38.神と交わりし者
“大地の臍”の右方。敵陣に右翼から切り込むような位置へと回り込むアマラ。
すでに彼我の距離は500メンスほどにまで縮まり、そこで彼は一度その猛然たる疾駆を止め、その場に立ち止まった。
これまで《ロックアイランド》同様に沈黙を保っていた《ワーリザード》の群れであるが、彼らもようやく侵入者の存在に気づいたのだろう。ついにその重い腰を上げて動き出した。
それはまさしく、怒れる波濤の如し。“怒涛”という言葉そのものだった。アマラの方に向かってくる敵は、全体の一部に過ぎない。中央から切り込むフレデリカに加え、グレンマレィとユスティーナも他方の敵を抑え各個撃破しつつ、後に到着する他の部隊のためのお膳立てをするというのが元々の目的だ。
それでも三桁に達する数の二足歩行するトカゲが、土煙を立ち込めながら一斉にこちらに向かって押し寄せるのだ。まともな人間なら、今すぐに逃げ出すことだろう。
が、そんな状況を前にして、アマラは落ち着き払っていた。いっそ地響きすら起きそうなほどの勢いで迫りくる敵に対して、全てが止まった冬の水面のような静けさを保っている。
彼はここで初めて、自らの顔を覆い隠していた外套のローブを脱いだ。
とはいえ、顕になった彼の顔は、別段何かおかしなところがあるわけではない。若くとも精悍な顔つきと、耳まで隠れる程度の長さの青白い髪。その切れそうなまでに鋭い眼の奥に、並々ならぬものを秘めているぐらいで、他はそう珍しくもないただの青年に見える。
―――いや、違う。
もしこの場に優秀な魔術師がいれば、何かがおかしいということに気がつくだろう。
彼のこの姿は、本当の彼ではない。今“目に見える像”として世界に現れているこの姿は、上書きされた偽りのものだ。ある画像に模様を貼り付けることでまったく別の印象を与えるように、アマラは自らの姿を別の姿に書き換えていた。
これもまた、グレンマレィが彼に発動した魔術―――物体の見た目を変化させる《偽装》の効果だった。
グレンマレィが発動した《偽装》の精度は極めて高い。なまじ優秀な魔術師では、偽りの像を上書きしていることまでは分かっても、かといってアマラの本当の姿を伺い知ることは不可能だろう。彼が普段からフードで顔を隠しているのは、言うでもなくその本当の姿を他人に見せたくないためであるが、わざわざそうする必要もないほどだ。
が、それもあくまで普段は、の話である。
《偽装》は、本来の姿と上書きする偽りの姿の間に“剥離”があればあるほど精度が落ち、見破られやすくなる。つまり、人間からあまりにかけ離れた姿の生物を人と偽ることは困難を要するということだ。
アマラは身体を覆う外套を腰のあたりまで捲りあげ、その影に隠れていたあるものに左手を添えた。
それは、剣の鞘だった。抜き身の剣をそのままぶら下げていては、何かの拍子に他人を傷つけてしまうかもしれない。これもまた別に珍しくもなく、剣で武装した者なら大抵誰でも携行しているものだ。
一般的な両刃で刀身の幅広い直剣と違い、やや反り返った細身の形状は、シミターと呼ばれる類の剣だろう。重量により叩きつけるように斬るのではなく、純粋な切れ味により引いて斬るためのものだ。
彼は続けて、残る右手で柄を取り、そのままゆっくりと鞘に収まっていたその刀身を引き抜いた。シャッ、と金属が擦り切れるような音が小さく、しかし遠くから押し寄せる敵の足音に比べて不思議と鮮明に響いた。
引き抜かれ、姿を表したその刃。
それは、シミターと表現するにはどこか異様だった。そのわずかに反った銀色の刃は、他の再征者達が扱うごくごく普通の剣に比べて、あまりに美しかった。
鏡のように光を反射して光沢を帯びている。ただの平面ではなく刀身には僅かな凹凸があり、それにより光が反射する角度が変わり、面によって別々の輝きを映し出す様は、さながら貴族の嗜好品として加工された鉱石のようだ。
そう。その妖艶なまでの煌めきは、武器が発するそれではなかった。剣というよりも、それは芸術品の領域に達しており、見る人によってはこれが何かを斬るところなど、想像することもできないかもしれない。
