37.壊心の剣
落下という現象に対して、人間という生き物は無力だ。
空中でどれだけ身をよじらせても、それに抵抗することはできない。一度落ち始めれば、後はどこかに墜落するという結果を甘んじて受け入れるだけだ。
そして、50メンスを超える距離を落下すれば、人の身体は到底耐えられない。膨大な加速から来る衝撃は全身を砕き、一瞬で生命を奪い去るだろう。
―――が、こと彼女に関しては、それは当てはまらなかった。
崖から飛び降りた彼女は、そのまま自由落下に逆らうこともなく、下方の地面へと着地した。そう、“激突”ではない。“着地”だ。
落下の衝撃により、《ロックアイランド》の根源吸収の余波で半ば枯れ果てていた地面が、わずかにひび割れる。それほどの衝撃でありながら、フレデリカの身体は砕けるどころか、何の損傷も受けていなかった。ただわずかに腰を沈めるだけで、その身体は悲鳴のひとつもあげることはない。
さらに彼女は着地すると同時に、そのまま地面を蹴って前方へと飛んだ。
ただそれだけだ。ただ地面を蹴って前に出ただけ。
ただそれだけのことで、彼女の身体には凄まじい加速がかかり、反る燕より速く、音を置き去りにするほどの速度を発揮した。
それは、人間という生物では到底出来ない異常な動きだった。
ならば、人智を超えた自然の恩恵―――魔術を使っていると考える他ないだろう。風の魔術を用いれば、物体を高速で動かすといったことも可能だ。それこそ人の身体であろうと。
だが、フレデリカは決して魔術は使っていなかった。落下の最中にも魔術行使のための詠唱は行っていない。少なくとも彼女は、自らで魔術を発動しているわけではなかった。
その上で、これだけのことをやってのけたのだ。
猛然と加速し、滑るように大地を駆ける彼女は、広大な“大地の臍”、その中心へと向かっていく。
遠くに見えていた“岩の島”が少しずつその姿を拡大していき、それに伴って、その周囲にまるでダニの死体が積もっているかのような小さな影が見えてきた。それは、実際寝具に散らばるダニの死体ほどの数で大地に群がる、敵の影だった。
その影はフレデリカが前に進む毎に大きくなり、やがてその正体を顕にしていく。
二本足で立つ武装したトカゲ。それが、大地を埋め尽くすほどの数待ち構えていた。数える気にもならないほどに多い。あれにこれから、戦いを挑むのだ。
その姿を確認したフレデリカは、俄然両足を前に突き出して、飛ぶような加速にブレーキをかけた。
突き立てられた踵が地面をいくらか削り取って、彼女の身体は大地の上に静止した。
それから呼吸をひとつ置き、眼前に見えるトカゲの群れを見据えながら彼女は右手を前にかざし、そしてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「この身はただ赴くままに」
フレデリカが自らの意思で発動する魔術があるとすれば、それはこれ一つだけだ。
しかし発せられるその言葉は、魔術に必要となる詠唱ではない。
物質を空間の中に小さく圧縮して保存する、《圧縮》という魔術がある。圧縮された物質は、質量はないが確かにそこにある“形のない箱”として持ち歩くことができ、解除すれば再び元の大きさに戻すことができる。どれほど重く大きなものでも、それこそ空気ほどの軽さに変えて携帯することが出来るようになるのだ。もちろん言うまでもないが、対象となる物質が大きくなればなるほど《圧縮》に必要な根源も多く必要になるため、余程必要な場合でない限り、あまり使われるものではないが。
とはいえいざ発動したとなると、その利便性は相当なものになる。しかもこの魔術の優れた点は物質の圧縮だけでなく、術式を追加することで、魔術の解除にある程度の条件や拡張性を付与することができるというところだった。例えば鍵をかけるように、あるルールに則らなければ魔術の使用者本人でも解除できないようにしたり、逆に魔術道具のように誰でも念じるだけで解除し、圧縮された物体を取り出せるようにしたりといった具合だ。
フレデリカがやっているのは、その《圧縮》の魔術の解除だった。とある武器が、圧縮された空間の中に保存されており、それを今から取り出すのだ。
が、この魔術自体は彼女が発動したものではない。彼女の頼みにより、“移ろいの民”の一員であるグレンマレィが用意したものだった。
念じるだけで解除されるように術式を組んでもらったので、詠唱の類も必要なく、すぐにでも武器を取り出すことはできる。
