42.好きこそものの上手なれども、それとこれとは関係なし
迫りくる《ワーリザード》の大群。それを前にしてユスティーナ・イルマリネンがその手に持つものは、一冊の本だった。
よもやこの戦場の只中で優雅に読書と洒落込むのか―――と、もちろんそんな訳がない。
魔術を発動するには基本的に詠唱を行わなければならないが、魔術触媒に術式を転写することで、無詠唱での魔術行使が可能となる。それは周知のことだろう。
しかしこの場合、術式により発動出来る魔術はひとつだけとなる。威力や効果を及ぼす範囲の調節程度は出来ても、例えば“火”の魔術と“水”の魔術を一つの術式で別々に扱うことは不可能なのだ。そこが、術式を用いた魔術の欠点であった。
しかし、それならば、だ。
それぞれ別の魔術を記した魔術刻印を、いくつも同時に携帯し使い分けるとすれば、それは無数の魔術を詠唱なしで行使するのとほぼ同じではなかろうか。ライターと水の入ったペットボトルを同時に持てば、火を起こしながらその火を水で消すことが出来るように。
ユスティーナが手にしているのは、その理屈を現実としたものだった。
左の手のひらに乗せるように取り、胸元にかざしたその本の頁が、ひとりでにパラパラとめくれていく。
そしてそれが、ある頁が開かれたところで止まった。見開きの片方には術式刻印らしき模様が、そしてもう片方には、この刻印に描かれている魔術の覚書のようなものが記されていた。
そこに書かれている文言の一部。それは、この魔術の名を示すものだろう。
―――《火焔穿槍》。
ユスティーナが、空いている右手を高々と掲げる。それに伴って、頁に刻まれている術式刻印に淡い光が灯った。
そして、掲げた手を勢いよく前方、迫る魔物の群れに目掛けて振り下ろす。
「発射!」
同時に、開かれた右手のひらから、煌々(こうこう)と燃える炎が一本の筋となって放たれた。それは真っ直ぐに一体のトカゲ目掛けて伸び、その身体に槍の如く突き刺さった。一本の細い炎の線は、命中すると同時に標的の全身へと広がり、肉体を瞬時に焼き尽くしていく。
“炎”の根源により発生した高熱量を“金”の根源により固定化し、細い槍として敵に放つ魔術だ。
それ単体ではすぐに拡散して消えてしまう炎の塊を、特定の形に固定化することで、その熱量を損失させることなく的確に標的に叩き込むことが出来る。それにより、最低限の根源の消費で確実に魔物を仕留めるられる。
それをユスティーナは、続けざまに連射した。
刻印転写による魔術の優れているところは、このように連続での発動に適しているところだ。例えるならば、子供が魔術灯を何度も点滅させて遊ぶように、ごく短時間で簡単に再使用が出来るのだ。
何発、何十発と放たれる炎の槍が、次々と《ワーリザード》に突き刺さりその身を焦がし、灰となった肉体はボロボロに崩れながら霧散していく。
これだけの威力を持つ魔術を刻印転写により発動しようと思うと、良質な素材から作られた触媒に、かなり入念に術式を刻みつけなければならない。魔術が高性能になればなるほど、必要となる刻印も複雑になるし、その刻印が僅かに歪めばそれだけ精度は落ちていくのだ。そのため作業には相当な集中力が必要となる。そして、そんな苦労をしてやっとの思いで無詠唱での発動が出来るようになっても、使える魔術はそれ一つだけだ。
しかし、今ユスティーナが手にしているこの本には、そんな術式刻印が綴じられている頁の分だけ記録されていた。その数は、三桁を優に超える。それ一つで魔物を相手にするには十分な威力の魔術が、たった一冊の本の中に数多く凝集されていたのだ。
こと魔術師としての実力に限って言えば、ユスティーナは“移ろいの民”の中でも頭一つ抜きん出ていた。それどころか、ゲルマニアに現存する魔術師全体においても彼女は指折りだった。さすがのグレンマレィも、魔術の知恵においては彼女には叶わないと考えていた。
彼の大好きな、嘔吐しながらでも喜んでやってきた努力という行為であるが、それをせずとも高い実力を身につける手段というものがある。
簡単なことだ。“才能”があればいい。ずば抜けた才能が。
初めから実力を持っているなら、過剰な努力をする必要などない。グレンマレィにとっては涙が出るほど厳しい現実ではあるが、それが全てなのだ。
そしてユスティには、それがあった。彼女は天才だったのだ。
