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異世界の黒砂糖 ~最初に出会ったのは死にかけの奴隷だった~  作者: tatakiuri
第一章 全ての孤独な人達は
25/55

25.パラレル・ユニバース



 宿屋へと戻る道すがら、ふと思い立ち、小さな日用品店から歯ブラシと、ローブのような形の寝巻きを少女の分と併せて買った。

 昨日は結局上着だけ脱いで、それ以外は転生してきた時のままの格好で寝てしまったが、さすがにベッドの中ぐらいはそれ用の服装をしていた方がいいだろう。

 歯ブラシは植物かあるいは動物の毛か、原料は分からないが魔術によって作られたと思しき繊維を、木製の柄に細かく植え込んだものだ。魔術の発達により物体を加工する技術も高度であることはすでに分かっている。このような日用品の類も、()()()()()()で使っていたものとそう大差ない代物がほとんどだ。

 そりゃあ、歯は磨かなくちゃいけない。虫歯になったら敵わんからな。とはいえ、魔術師ならばそれこそ歯を磨くくらい魔術を使えばどうとでもなる。わざわざこんな道具を使う必要もない。

 が、魔術の心得のない少女はそうもいかないだろう。それに俺だって、そう何でもかんでも魔術で済ませようとは思わなかった。そんなことをしていると、その内向こうの世界での生活を忘れてしまいそうで空恐ろしいからだ。“仕事”が終われば向こうの世界に戻れるということもないのだろうが、それでも、俺という人間が地球という星の日本という国で生きていたという記憶は、持てるなら持ち続けていたい。

 これからも、魔術を使わなくてもできることは、出来る限り自分の身体を動かして済ませることにしよう。

 となれば、これからもこういった日用品は必要になってくるだろう。また何かしら足りないものに気づいたら、その都度仕入れてくることにするか。



        ※



 寄り道を済ませて宿屋に戻り。そのまま俺達はそれぞれの部屋へと戻った。

 窓の向こうの空はすでに暗くなっていた。まだそんなに日も経っていないと思っていたのだが、実際はそうでもなかったらしい。今日はいろいろなことがあったものだから、時間の進みが早く感じられるのかもしれない。


 なんにせよ、今日はひとまず休むとしよう。風呂に入って美味い飯を食って体力は有り余っているが、それと眠気は無関係なのだろう。人間っていうのは毎日一定時間は寝ておくべきなのだ。

 もしかしたらこれから先、眠る間も惜しんで異常バグと戦うなんてことにもなるかもしれない。

 今の内に、楽できるところは楽していけばいい。


 流し場で歯を磨いて寝間着に着替えて、そのまま俺は魔術灯を消してベッドの中に潜り込んだ。

 昨日も感じたことだが、丁寧に作られたなめらかな肌触りのシーツに包まれた、フカフカの布団だ。下手したら俺が以前一人暮らしの時に使っていた寝具よりも寝心地がいいのではないだろうか。

 そのおかげか、あるいは根源エーテル風呂の効能か、はたまた自分が思っている以上に今日の俺は疲れていたのか、すぐに睡魔は全身へと広がり、意識はどことも言えない場所へと溶けるように霧散しようとしていた。

 そうして本格的な眠りへと落ちようとする、その寸前だった。


 廊下へと続く扉がコンコンと音を立てるのを聞いた。聞き間違えることはない、これはノックの音だ。後もう数十秒遅かったら、眠りの中で聞き逃していたかもしれない。

 木製の扉を叩く乾いた音に続いて、その向こうから微かな声が聞こえてきた。


「ニイハラ、起きてる?」

 これもまた聞き間違えるわけがない。少女の声だ。

「どうした?」

 と俺が聞くが、彼女はしばらくの間、

「いや、その……」

 と言いよどむばかりだった。


 まぁ、こちらから聞くまでもないだろう。用がなければ他人の部屋の扉をノックすることなんてないんだから。俺はベッドから起き上がり、作業机の上に置いてあった鍵を手に取り扉の錠を解除した。

「入っていいぞ」

 そう呼びかけると、遠慮がちにゆっくりと解錠された扉が開き、その向こうから少女が顔を覗かせてきた。

 その表情はどことなく暗く沈んでいるようで、同時に眼はやけに据わっているように見えた。時折彼女が見せる鬱屈とした顔であるが、何かしらいつもとは違う奇妙な印象も感じられる。


 のそのそと部屋の奥まで入ってくる彼女の姿を、ベッドを椅子代わりに腰掛けて眺めながら、俺は改めて彼女に呼びかける。

「どうかしたのか?なにか相談事なら乗るが」

 そのまま俺のすぐ目の前、腕一本か二本分ぐらいの距離にまで近づいた彼女は、その据わった眼で俺を見ながら応えた。


「今日、あの雑木林で何があったのか、正直よくは覚えてないんだけど、多分ニイハラにいろんなことを話したんだと思う」

「……」

 あの、昔語りのことを言っているのだろう。

 返事をしない俺のことは構わず、少女は続ける。

「だったら、あのことも話したんでしょ?」

「あのこと……って言われてもなぁ」

 いろんなことを話していたものだから、何をもって『あのこと』と言っているのか分からない。彼女は一体なんの用でここに来たんだ?