彼女が言葉を紡ぐのは、ある種の決まりだった。武器を取り出すということは、これから戦いが始まるということである。それを前にして、自らの心を正す。そのための所作だ。
このような所作は、得てしてどんな人間にもあるものだ。絶対に必要ではないが、それが身体に染み付いていて、自然と欠かすことがなく行ってしまう儀式めいた行為。
それは例えば、寝る前にストレッチをするだとか、微量の酒を飲むと素面よりも作業が捗るとか、ソシャゲのスタミナを消費しないと一日を終えた気にならないとか、重要な局面を前にした時ある曲を聞けば必ずいい結果を出せるとか。そのような些細なことも、ある意味そういった決まりのひとつと言える。
そしてフレデリカの行うこれも、それらと同じことなのかもしれない。
「慄き、叫び、心を壊せ。《壊心の剣》は帰還せり」
そう歌うように唱えた次の瞬間。彼女の前に圧縮されていた空間が俄に膨張し、何もなかったはずの場所に“それ”は出現した。
彼女はかざした右手でそれを掴む。
それは、剣だった。このゲルマニアにおいてもごくありふれた、最も普遍的な武器の一つだ。
だがその剣はあまりに―――
あまりに大きすぎた。
身の丈ほど、などいうものですらない。その剣は、手で掴む柄の部分ですでに、フレデリカの背の三倍以上の長さがあった。刀身まで合わせると、その全長は18メンスにまで達する。
シルエットそのものは確かに剣のそれではあるが、ひと目見ただけでは、それが剣であるとも、ましてや戦いに用いる武器であるとも分からないかもしれない。それほどの異物であった。
《壊心の剣》。
高精度の魔術により精錬された鋼鉄を、数人の刀鍛冶の共同作業により鍛え上げた長大な鉄塊。少し傾ければ、それだけで自らの自重で折れてしまいかねないものに、さらに十重二十重の魔術で装飾をかけて強度を高めた結果作り上げられた、《勇者》のために莫大な人材と技術を費やされた一振りだ。どれだけの力を加えようと決して折れず、根源をまとった刃はあらゆるものを切断する。
このゲルマニアにおいて、最も強力な武器と言われるもののひとつが、この《壊心の剣》だった。技術の粋を尽くして生み出された無敵の剣。
が、それも扱えればの話だ。18メンスに達する刀身は凄まじい重量となり、例え鍛え上げられた肉体であろうとまともに振るうどころか、持つことさえ困難であろう。使用者の肉体を強化する《頑強》の魔術を用いたとしても、武器として十分に扱うことはやはり不可能だ。
それは最早、剣ではない。その全長はどちらかというと、高台からものを見るための“櫓”と言ってよかった。少なくとも、人が扱うものでは到底ない。
だが、他でもないこの櫓のような鉄塊こそが、フレデリカの武器だった。
そう。彼女の戦いを実際に目にした他の再征者が、彼女をその異名で呼んだのだ。
“櫓振るい”と。
「いくぞ……!」
そう静かに、しかし力強く彼女が言うと共に、天高く真っ直ぐに伸びていた《壊心の剣》の刀身がゆっくりと傾き、大地に目掛けて倒れ始めた。
否、倒れているのではない。その、何かが間違っているとしか思えないような大きさの鉄の塊は、確かにフレデリカの手により持たれ、そして支えられていた。
彼女はそのまま剣を後ろに向け、大地に平行になるように寝かせて静止させる。構えられたその剣先は、どこに当たるわけでもなく中空でぴたりと止まり、震えひとつ起こさない。
それもまた異常な光景だった。18メンスもの長さの武器を横に向けた状態で保持しようとした場合、肉体にかかる負荷は壮絶なものとなる。人間の腕など容易く折れてしまうだろう。ましてや剣先を静止させるなど、到底出来るものではなかった。
だが彼女には出来ていた。
あるいは本当に、彼女は人間ではないのかもしれない。
フレデリカはそのまま再び大地を蹴り、前方に見える《ワーリザード》の群れへと飛び込んでいった。
※
実際のところ、高地からの落下に対し人間は無力であるが、魔術というのは不可能を可能にし、無力な人間に力を授ける。激突による衝撃や、あるいは加速そのものを魔術により緩めてしまえば、例え崖から飛び降りたとしても無傷で済むのだ。
フレデリカを追う“移ろいの民”の仲間たちも、無事“大地の臍”に着地し、その中心部へと向かっていた。
風の根源により推進力を得て、燕のように低空を滑りながら進む二人の《騎士》、グレンマレィとユスティーナ。魔術師による、魔術を用いた一般的な高速移動だ。
