉がなめらかな断面を露出させ、肋骨らしきものが僅かに残った背中から数本伸びている。内臓すらもなくなったその姿は解体中の家畜を彷彿とさせ、逆に生々しさを感じないほどだ。すでにそこには獣の原型はまったくなく、いっそそれが生物の死骸であることすらも曖昧なほどだ。
いくら魔術によって一撃で殺されたといえど、確かに四肢と胴体、そして頭部を残していたはずの亡骸が何故こんな有様になってしまったのか。
うん、「また」なんだ。済まない。
今からその理由を説明するとしよう。
魔術とはあくまで、根源が姿を変えて発生させる“事象”でしかない。
では、当の根源は――魔術が起こす事象の原材料はどこから消費されるのか?
その供給源は三つある。
まず一つ。
この世のあらゆる事象が根源から成り立っているのなら、人間とて例外ではない。人の身体の中にもまた、生命の源とも呼べる根源が存在する。それを抽出し魔術を発動するためのトリガーとする方法。
次に二つ。
世界そのものもまたひとつの事象であり、根源により成立している。俺が今立っているこの地面にだって根源により作られたものであるし、周囲にも目に見えない形で未だ何の事象としても成立していない純粋な根源で満ちているのだ。それによりこの世界は維持されていると言える。
これら空間に遍在する根源を汲み上げる方法。
しかしこの二つの方法で魔術を発動する場合、重大な問題点というのが存在する。
まず人の肉体、つまり自分自身の身体に宿る根源を用いる場合だ。
自身が有する根源とはすなわち自身の“生命力”に直結する。となれば、ある程度は想像できるだろう。
強大な、あるいは複雑な魔術を自らの肉体のみを材料にして発動しようとすると、生命力が一瞬で枯渇し、ヒトという生命体としての機能すら維持できなくなる。
そして空間に遍在する根源を使う場合。こちらは自分の身体とは関係がない以上いくらでも使えそうに思えるが実はそうではない。
肉体に宿る根源を浪費すれば生命が維持できなくなるのなら、空間に宿る根源を浪費すればどうなる?
――そう。空間が維持できなくなる。
世界そのものとて根源により構成される事象であるなら、根源がなくなれば当然崩壊する。
具体的なことを言えば、その空間にある根源をもし使い果たしたとすると、そこには何も存在することのできない“事象の穴”が発生する。消費された根源の量にもよるが、その“穴”の広さは直径数cm、あるいは数十cm程度とされる。しかしてそれにより生じる被害範囲はその数千倍、下手すれば数万倍の広さになるだろう。
“穴”の周囲に存在するあらゆる物質はそこへと呑み込まれ全てが無に帰し、やがて消滅した空間は初めから無かったものとして閉ざされ、残った空間が開いた“隙間”の埋め合わせをして世界そのものを維持しようとする。
消滅した空間はそれきりで、言うなれば世界がいくらか削り取られたような状態になってしまう。もう一度根源を使って空間を生み出し大地を広げれば削られた世界を取り戻すことはできるだろうが、そんなことは万物の創造主――それこそ神の所業そのものになるだろう。そんなこと俺にだって到底できる代物ではない。
そして当然、魔術によってそんな事態を引き起こしたとすれば、その元凶である術者も諸共“穴”の中に引きずり込まれ、痛みも恐怖も感じる間もなくお仕舞いだ。
とはいえ、それほどの事態が発生するのは余程の場合だ。
単純な魔術、それこそ先程の《一斉射》のような単一の構造を持つ物質を武器として打ち出す程度のものならば消費する根源の量もたかが知れている。
あれについては、今回は俺の身体にある生命力と空間にある根源を半々に吸い上げて原料にさせて貰った。それで何かしら影響が出たという様子もない。
しかし、今発動した《肉体生成》は訳が違う。
生物の肉体というのは、そんじょそこらの物質などとは比べ物にならないほど複雑な構造をしている。無数の原子がその全てを寸分の無駄もなく機能させることで成立する、ひとつの世界そのものにも匹敵する事象だ。神の所業につま先まで踏み込む大魔術である。
それを根源により成立させようとした場合、その必要量は途方もないものとなる。
生命力から代用しようとすれば間違いなく死に至り。空間から代用すれば十中八九“事象の穴”が発生し何もかもお陀仏だ。
それでは《肉体生成》という魔術自体が発動不可能という結論に至りそうだが、実を言うとそうでもない。
そこで三つ目の供給源だ。
単純な話だ。ある事象を成立させたい場合、すでに成立している事象を分解してそこから根源を得ればいい。
生物の肉体を製造したいのであれば、別の生物の肉体を材料にすればいい。つまりはそういうことだ。これが、獣の死骸がこのような姿に変貌した理由である。
何かを引き換えにすれば、ヒトが神の行いの一端を再現することも可能なのだ。