 よく見てみると、ローブ状の寝巻きから覗く彼女の褐色の首筋は、わずかに湿っていた。ついさっきまで汗をかいていたのかもしれない。

 それをぼんやりと眺めている俺に、彼女はうわ言のような調子で続けた。


「――――盗賊団に拾われて、そこで働かされていた頃。駆け出しの若い再征者レコンの集団を襲ったことがあった。依頼を終えて、手に入れた素材を馬車に積んで移動していた。その素材を奪うつもりだったんだ。再征者レコンになったばかりの連中なんて、ほとんど素人と同じだよ。襲撃はあっさり成功して、積荷は全部こっちのもの、再征者レコンも全員捕まえた。

 ……盗賊団には、野獣みたいな男が何人もいた。で、捕まえた再征者レコンの中には何人か女の人がいた。となれば、何が起こるかは分かるでしょ」

 確かに、何が起こるのかは分かる。しかし、それを実際に口にするのはなんだか気が引けるし、彼女の方も言葉にはしなかった。


 少女は続ける。

「それで。それで……その再征者レコンだけじゃなく、前から盗賊団の中で働かされていた人達も、ついでに()()をさせられていた。私みたいに、命乞いをしてなんとか生かしてもらっていた憐れな連中だよ。女の人はもちろんそうだし。ほら、中には若い男の人にそういうことする人だって、いるじゃない。それで、私にも手が伸びてきた。元々は他の誰かのものだったはずの酒を飲んで、据えた息を吐きながら、そいつは私が着ていた服を無理やり破った。元々ボロ布と変わらないようなものだったけどね。

 ……正直、それならそれでいいと思った。確かニイハラには、身体を売るような生き方はしたくないって話してたと思う。でもあれは嘘だよ。ホントは一回そういう道を選びそうになったことがある」

 その言葉は俺も覚えている。誰かのために生きたくないと少女は言っていた。

 しかし、女性蔑視と思われても仕方のない考えではあるが、それは女が生きるためには最も手っ取り早い方法なのではないかと思う。そして、男である俺には、実際にそうやって生きることの苦しみは分からない。

 それでも、その道を選びそうになったという彼女の言葉が、重く背中にのしかかってくるような気がする。


「でも、でもね。そいつは途中で私に乱暴するのをやめたんだ。その時に聞いた台詞はよく覚えてる。覚えてる価値なんてないのに、覚えてるんだよ。

 『こんなガキとヤッてもつまらない』ってさ。それでそいつは結局別の女の人のところに行った。私はそれから、破れてボロボロの服のまま、男と女が叫び声あげながら変な匂いを撒き散らす中に取り残された。だから実際のところは、何もされずには済んだよ。

 ……あの後再征者レコン達がどうなったのかは詳しくは知らない。でも多分、散々乱暴された後道端に捨てられたんじゃないかな。生命まではとってないと思うよ。再征者レコン組合ギルドに情報が登録されてるから、下手に捕まえたまま“飼う”なんてこともできなかったし、殺したらそれはそれで後が怖い。それに、あの盗賊団の連中は殺して楽にするよりは、生かして辱めて苦しむ姿を想像して楽しむような連中だったから」

「……」

「ねぇ。私がその時何を思ってたか分かる?」

「……いや」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。いっそ、くだらない自尊心なんて捨てて、身体を売って男を慰めれば確かに生きてはいけると思った。なんの身寄りもなくて、誰かを傷つけたり殺したりできるような力もない、能無しだと烙印を押されながら、それでも生きるためにあんな屑どもにすがりつくしかない私でも、こうすればひとりでも生きていけるんだって。

 でも、そんな価値すらないって言われたんだ。私にはそれすらできないんだって。それじゃあ、私には結局何が出来るんだ?それが分からなくなった。何一つ出来ることなんてなくて、どんな生き方だろうと許されなくて、その上で無理やり生きていくしかないって、そんな現実を見せつけられたようで。悔しくて……」