まだその齢が一桁の頃から彼女は魔術の研鑽を始めた。そして今、まだ十五歳のこの乙女の手には、無数の魔術が記録された、それ自体が無二の触媒足り得る本があった。
――“魔術目録”。
百年程前にその理論が提唱され、実用化が始まった術式刻印の大量携行であるが、100どころか500を超えようという数の頁を持つ目録を所有するのは、ゲルマニアの歴史においてユスティの他には片手の指で数えられる程の数しかいないと言われている。
というかそもそも、大抵の魔術師にとっては触媒ひとつ作り、そこに術式を刻印するだけでも一苦労だ。それを何十個、何百個と作ることなど出来ないし、わざわざ作ったところでそれを実用するかどうかも分からない以上、魔術目録を作るほどの熱心な魔術自体がそれほど居ないのだ。
「発射!連射!掃射!」
立て続けに《火焔穿槍》が放たれ、《ワーリザード》の身体が焼かれていく。
彼女がこれだけの実力を得た理由。
それは、好きだからだ。ユスティ自身に天賦の才と呼ばれるものがあったということもあるが、あるいは一番の理由はそれなのかもしれない。
彼女は魔術が好きだった。炎も、水も、風も、形のないはずのものを手に取り、自分の言葉一つで操ることが出来る。そんな技術に彼女は惹かれたのだ。だからこそ、自分もまたその道を探求しようと思った。
自分の意思でやりたいと思ったことと、第三者的な客観的視点によってやらなければならないと判断したこと、そのどちらがより密度の高い仕事を遂行出来るかなど、ピカピカの新入社員だろうと人生の酸いも甘いも噛み締めてきた中間管理職だろうと、子供だろうと老人だろうと即答出来ることだろう。『好きこそものの上手なれ』だ。
ユスティは、確かに努力をしたことなどなかった。ともすれば他人からは過酷と見える研究も、彼女にとっては自らの知的探究心を満たす、いうなれば欲求の消化でしかなかった。それを“努力”と思ったことはない。
例え魔術の発動に失敗したとしても、それは挫折ではない。道が分岐しただけだ。
研究により身体が衰弱し、痛みに苛まれることがあったとしても、それは自分が新しい一歩を踏み出すための“成長痛”なのだ。
この魔術目録も、頁の一枚一枚が数多くの素材を混ぜ合わせそれを繊維化した上質な魔術触媒だ。それを作るのにも多大な費用と時間が必要となったが、それもまた苦ではなかった。
それに、実際彼女の積み重ねてきた苦労は、何の才能もない常人が一生を捧げて殉ずるそれに比べれば微々たるものだった。普通の魔術師ならば、ヨボヨボの皺の塊になってようやく辿り着く境地に、彼女はこの若さで到達していたのだから。
研究にともなう衰弱や痛みなどほんの一時のもの、若い身体はすぐにそこから回復する。ユスティの身体は成長途中の少女のふくよかさに満ちていたし、その肌は透き通るほどの瑞々しかった。それは、魔術師を目指す全ての者にとって、羨望の対象となり得るだろう。
―――だが、そんな彼女でも。
ゲルマニア随一の魔術師であっても、再征者として優秀であるとは限らない。
ユスティは魔術は好きでも、魔術で生き物を殺すことは決して好きではなかったのだ。
《火焔穿槍》は、最低限の根源消費で最大限の威力を発揮する魔力であるが、それもあくまで敵が一体である場合の話だ。一本の炎の槍で倒せる敵は、同じく一体。
そして一体一体を丁寧にプチプチ潰したところで、絶え間なく押し寄せてくる無数の魔物を食い止めるにはあまりに不足だった。これではあまりにも手数が少ない。根源を節約するといっても、そのために殲滅力を落としてしまっては元も子もない。
ユスティには、そのことが分かっていなかった。魔術の知識そのものは持っていても、それを戦場における判断力に転用することが出来なかったのだ。
彼女がこのままではまずいと判断したのは、迫り来る敵の群れが50メンスほどの距離にまで近づいてきてからだった。
「雪の粒をどれだけ溶かしたって、そりゃあ雪崩なんて止められないよね!どどどど、どうしよう。なんかじわじわ近づいてきてる気がする……」
その狼狽しきった声音は、昨日クロスロードの案内所で見せた冷然とした態度からはかけ離れたものだった。彼女もまた、ただ強がっていただけなのだ。その根本にある精神性は、むしろ柔和で臆病なものだった。なにせ今しがた自分が焼き殺している魔物に対してさえ、申し訳ないという気持ちがないわけではないのだから。