あの巨体を構成していた筋肉、骨、内臓を一度根源として分解し、それをもう一度少女の肉体として再構築した。それにより半分以上が壊死してしまっていた彼女の身体は、結果的に言えばほぼ完全といっていい形に再生したことになる。
一度身体が出来上がってしまえば、後は彼女が死んでさえいなければ少女自身の生命力、肉体が有する彼女自身の根源が体組織を機能させてくれる。
とはいえ、物質を分解し別の物質に変換するにしても、そのための動力源となる根源というものは必要だ。エンジンを動かすために燃料を燃やすとして、そのためにはまず熱量による点火という別のエネルギーが要るのと同じだ。
今回はその点火のための根源も獣の死骸から使わせてもらった。
少女の身体を再構築するために、その数倍の体積を持つであろう獣の身体が半分以上消滅した。つまるところ人の身体、その一部だけでも再生させようとすれば、同じ人の身体ですら代償としては到底足りないのだ。
《肉体生成》のような複雑な魔術はそうおいそれと使えるものではない。もし万が一俺の攻撃をかわされ獣に逃げられたとしたら、その時点で彼女を救うためには俺という術者が死ぬか、周囲に存在するありとあらゆるものを道連れにして諸共消滅するかしか取れる手段はなかった。
要は、今回は都合がよかったということだ。
――さて、説明はこれで終わりだが。それにしてもまったく、綱渡りにも程がある挑戦だった。まぁ成功する確証はあったから焦るものでもなかったが、それでもほっと胸を撫で下ろす気分だ。
そんなこちらの安堵を知ってか知らずか、少女はずっとすぐ傍にいたはずだった俺の存在に、今になってようやく気がついた。
この世のものとは思えない何かでも見るような険しい表情でこちらの顔を伺いながら、抱いた警戒心を隠しもせずに問うてくる。
「……あなた、何なの」
「何って、偶然ここを通りがかっただけだ。あんたが“こいつ”に喰い殺されかけてたから助けた。お察しのとおりに、魔術でな」
「なんでそんなこと……」
感謝の言葉よりも前に(まぁ感謝されるのを期待したわけでもないけど)少女はそんなことを口走った。
『なんで』って……そりゃそうだろ。人を助けるのに後ろ向きな理由があるものか。例えその後に見返りを求めるような類のものであろうと、そこに善意以外に何があるというのか。
が、少女は自分を助けた相手である俺に、むしろ敵愾の意思すらも見受けられるような視線を投げかけてくる。
ふと、少女の左頬の辺りに何か模様のようなものが見えた。それは入れ墨だとかボディペイントなどではなく、根源によって描かれたある種の刻印だ。まるで誇示するかのように淡い光を放っている。実際に光量があるわけでもない、視覚ではなく存在そのものとして頭に直接刻まれるような光だ。
それが何を意味しているのか、それもまた神様から与えられたこの世界の知識として俺は知っている。
彼女が何者なのか、どんな立場にある者なのか、確証はないにせよおおまかに察しがついた。
少女はじっとこちらを睥睨し続けてくる。俺はそれにどう反応すればいいか考えあぐね、ただその刺々しい視線を受けるばかりだ。
そんな重苦しい沈黙を破るように、また遠くの方から木々のざわめきとは違う音が聞こえてきた。
がさがさという小うるさい音。これもまた、何もないところから勝手に発せられるような類のものではない。何かが草木の間を分け入って進む音だ。
その何かは、こちらの方へと向かっているようだった。
少女がびくりと身を震わせ、慌てて音のした方向へと眼を向ける。俺もその姿を眺めてから、彼女と同じ方を向く。
しばらくして、格子のごとく生い茂る木々の群れを縫うように、それは姿を現した。
馬に跨がった数人の集団だ。皆一様に、腰のあたりまで隠れるような灰色の外套に身を包み、フードを目深に被っている。そういうものだから各々の顔つきは判別できず、まるでひとりの人間をコピー・ペーストしたかのように没個性だ。
その中でひとり白亜のローブを着る先頭の男だけが、他とは違う見た目をしていた。その外套にはさながら何かの絵のように複雑な刺繍が施されており見るからに派手だ。
唯一フードを脱いで露わになったその顔つきは端正で、青い髪に金色の瞳はどこか人間離れしており、あの神様とはまた別のベクトルで男として少し憧れるような見た目だ。
そんな色男が、馬上からこちらを見据えて言う。
「……驚いた。これは貴殿がやったのか」
『これ』というのは、半分ほどが消滅した獣の死骸のことを言っているのか。
この男、多分魔術師だ。
あいつが驚いたと言ったのは、眼前の状況そのものではない。それを俺が引き起こしたことにだろう。この獣に何が起こったのかということ自体は、一目見た時点ですでに理解できている、ように見えた。
巨大な獣が死んでいること。その死骸がほとんど消えていること。その理由も一目しただけで全て理解できているのかもしれない。
しばらく鑑定でもするかのように俺を眺めていた男は、不意に乾いた笑みを浮かべた。