 少女は立ち尽くしたまま両手の拳を握りしめ、それはわなわなと小さく震えていた。

「あんたは……」

 しかし、俺がそう呼びかけたその時には震えは収まっていた。


「ねぇ、ニイハラはどうなの?」

「え?」

 突然の問いだった。

 『どう』って、何が。


 何も応えられずに固まっていた俺の視界の中、いつの間にか少女は何も着ていなくて、裸になっていた。

 足元に脱いだ寝間着が落ちていたが、そんなことを確認する余裕はなかった。

 その褐色の身体を覆うものは、もう何もない。汗によりかすかに濡れたその肢体が、魔術灯の光に、怪しく照らされている。その姿は、どれだけ未成熟のものであろうと、男という生き物の本能を刺激するには十分で……


――――って、俺はなんて失礼なことをしている!

 何をまじまじと観察してるんだ。これじゃとんだ変態じゃないか!

「い、いや、ちょっとッ!?」

 俺は慌ててベッドの上で跳ね上がるように後ろを向いた。

 そもそもの話、彼女はいきなり何をしてるんだ!?


 そんな動揺を他所よそに、背中越しに少女の抑揚のない声が続いた。

「あなたのことを手伝うなんて言ったけど、私は力があるわけでも魔術が使えるわけでもない。役になんて立たない。だから結局誰かのためにできることなんて、ひとつしかないんだ。……ねえ、ニイハラは私のことどう思うの?あなたも私のことを、女として魅力のない、無価値な身体だと思ってるの?

――――そんなことない。私だってやり方さえ選ばなけりゃ、ちゃんと一人の人間として生きていける。こうやって身体を使えば、金だって、明日の食べ物だって手に入れられる。それを証明させてよ。私のことめちゃくちゃにしていいから、あなたがそれを証明してよ!」


「……」

 身体の奥底から妙な熱がこみ上げているのを感じていたが、それが急激に引いてきた。


 ……くだらない。

 彼女が何をしようとしているのか、俺に何をさせようとしているのかはなんとなく分かった。

 だが、俺がそんなことをすると思うのか?


 変わらず彼女に背中を向けたまま、俺は言う。

「服を着ろ」

「……応えてよ」

「あぁ応えてやるよ!!女として価値があるとかどうとか以前になぁ!あんたがやろうとしていることはくだらん自己満足だ。自尊心を取り繕うために、俺という個人を利用しようとしているんだ。そんなことしたところで、あんたが俺を慰めるんじゃなくて、俺があんたを慰めるだけじゃないか。そんなことしてたまるか。何が証明だ、巫山戯るのも大概にしろ。次そんなこと口にしてみろ。どこぞの森に放り捨てて、今度こそ魔物の餌にしてやるからな」

「……」

「やり方は他にもあるだろ。それをこれから見つけようってことになったんだろうが。今更そんな発想になんか行き着いちゃ駄目だ。……ほら、応えてやったから服を着ろよ」


 この期に及んでなお自分を卑下にし続ける彼女のことが、彼女をそうしてしまった世の中のことが腹立たしかった。思わず声を荒げてしまったが、今しがた口にしたことは俺自身の確かな本心であるし、それが間違いであるとも思わない。


 しばらくの間部屋に重苦しい沈黙が流れる。

 それを破ったのは、少女の震える声だった。

「き……着たよ」


 ……やっぱり言い過ぎた。顔を見なくても狼狽ろうばいしているのが分かる。

 慌てて後ろを振り返ると、寝巻きを着直した彼女が、今度は拳と言わず全身を震わせて、涙を流しながら嗚咽していた。

「ち、違う。私が言いたいのはそうことじゃなくて、その……」

「いや、俺こそキツいことを言い過ぎた。そ、その、なんだ……」

 必死になにか気の利いたことを言おうと言葉を選ぶが、何も出てこない。

 慌てふためく俺を見ようともせず、伏せた目元から涙をぼとぼと落としながら、彼女はたどたどしく言った。


「そのね?布団に入って眠ろうとすると、瞼の裏に魔物が映って、私のことを喰おうとして、それで眼が覚めて眠れなくなって……昨日もそうだったんだ。それで今日も眠れなくて、不安で不安で。それで、もしかしたらね?誰かと……ニイハラと一緒なら、こんな夢見ずに眠れるんじゃないかと思って。そう考えたらなんだか、頭の中でいろいろ変なことが思い浮かんで、あんな、あんな変なことを言ってた。ごめんね……ごめんなさい」