この状況を打破するためには、最低限度の威力の魔術では駄目だ。多少消耗が増しても、もっと大きな火力で一掃しなければ話にならない。しかしそうなると、今度はこちらの身が保たなくなる危険がある。
だが、ユスティにはそもそも、この生命力の枯渇という問題に対する対策もあった。元々彼女には、根源の消費を気にせず戦うことが出来るだけの用意があったのだ。ただ、今まではそれを温存してきた(つもりになっていた)だけだった。
とはいえ―――
「これはもう、出し惜しみしてる場合じゃない!」
ようやく彼女は、意を決した。
「《圧縮》、解除。“根源蓄筒”、五段直列……」
そう唱えるように口にしたユスティの頭上に、ある物体が出現した。《圧縮》の魔術により携帯されていたその物体は、片手でつかめる程度の小さな木製の筒だった。それが、空中にふわふわと漂うような状態で、落下することもなく静止していた。
その姿に眼をやることもなく、ユスティは手元の魔術目録の頁を再び指も使わずにめくり、別の術式を開く。それと同時に、右手の指をパチリと鳴らした。
「放出!」
瞬間、木製の筒の中から赤々と照り付ける炎が膨れ上がり、破裂したその筒の破片も残さず燃やした。五つの筒からそれぞれ発生した火焔はそのまま互いに寄り集まり、一つの巨大な炎の塊となった。決して消えることも、散らばることもない。それは、気体が燃焼して起こる質量のない現象でありながら、いっそ手に触れられそうなほどはっきりとした形を持つ玉となって固定された。
《圧縮》から取り出された五つの筒。それは、内部に純粋な根源を封じ込め、貯蔵したものだった。向こうの世界風な表現をすれば、“電池”と言っていい。
根源というのは、生命力の枯渇や“事象の穴”などの危険があるために、数の定められた有限の物質であると考える者も魔術の初心者にはいるという。だが、実際はそうではない。根源は無限に存在し、絶えず発生するものなのだ。それは生物の生命力として存在するものにしても同様で、魔術などにより多少消耗してしまったとしても、しっかり食事をとりよく寝れば自然と回復してくる。要するに入る器が有限であるだけで、そこに注がれる水に限りはないのである。微量の生命力を段階的に消費する分には、何も問題はない。
―――それでは、だ。その微量な生命力とやらから生じる根源を、いかなる事象にも固定化されていない、未だ“無”である状態のまま何らかの形で貯蔵し、それを必要な時に自由に用いることが出来たとしたら。余裕がある時に少しずつ貯金して、いつでも引き出す。そんな一人暮らしの会社員のようなことを、魔術師にも出来るとしたら。
それは術者自身の生命力でもない、空間に遍く力でもない、人も世界も死なずに済む、危険回避された第三の供給源となり得るのではないか。
ユスティは魔術の研究の中でその発想に行き着き、そしてそれを実現させた。ゲルマニア史上前例のない、正真正銘ユスティが初めて立案、実用化させた魔術道具だ。
それが、“根源蓄筒”である。
とはいえ純粋な根源など、それこそ存在しているかしていないのかも曖昧なものだ。それを取り出しあまつさえ木製の筒の中に保管するなどという芸当は、それこそユスティ程の魔術師でなければ出来ない。
実用化させたとは言っても、現在のゲルマニアにおいてこれを作ることが出来る者は彼女の他にほとんどいないのだが。
筒自体はごくごく小さいものだ。仮にそこに水を入れたとして、夏場の打ち水にすら使えないような量にしかならないだろう。それほどの器だが、そこに貯蔵されている根源の量は実際かなりのものだった。
五つもあれば、人一人分の生命力に互換する。つまり、この小さな筒が五つあるだけで、魔術師が自殺するのと同等の根源を供給することが出来るのだ。
それをユスティはこの戦場に、合計75個持ってきていた。
そして、人一人死ぬだけの根源を費やして繰り出される魔術は、それだけ強力なものとなる。ユスティの頭上に燃える火球は、彼女の身体を丸々飲み込むほどに巨大だ。そこに凝集された炎の根源は莫大なものである。さながら、縮小化された太陽のようでさえあった。
先程のように、ユスティは右手を高々と掲げた。
「『其はただ火を宿すもの』
『現界せし太陽の写し身により、汝ら、原初のあるべき姿へ還れ』
『蒸散せよ、《原始炎熱》』!」