「私が契約した《下級》を助けてくれたようだ。何故そうしたのかは理解しかねるが、感謝する」
あの男達は、獣を狩るためにこの森に来た。それを生業にする者たちだ。
――“再征者”。
かつて世界を滅ぼすほどの脅威にさらされながらも、人類は生き残った。しかし失った物も多かった。人々が生活していた土地、農耕や畜産のための豊かな土壌、そして何よりその中で生活する人そのもの。特に人口に至っては、脅威(すなわち異常)が出現する以前の四分の一にまで減少したという。中近世の文明においては、それは最早滅亡と同義と言っていいほどだろう。
それほどまでの被害を被り、繁栄の階段を転げ落とされた人類が急務としたのが、何より失われた生活を取り戻すことだった。
土地の再開拓、都市の再建。そしてかつて出現した脅威の残滓の後始末だ。
二つの強大な異常同士の戦争の末に散り散りになった結果、世界各地に根付きそこで繁殖してしまった“魔物”と呼ばれる猛獣共の駆除。それらの問題に人々は直面した。ちなみに、俺が仕留めたこの獣もその魔物の一種だ。
人も物資も何もかもが足らない状況では、どれも満足には手に付かないだろう。そのまま、各地で繁殖した魔物に淘汰され、人類が世界から姿を消すのも時間の問題だった。
そんな中、自らの身を粉にし、それこそ生命すらも捧げてあらゆる仕事を請け負う者達が現れた。時には荒廃した土壌を開墾し、時には土木を積み立て家屋を、城壁を築く。そして時には魔物から人々を守る。そんな勇者が、だ。
彼らの尽力によって、消失を待つだけだったはずの文明はたった二百年という歳月で概ね再生することとなった。人類は異常という脅威が出現する以前とほぼ同じ、あるいはそれ以上の生活を取り戻すことができたのだ。
そんな勇者達はいつしか、戦いの果てに奪われた世界を再び征する者――再征者と呼ばれるようになっていた。
彼らは年月が経つごとに徐々にその数を増やし、今となってはひとつの職業として成立するに至っている。『レコンキスタドール』という呼び名を縮められ、再征者などという略称で呼ばれることも多いそうだ。
実を言うとこの世界で魔術が成立したのも、二百年前までは眉唾ものの空想とされていた根源を再征者の始祖とも呼ばれる者達が研究した結果だったりする。
話を戻そう。あの白いローブの色男とその取り巻き達もまた、そんな職業となった勇者、再征者であるようだ。そして俺が助けた少女は、こいつらの同行者なのだろう。
おおむね、この森に巣食う魔物を討伐しに来たといったところだろうか。
色男は次に少女の方へと眼を向け、言った。
「運が良かったな。これよりクロスロードに帰還する。立て」
その冷ややかな声を聞き、座り込んだ姿勢のままだった少女は徐に立ち上がる。だが、そこから立ち尽くしたまましばらく動かなかった。
ただ一度、さっき俺に向けたもの以上の敵愾心、そして怯懦のこもった眼で男を睨みつけた後、苦々しげにその眼を伏せるばかりだった。
色男はその様子を見て表情を変えずに続ける。
「何をしている」
そのやり取りを見て、俺の中であくまで仮定でしかなかったものがはっきりと確定した。彼女と、あの色男がどういう関係であるのか。
文明が再建され、再征者というものがひとつの職として成立する中、その立場は制度化され、すでにかつての勇者としての性質は形骸化していた。二百年越しであろうと勇者で居続けられるものなどいないのだろう。
再征者となる者にも様々な立場や“階級”がある。
例えば、《下級》と呼ばれる者達。とある理由によりこの階級となった者達は再征者としては最も下の立場にあり、その立ち位置は実質、
――“奴隷”だ。
あの色男、まず間違いなくさっきまで少女が魔物に追い立てられ殺されかけたことを知っているはずだ。
それで、あの眼だ。あんな冷ややかな視線を送り、身を案じる素振りも見せない。馬にまたがり悠然と、さながら彼女が今この瞬間に生きていなくてもそれはそれで構わないとでも言いたげに佇んでいる。
そのことを意識した瞬間、言いようのない衝動が胸の内から沸き起こってきた。
それが何故生じたものなのか、そもそもそれは何なのか。今の俺には分からなかった。
俺は一歩前に足を踏み出して、少女の前に躍り出るように男と彼女を結ぶ視線の間に割って入った。
そうして、馬上の色男に向けて言い放つ。
どうして自分がこんなことをしているのかも、やはりよく分からなかったが。
「……今しがた初めて会ったばかりのところで不躾なことを言うんだが、聞いてくれるか」
「ヴィットリオ・ルチアーノ……私の名だ。あの獣を仕留めてくれた以上、貴殿は我々の協力者に相違ない。どのようなことであろうと心して聞こう」
頼まれてもいないのに男は名乗る。そのあたりにこの色男、ルチアーノという名の再征者の人柄を察せられる。
だが今の俺には、その全てに不愉快さしか感じられなかった。
「ニイハラ・タカヤ。この子の身柄は俺が預かることにした」