「――――」


 一瞬、心臓が凍りついたような気がした。


 ……そうか。

 俺は再び、自分のやった行いの結果というものを突きつけられた。

 そりゃそうだ。魔物に喰われかけたんだ。依頼クエストの最中に気だって狂うし、悪夢だって見る。俺が無理やり生かしてしまったせいで、少女は夜ぐっすり眠ることすらできなくなったのだ。

 《肉体生成バースコントロール》は身体を治せても、精神こころに刻まれた傷は治せない。神経に作用して多少興奮や恐怖を落ち着けることはできても、それを完全に消失させることは出来ない。そんな魔術はどこにも存在しないだろう。

 俺は、自らの行為によって一人の人間の人生を歪めてしまったのだ。それを再び実感した


 不安に苛まれ、脳裏に焼き付いたトラウマに急かされた彼女は、気が動転してあんなメチャクチャな言動をしてしまった。要するに、その責任はやはり俺にあるということだった。

 くだらない自己満足?

 自尊心を取り繕う?

 あいつが俺ではなく、俺があいつを慰める?

 今しがた発言した自分自身を殺してやりたい気分だ。

 彼女はこの絶望的な状況をなんとかしようとして、俺に縋り付いてきたんじゃないか。


 そうだよ。俺はあいつを慰めなくちゃいけない。それが、彼女の生命を繋げてしまったことへの責任なんだから。


 そのために、一緒に寝る。

 そうしなければならない。彼女がそう望むのなら、それをしないという選択肢などない。

 俺はベッドから立ち上がり、震える彼女の肩に手を乗せた。

「それならそうと言ってくれればよかったんだ。分かったよ。一緒に寝るぐらいならお安いご用だ」

「……」

「少なくとも、あんたは俺にとっては無価値じゃない。それはこれから、別の方法で証明する。だから今日は一旦寝よう」


 少女は俯いたままだった。しかしその涙は止まり、身体の震えは少しずつ消えようとしていた。



       ※



 一緒に寝るとは言ったが、まぁ実際のところ、ホントに一つのベッドに身を寄せ合って眠るというわけではないようだ。

 それならそれで助かる。いくら子供とはいえ、正直いきなり添い寝してなんて言われても恥ずかしくて敵わん。

 ひとまず少女には俺の部屋、俺のベッドで眠ってもらって、彼女が寝付くまで俺が見守るという形になった。彼女自身それだけで構わないと言っていたので、特にこちらからは何も言わずに従うことにしよう。


 横になり、掛け布団を肩まですっぽりと被った少女の姿を、椅子に腰掛けて傍らから眺める。

 そんな彼女の姿は、やはりどことなく小さく見えた。今まで散々強がりを言って自分を大きく見せようとしていた彼女も、今この時になってようやく本当の姿を見せてくれたような気がする。


「大丈夫か、寝れそうか?」

 俺がそう呼びかけると、まるで布団から直接生えているかのようにそこだけヌッと飛び出ている少女の顔がこちらに向いた。

「大丈夫だと思う」

「もしやっぱり上手く寝付けそうにないなら、魔術を使って神経を沈静化して、気持ちを落ち着かせてやることもできる。あんまりやりたくない方法ではあるがな、無理やり精神に作用するわけだから」

「いいよ、そんなことをしなくて……おやすみ」


 それだけ言って、彼女は眼を閉じた。

 魔術灯が消え、窓から差込む月明かりだけが部屋を薄く照らす。

 重く沈むようなものではなく、なだらかに広がっていくような、そんな沈黙が流れていた。

 俺はしばらくの間、まるでそのまま死んでしまったかのように動かなくなった彼女の顔を眺めていた。


 そうしてふと、あることが頭の中に浮かび上がった。

 それは、今までずっと思考の片隅で探していたもの、選び取ろうとしていたものだった。

 彼女とまったくの他人ではなくなった以上、この関係を続けることになった以上、改めてなんとかしなければならないと思っていた問題に対する、ひとつの回答だった。


「起きてるか?」

 俺がそう呼びかけると、少女はゆっくりと眼を開いた。

「もうちょっとで眠れそうだったのに」

「それは結構だ。ひとつ聞いて欲しいことがある」

「なに」

「あんたの名前だよ。今考えた。やっぱり、いつまでも『あんた』と呼ぶのは駄目だと思ってな。あんたさえよければ、俺が名付け親になってやる」

「私の名前……」

「そうだ」


 彼女も、昔孤児院もどきに拾われた時に名前をつけられたと言っていた。だが、彼女は結局それを忘れてしまったようだ。

 ……いや、あるいは忘れたのではなく、覚えることをやめたのかもしれない。彼女にとってその名は、自分の人生の汚点であるからだ。

 名前なんて所詮は、単なる音の響きでしかないと俺は思っていた。けど、実際はそうではないのかもしれない。名前があって、それで初めて人にしても物にしても、この世のあらゆるものはその存在を確かなものにする。