そしてその傍らにもう一人。アマラという名で呼ばれる男。
異常と言えば、その姿もまた異常だった。
彼は顔まで覆うような外套を纏ったまま、走って他の二人に追いついていた。魔術による加速にだ。
絶えず動く足はその軌道を確認することすらできず、それでいて腰から上の部分は揺れ一つ起こすことはない。まるで上半身と下半身で別の生物として切り離されているかのようだった。
三人が猛然と敵陣へ向かう中、グレンマレィが他の二人に呼びかける。
「僕達はフレデリカのおこぼれを頂くとしよう。他の部隊が到着するまでに、敵さんを一箇所に集中させちゃマズイ。三手に分かれて、分散させたまま各個撃破といくか」
それに、そのすさまじい早駆けの最中でありながら、息も切らさずアマラが応える。
「委細分かった」
「……ユスティ。お前さんは?怖いなら、僕と一緒にいていいんだぞ?」
一方のユスティーナからはしばらく返事がなく、グレンマレィが改めて問う。
それにしばらく遅れて、若い魔術師も応えた。
「……心配は無用です。任せてください」
「そうさせて貰うが、危なくなったらすぐに助けを呼べばいいからな」
さすがのグレンマレィも、今ばかりは彼女をからかうようなことは口にしない。これは純粋な心配から来る言葉だった。
大地を埋め尽くすほどの魔物の群れが少しずつその姿を見せてくるのを目にすれば、気を引き締めなければならないと思うのも当然のことだった。
が、ユスティーナとしては、例え真面目な口調であろうと、グレンマレィのこの発言はいつもの冗談と変わらず気に食わないものだった。彼女は口を尖らせて、吐き捨てるように返事する。
「ですから心配無用ですって。ちゃんと分かっています」
「それならいい、僕ももう何も言わない。……ユスティは左、アマラは右に分かれよう。僕はこのまま正面から突っ込む」
「それじゃあ、行ってきます」
口早に返事をして、ユスティーナは早々に左方へと流れていった。去っていくその姿を眺めていたグレンマレィは、続けてアマラの方へと向く。
「僕より強いと分かっている奴にわざわざ忠告するのも心苦しいんだが……。アマラ、お前さんも油断はしない方がいい。今回ばかりは、力を出し惜しみしている場合じゃない」
そんな言葉を聞くアマラは、ただ前方を見据えたまま変わらず足だけを凄まじい速さで動かし続けるばかりだ。しかし、外套のフードからわずかに覗く横顔には、仲間であるグレンマレィにしか感じられない僅かな強張りがあった。
それを見透かした無精髭が、こう続ける。
「なに、《偽装》の魔術は使ってある。お前さんの本当の姿を目にする奴なんていやしないさ。もし万が一のことがあれば、僕がなんとかしてやる。自らの素性を隠すために、生命を捨てるなんて下らなさすぎると思うね」
その言葉は、同じ“移ろいの民”の仲間のことを案ずる発言だった。それを聞いたアマラは、やはり前だけを見据えたまま、静かな声で返す。
「尽力の程、痛み入る。大事ない、皆を悲しませぬためにも、ここを死に場所にはしないさ」
「そう言ってくれるなら、お前さんに関しては安心だ」
「……貴殿はどうだ。此度の戦、我々としても前例にないもの。ウィリアムスこそ、手前らを哀しませるような真似はしないでくれ」
そう返すアマラの言葉もまた、グレンマレィの身を案じてのものだ。彼は基本的に口数の少ない男ではあるが、その感性は当たり前の人間と変わりはない。仲間のために憂うことの出来る男だった。
“移ろいの民”がこれまで困難な依頼を幾度となく達成してきたのは、なんだかんだといって、互いが互いを敬い、守ろうとしているからだ。
そんな彼らはこれから、今までにない程の脅威と対面することになる。
が、アマラのこの言葉こそ、グレンマレィは笑って聞き流した。ようやく彼は、いつものヘラヘラとした軽薄そうな笑みを浮かべた。
「それこそ大事ないことだよ。いざとなったらここから逃げ出して、万事他の連中に押し付けるさ」
その元も子もない応えに、アマラもまたフードの奥で微かな笑みを浮かべた。
「相変わらず、腕と同じに口も達者な男だ。……手前も行くとしよう、武運を祈る」
「あぁ、次に会う時は死体だったなんてことがないよう、祈ってるよ」
その言葉を最後に、アマラもまたグレンマレィから分かれ、“大地の臍”の右側へと流れていった。
先んじて崖を降りたフレデリカは、すでに戦いを始めている頃合いであろうか。