目録に刻まれた術式の精度を上げるための略式詠唱と共に、掲げた手で振り下ろされる。同時に、巨大な火の玉が迫りくる《ワーリザード》の群れへと投げられた。
トカゲの群れ、その先頭へと落下した火球は、続けて弾けるように圧縮された火の根源を一気に拡散させ、それこそ空に輝く太陽にその身を投じるほどの熱量を広範囲に振りまいた。
魔物の肉体が、それどころか連中が踏みしめるその大地の表面すらも焼き尽くされ、炭どころか、物体を構成する原子―――あらゆるものの始まりの姿にまで蒸発させられていく。
やがて炎は巨大な爆炎へと転じ、ユスティの眼前は黒々とした煙に包まれた。
「……よし!」
さすがにこれだけの威力の魔術ならば、ほとんどの敵を一掃することが出来ただろう。根源蓄筒を使えば、危険なしでの魔術発動が可能だ。
だがそれも、蓄筒が残っているならの話だ。もしこの在庫が尽きてしまえば、後は自身の生命力を使うしかない。そしてそれすらも尽きてしまえば、後に待つのは―――
そのようなこともあり、蓄筒の使用は最終手段とし、なるべくなら使いたくはなかったのだが、最早そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。ここで使わなければ、やがて彼我の距離はゼロとなっていただろう。そうなれば、杞憂した結果になる前に殺されるだけだった。
なんにせよ、これで敵の大部分を倒すことが出来た。まだまだ魔物は残っているだろうが、ひとまず第一波はこれでお終いだろう。続けて第二波は来るまでの間、少しは余裕も出来るはずだ。
彼女はほっと一息ついた。
―――刹那。
黒煙をかき分け、一体の《ワーリザード》が飛び出してきた。
「うそぉー↑!?」
急転直下、彼女は思わず叫喚した。
跡形もなく焼き尽くされたはずの魔物が何故なおも襲いかかってくるのか、その理由が分からなかった。
そう難しいことではない。仲間の身体を盾にし、炎をやり過ごしたのだ。魔術とはいえ、あくまで熱量という力の波でしかない。その波を、どんな手段でもいいからせき止めやり過ごしてしまえば、死ぬことはないのだ。
とはいえ、そのためには十体以上の同胞を盾にするしかなった。そこに合意が存在したのかは定かではない。無理やりその身体を引き寄せたのか、あるいは《ワーリザード》達が咄嗟に判断し、ただ一体の仲間を戦闘続行させるためにそこまでしたのか、それは分からない。
そして、その結果生き残った一体も、ただ死なずに済んだだけの状態だった。
身体の半分が焼け、左腕などは溶けてなくなってしまっている。だというのに、焼け焦げ半ば炭化している右手で槍を掴み、怯む様子もなく突進してくる。何故そうまでして戦うのか、何がこの魔物を駆り立てるのか。それもまた、誰にも分からないだろう。
満身創痍になりながらも、魔物は戦慄するユスティの身体に体当たりし、勢いよく突き飛ばした。その勢いで、手にしていた魔術目録が手から離れる。
そのまま彼女は押し倒され、トカゲの両足に跨がれるような体勢になった。
「あわわわわわわわ」
術式を記録する道具が手元から離れた。これでは無詠唱の魔術発動が出来ない。
ならば詠唱による魔術を発動すればいいだけだ。敵はすでに死に体だ、ごく簡単な魔術でもトドメを刺せる。
が、ユスティにはそれが出来なかった。これこそが、彼女が魔術師として優秀でも、決して再征者としては優秀ではないという証明だった。
完全に、気が動転しきっていたのだ。
「(ダメ……口が動かなくて詠唱出来ない。集中力も乱れて、どうにもこうにも頭が回らな―――)」
彼女は完全に無防備になっていた。馬乗りになった《ワーリザード》が、その虚ろな眼球でこちらを見下ろす。その手に持つ鋼鉄の槍の先端が、光を反射して怪しく輝いた。
「(ひぃ怖い!槍がギラッてなったコワイ!)」
後はこのまま、それが身体を貫くだけだ。ユスティの未来には、死という結末が待っていた。
トカゲが槍を握るその右腕を引く。
「(所詮私はこの程度の人間だったんだ!“移ろいの民”の一員として情けない。みんな、お先に死にます。さようなら、さようなら、さようなら!)」
そのまま槍が勢いよく突き出され、ユスティに刺さ―――
らない。
突如としてトカゲの頭が血を吹き出しながら弾け飛び、その勢いのまま身体が後方へと倒れた。即死だ。こうなったらさすがにもう動くことはないだろう。
「さような―――あえ?」