 なら、今俺が彼女の名前を決めれば、そこで俺と彼女の関係も確定する。彼女のこの先の未来が定められたものになる。そんな気がした。

 それはある種の契約だ。再征者レコンが《下級スレイブクラス》を雇うそれよりもずっと堅く、重大な責任の伴う契約だと、俺には思えた。

 それに、自分の娘でもない、というかそもそも肉親関係でもない少女の名前を考えるというのは、どことなく気恥ずかしくもあった。


 だが、今更それに物怖ものおじすることはないし、恥ずかしがっている場合でもない。

 俺は意を決したように、脳裏に浮かんだその名を呼んだ。


「“エリナ”。……それがあんたの名前だ。別に何か特別な意味があるわけじゃない。本当に、ふと頭の中に思い浮かんだんだ。でも、他になにか思いつくわけでもないから、これに決めた」

「……」

 少女はこちらの顔をその両の眼で見据え、かすかに口を開いて何か言おうとしたその表情のまましばらく固まった。

 そうしていくつかの間を置いてようやく何か言ったかと思うと、

「なんか、思ってたよりも普通な名前だなぁ。ニイハラのことだから、わけわかんないトンチンカンな名前を考えてるかと」

「あ、あのなぁ。俺のことをなんだと思ってるんだ。それとも何か、こんな当たり障りのない名前じゃ不満か?別に、名前があったほうが何かと便利だと思っただけなんだから、気に食わないなら別にあんたの方から誰かに名乗ったりする必要だってないぞ」

「不満なんかじゃない」


 自分でも滑稽なまでに余計なことをべらべらと喋る俺を尻目に、少女はぼんやりとそう応えながら視線を移し、部屋の天井を眺めた。

 そうしてかすかな声で、つぶやくように言う。その声には半ば意識はなく、微睡みの中に消えていく精神の残滓のようだった。

「エリナ……私の名前」


 言い終えた時には、少女――――エリナはもう一度眼を閉じた。

 その顔は穏やかで、先程彼女が口にしたような悪夢の類とは無縁に思えた。


 ……そうか。

 本当に彼女は、これでゆっくりと眠ることができたのか。俺が近くで見ている。ただそれだけのことで。

 それを確かめたことで、俺の胸中にも深い安堵の熱がじわりと染み入った。


 後はもう、朝まで彼女が目覚めることはないだろう。

 俺もそろそろ眠るか。

「今日の寝床は、椅子の上か……」

 エリナに聞こえないように小さくそうぼやいたが、別にそのこと自体には不満はない。

 俺も彼女に続くように、椅子の背もたれに背中を預けて深く眼を閉じた。



 そうして、瞼の裏に残る意識が眠りの中へと落ちていくその寸前、いろいろなことが脳内を泳いでいた。


 思い返して見れば、俺のこれまでの人生の中で一番後悔すべきは、誰かのため、特定の個人のために、自らの生命を費やすことができなかったことだと思う。

 だが今、ようやく俺はその機会を得た。


 エリナ。


 生まれた意味さえも分からずに、多くの悪意に晒されて、その心を苛んでいった女の子。俺の手で、死という形で救われ終わっていくはずだった人生を、無理やり永らえさせられた少女。

 俺は、彼女のためにこれからの人生を費やしていかねばならない。それは、あのゼアの森で生じた責任であり、俺自身がそうしたいと望んだことだ。


 何もできないと口にした彼女の、絶望にまみれた価値観を拭い去り、その未来を共に切り開いていくために、俺はこの二度目の人生を生きる。

 この際だ、神様に頼まれた“仕事”の結果すらどうだっていい。これは俺がようやく、一度死んでまで見つけ出すことができた生きることの意味だ。

 たとえこの世界が滅びることになったとしても、彼女の人生を後悔によって終わらせはしない。


 ……いや、違うな。そのためにはやはり、なんとしてもこの世界は守り抜かなければならない。エリナもこの世界も、どちらも守る。

 彼女が自らを認めさせるべき相手が、社会が、世界がなければ、生きていく甲斐だってないんだから。



――――この視界には今、広大な宇宙が。

 俺は、誰かの生命そのものという、世界の全てに互換する並行の宇宙パラレル・ユニバースの中にいるような気がした。

 無限に等しい大海原のその重みに、俺は向き合わなければいけない。



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