この剣は、ゲルマニアに普及しているそれとは明らかに卓犖しており、この国の技術により生み出されたものではなかった。ハンブルク大陸ではない―――さらにその外にあるべきものだ。
アマラは引き抜いたこの美しすぎる刃を両手で構え、身体の正面に真っ直ぐに掲げた。その静寂なる姿もまた、人が剣を振るう時の所作ではない。風に吹かれてなお揺れることすらない大木のようだ。
その姿、そしてまっすぐに掲げられたその銀の刃は、ある者にとってはどこか見知ったものだった。
あるいはもしこの場にニイハラがいれば、興奮と共にこう驚嘆していたかもしれない。
『日本刀だ』、と。
そして、異様なる光景はこれで終わりではなかった。
敵を前にして佇むアマラの姿。それが一瞬、ノイズがかかるかのようにわずかに変化した。それを幾度となく断続的に繰り返す。ただの青年であるはずの男の姿が、途切れ途切れに別の何かへと変わる。
それはすなわち、《偽装》によって上書きされた模様に乱れが生じ、魔術の効果が消えかけているということだった。
それが意味するところは、彼の肉体が現在進行系で変化しているということだった。そう、彼はこの短い間だけで、人間が人間でなくなるほどの変容を来していたのだ。
《偽装》の精度が落ちるに伴い、偽りの姿を破るように時折現れる、彼の本当の姿。それは―――
無数の毛に覆われた分厚い皮膚。髪の間から生える尖った耳。そして、人のそれよりも前に伸びた口から覗く、刃のように鋭利な牙。
それは言うまでもなく、人間と呼ばれる生命体の特徴ではない。むしろこれは、それらが相対するべき獣の類のものだった。
―――狼だ。アマラは人のように二本の足で立つ狼となっていた。
「合切斬殺。この地、既に地獄也」
これもまた言うまでもないことではあるが、この世界はゲルマニア王国と、そこが収まるハンブルク大陸だけで成り立っているわけではない。大陸を囲う海のその先には別の大陸があり、別の国があり。そしてそこには別の人々が生きる。
その中のひとつ。ハンブルク大陸の東、ゲルマニアの国民が“東海”と呼ぶその海の向こうに、小さな列島からなる国があった。
そこに住まう者達のことを、他国の民は“神と交わりし者”と呼び、敬い、そして畏れた。
彼らは人でありながら獣の血を引き、その力を受け継いでいた。大木をもへし折る力と、風のごとく大地を駆ける俊敏さに、道具を使い他者と強調し、あるいは出し抜くだけの知恵を併せ持った。それは、生物としてのある種の究極の形であるとさえ言えた。
古来より一部の人々の間では、獣とは神の遣いであるという考えが浸透している。ゲルマニアにも、“後災暦”以前からの伝統としてそのような考えを持つ者が少なからず存在した。そういった者達にとっては、人と獣の中間に生きる彼らはまさしく、“神と交わりし者”だったのである。
しかし、そんな彼らはその恵まれた血を、祖先達の過ちの結果であり、“呪い”と称した。
そうして“神と交わりし者”達は、自らとは異なる真っ当なただの人間と関わることを怖れ、そして拒絶した。
その結果極東のその国は外交というものを捨て、鎖でその門戸を縛るがごとく、閉ざされた国となった。鎖国というやつだ。
その国の名は、“イアパン”。
そしてアマラは、そのイアパンの人間だった。他国との関わりを拒む鎖国の出身者。それが今、ゲルマニアに居るのだ。
彼がいつも身を隠し、自らの素性を見せまいとするのは、つまりはそういうことだった。
そして今、アマラはこれまで隠してきたイアパンの民の力。その身に宿りし獣の血を解放した。“神と交わりし者”の特異な点は、自らの意思で獣としての能力を調節することができるというところだった。力を抑えればその姿は人に近づき、その逆ならば―――ということである。とはいえ、極限まで力を抑えても、耳だけは獣のそれになってしまう。だからこそ、普段から姿を偽る必要があった。
そして力を開放し姿が大きく変われば、それだけ《偽装》の精度も落ちていく。
出し惜しみするな、とグレンマレィは言った。その忠告には素直に従った方がいいだろう。この戦場において力を出し惜しみすれば、いつ死んでも文句は言えない。
それに、グレンマレィは実際のところ極めて優秀な魔術師であった。彼の発動した《偽装》は、一時的にその効果を緩めアマラの正体を一時だけとはいえさらけ出してしまった。だが、完全に獣の血が励起され肉体の変化が完了すると、魔術の精度もまた安定し、再び人間としての仮初めの模様が肉体に張り付いた。
ごわごわとした狼の皮膚は人間のそれに戻り、獣人はまた単なる人の青年になっていく。
これならば先程までと同様、アマラの正体が万が一にも他者に目撃され、この場に居るはずのないイエパンの民の存在を知られることはないだろう。
つまるところ、これで気負うことなく戦えるということだ。
アマラの存在に気づいた《ワーリザード》の大群が、彼に迫る。
そのまま彼は、雪崩のごとく押し寄せるトカゲの群れに飲み込まれた。
しかし―――
標的である人間の身体に、《ロックアイランド》の外殻から作った槍状の武器を突き立てようとしていた《ワーリザード》の首が、突如として胴体からズルリとこぼれるように落ちた。それと同時に、その傍らにいたもう一体の《ワーリザード》の身体が肩から腹にかけてパックリと破れ、赤々とした血を吹き出した。
いつの間にか、アマラは敵の懐深くにまで入り込んでいた。他でもなく、彼が振るった刃がトカゲを捉えたのだ。
いつ、どうやって接近したのか、どうやって斬りつけてきたのか。その動きの軌跡も分からぬまま、一瞬の元に二体の魔物が、そう気づく間もなく惨殺された。
「シッ!!」
そんな、吐き捨てた息で空気を斬るかのような掛け声と共に、アマラは文字通り返す刀で別の《ワーリザード》へと接近する。
それはまるで、途中の動作をまるごと飛ばしたかのような、あまりに素早い動きだった。こちらに駆け寄るその動きすら視覚できないまま、突然目の前に現れた人間に反応することも出来ず、喉元、胸、右肩を一瞬の内に刺し貫かれトカゲは即死する。だが、この場にいる誰にも(彼以外にはトカゲしかいないが)、アマラが剣を突く姿が見えなかった。ただ、彼の手元が僅かにぶれるような残像を描いたかと思うと、その時にはもう三度の刺突は終わり、敵が殺された後だった。
続けざま、即死した《ワーリザード》の身体が倒れるよりも速く、そのすぐ近くにいる三体の敵を、それぞれ左上から斜めのいわゆる逆袈裟、右横薙ぎ、そして右上からの袈裟に斬りつけ、瞬く間に仕留める。
そのあまりに早い攻勢は、さながら吹き抜ける一陣の旋風のようだ。
一体の《ワーリザード》が、好きにはさせまいとばかりに、刃を振り抜いたアマラの身体に向けて槍を突き出す。が、彼はその穂先をすり抜け逆にトカゲの懐に入り込んだ。その脇を通り過ぎたその時にはもう、胴体を上下に切り離していた。そして腰から離れた胴が地面に落ちるよりも速く、再び付近にいる敵を残らず斬り殺していく。
あるいはそれは“風”ではなく、“根”なのかもしれない。吹き抜ける風ではなく、すでに地に広く張り巡らされている、大木の根だ。
その根はすでにこの場にいる魔物達の足元に絡みつき、逃れることはできない。後はただ、根に沿って這うかのように迫りくる鋭い刃の切っ先がもたらす、“死”という結果を受け入れるのみ。
その迷いない動きには、いわゆる“思考”というものは存在していなかった。全てが予定され、筋書きを組み立てられた演劇のような殺戮だった。
あるいは前もってインプットされた動作を、ただ機械的になぞるだけ。―――そう。今のアマラは、最早人でも、ましてや生物ですらない。決められた殺戮のための手法を出力するだけの機構に過ぎなかった。
これはゲルマニアにおける話ではなく、どちらかといえばニイハラがいた“向こうの世界”に当てはまることである。魔術が発展したゲルマニアと違い、自らの肉体のみで戦うしかない“向こうの世界”の人間は、そのためにより肉体を効率的に行使できるよう、戦い方というものを研究していった。それが、“武道”と呼ばれる類のものだ。
そして武道の多くには、“型”と呼ばれる動作が存在する。何もない所で、倒すべき敵もいない状態でただ自分の身体でのみ行う特定の動作のことだ。それは一見すれば単なる踊りのようにしか見えないが、実際はそうではない。
この“型”というものは、刹那的な、ほんの一瞬で決着が付きその後には勝利と敗北のどちらかしか残らない、そんな戦いの世界において編み出された、“統計”の成果であった。
相手がある行動をとった時、それに対しこちらがどのように対処すれば、確実にこれを切り抜け敵を倒せるかどうか。幾度となく繰り返されてきた実戦の記録からそれを計算し、模倣したものが、“型”だ。
“型”を完璧に再現できれば、少なくともその“型”が想定している状況において敗北することはなくなり、勝利に一歩近づくことができる。
“型”を覚え身につけるということは、戦いにおける一瞬一瞬の判断―――際限なく分岐する筋道のどれを選び取るのかという過酷な思考を削減し、迷いを削り、より勝利する可能性を高めるということだ。
とはいえ、だからこそ“型”というものは一つや二つ覚えれば済むものではなかった。特定の状況に対する模範解答として“型”が存在するのならば、状況が複雑になればなるほど“型”もまた複雑になっていくものだ。
敵の攻撃、例えば槍で突いてくるという動きひとつにしても、狙っている場所が頭なのか、腹なのか、はたまた足なのか。それだけで対応する動作は変わり、それだけ“型”も派生していく。そして確実に状況を切り抜けるためには、その全てを把握する必要がある。
それは極めて困難なことだ。
だがもし仮に、あらゆる生物のあらゆる動作と、それに対する反撃の所作を網羅した“型”が無数に存在し、それを全て完璧に熟知し、再現することができたとすれば。
その者は戦闘において、決して負けることのない無敵の存在ということになる。
アマラのやっていることはそれだった。
彼の頭の中には、あるいは肉体を構成する細胞のひとつひとつには、敵の動きに対応する“型”が叩き込まれていた。彼はその“型”を、その場その場で反射的に行っているだけにすぎなかった。
しかし、だからこそ敵には為す術がなかった。どんな攻撃を行おうと、それに瞬時に対応され逆に反撃される。かといって積極的に攻撃しようとせず及び腰でいれば、他者を殺すための必要最低限の動作にて、気づく間もなく仕留められる。
たった一人の人間が百を優に超える魔物の群れを圧倒し、半ば支配していた。
それは、ゲルマニアには存在しない、極限まで洗練された戦闘手法だった。
これもまた東海の向こうの国、イエパンで生み出されたものだ。
斬ることに特化し極限まで鍛え上げられた刀を振るい、単純な力ではない効率化された最小限の動きで敵を抹殺するために生み出された技術。
―――“イエパン流剣術”だ。
アマラが繰り出す“剣術”の前に、《ワーリザード》は蹂躙されていた。
とはいえ、“型”を身に着けそれを実践するのも、あくまで生身の肉体である。そして肉体というものが常に最上の状態を維持できるというわけはない。疲労という不確定要素によって身体の動きは鈍り、“型”の再現度はいくらでも乱れ、それにより勝利は遠のいていく。高度な戦闘手法を用いたとしても、さすがに湯水のように湧いて出る敵を全て捌き切るのは難しいのだ。
彼は一度場を仕切り直すために、絶え間なく押し寄せる敵から一度離れることにした。姿勢を低くし、ひしめき合う無数の敵、その足元を縫うようにすり抜けていく。
多数を相手にする際の、戦場離脱のための型―――
“イエパン流剣術 乱戦の型 根這宮守”だ。
敵から距離を置き、離れた場所へと出たアマラは刀を一度正面に構え直し、かすかに乱れた呼吸を整えた。
ほんの数十秒の攻勢で一気に十体近くを倒された《ワーリザード》の群れだったが、いっさいそれに気圧されることなく、再び彼に押し寄せようと迫り来る。その人ならざる顔からは、何を考えているのかは伺い知れない。恐怖も、勇気も、憤怒も、何も見えてはこない。
とはいえ、その薄気味悪い姿に対して、アマラもまた何も感じることはなかった。彼にもまた恐怖も怒りもない。ただ波一つ立たぬ水面のような静かな殺意だけが、心の内を満たすばかりだ。そこには幾ばくかの乱れもない。
―――いや、ただ一つ。水面の広がる憂いの波紋があった。
今この戦場にて、自分と同じように戦っている仲間達への憂いだ。
「(フレデリカ、ユスティ、ウィリアムス。呉呉も、五体無事でいてくれ……)」




