19.狂乱
荷台を牧場に置き、雑木林へと足を踏み入れる。
ゼアの森に比べれば規模は小さく、木々の間から差し込む陽光により林の中はそれなりに明るい。しかし、生い茂る草木がさながら絵画の前に張り巡らされた網となって視界を隠し、中を詳細に窺い知ることは難しい。
木の幹の裏や草の影、あるいは土を掘り起こして穴を作り、その陰に隠れている者がいるのかもしれない。しかし、その何者かは決して俺達の前には姿を見せない。
《スキゾイドッグ》は、魔物の出現により棲家を変えざるを得なくなった獣だ。その過程において、それぞれの群れによって巣の作り方が環境に応じて変化するようになった。どのような形で隠れているかは分からない。
自分達の縄張りに忍び込んだ者を仕留めようと、奴らはその機会を狙っているのだ。こちらが隙を見せるまで、依頼の標的である《スキゾイドッグ》共は決して向こうから仕掛けては来ないだろう。
が、それは連中がこちらの手の内を知らないからこそだ。
こちらには隠れている標的をあぶり出す手段などいくらでもある。それこそ、先程発動した《能動探知》をもう一度使えばいい。雑木林の外で使った際にはまだ具体的な潜伏場所までは分からなかったが、もう一度精度を上げた上で生紋を取得すれば、今度こそ奴らの居場所など一目瞭然に判別できるだろう。
俺は枯れた葉や虫の死骸が混ざりあった地面に、先に行ったのと同じ仕草で左手をついた。
――――それこそ奴らの狙う隙に他ならない。地面に座り込んで視線を落とすなど、死角から襲いかかってこいと言っているようなものではないか。
待ってましたと言わんばかりに、こちらから見て背後と左の物陰から躍り出る影が二つ。
血走った眼をした大型犬を思わせる獣が、むき出しの牙に涎を滴らせている。間違いない、《スキゾイドッグ》だ。
ゼアの森で仕留めた《カーネイジウルフ》に比べれば遥かに小さな体躯ではあるが、ひと目見ただけでまともな生き物ではないと分かる。こんなものと林の中で遭遇してしまえば、無力な人間などは射竦められている間に噛み殺されることだろう。
そんな獣が、無防備な背中と喉笛に牙を食い込ませようと飛びかかってくる。
が、そんなことを許すわけがない。これこそが俺の狙いだ。わざと隙を見せてやった。
《能動探知》を使おうとすればそこを狙われることなど当然の話だ。だったら、それを逆手に取ればいいと考えるのもまた当然のことだろう。
生紋などほんの一部。世の中には物体の存在と位置を知る手段などいくらでもあるのだ。
音を始めとする空気の振動、赤外線などの電磁波。それらを探知すれば、わざわざこちらから波を起こす必要もなく標的の位置を察知することはできる。
もちろん、音も動きもなければ空気が震えることもないし、電磁波が別の物体に遮られてしまえば探知することもできないのだが、それでも今のように敵の潜んでいる場所の近くにまで接近し、向こうの攻勢を待ち構える、という状況であればこのような手段も十分に有効となる。
《能動探知》ならぬ《受動探知》だ。
優れた魔術師はこの二つの探知魔術を使い分けて敵の位置を特定する。その例に倣って俺も林に入る前に既にこの《受動探知》を発動させていた。
となれば、不意打ちを狙って飛び出してきた二匹の《スキゾイドッグ》の動きなど、手に取るように分かる。
俺はすぐさま身体を起こし、右手に持ってた《肋の柄》を素早く二度振るう。骨の塊でしかない短剣から輝く光の刃が伸び、中空にその軌跡の残滓を描く。
その後に残ったのは、片や上顎と下顎を境に、片や顔面の正中線を境に身体を両断され、地面に落ちる二つの肉塊。先の一瞬まで俺を殺そうとしていた獣の成れの果てだけだった。
《肋の柄》から伸びる光の刃は高い熱量をもって物質を溶断する。そのため切断された断面はそのまま焼き付けられ、血の一滴すら流れることはなかった。
すでに光の刃は消え失せ、俺の右手にあるものはただの骨の塊へと戻っている。
光の刃を常時展開していると根源を消費するというのならば、敵に攻撃するその瞬間にだけ展開するようにすればそれを抑えることができる。これが少女にも伝授したこいつの基本的な使用方法だ。
これならば一刻と言わず、その二倍でも三倍でも継続して戦えるだろう。
さて、これでまずは三十匹中の二匹。不意打ちも通用しないと分かった獣共は、このままこの林から逃げ出すだろうか。
……それは考えにくいだろう。そもそも奴らは何故こんな人の手が入った牧場の近くにある小さな雑木林なんぞに潜んでいるのか、それを考えれば標的の方にも、もう後はないということは分かる。
要するに、奴らは別の魔物かなにかに元々いた棲家を終われ、こんな辺鄙な場所に逃げ込むしかなかったのだ。そうして、小動物の類だけでは到底獲物が足りないので、牧場の家畜を襲うしかなくなった。それでも、奴らにとってはここが新しい安住の地であるのだ。ここから離れてもう一度放浪の身になったとして、再び新しい生息地が見つかる手立てもない。となれば、敵対する者を何が何でも排除しなければならない。たとえ三十匹の群れが、雄雌一匹ずつの“つがい”だけを残してほとんどが死に絶えようとも。
まるで田舎に出没する熊みたいな話だ。その境遇に同情しないわけでもないが、それが容赦をする理由にはならない。
奴らのせいで仕事が出来ずに困っている人がいる。俺はその人を助けて、ひとまずは当面の生活費を確保しなければならないのだ。獣風情の事情など知ったことか。奴らに温情をかけたとして、それで何か俺に、あるいは人類全体に利益があるのか?
生きるというのはそういうことだろ。今まで家畜の肉を食って生きてきたのに、今更かわいそうだなんてそれこそ無責任だ。
逃げないというのなら逆に好都合。三匹などと言わず、群れを残らず全滅させればそれで依頼達成なのだから、分かりやすくて助かるというものだ。
となると、後はそう……彼女だ。
少女がしっかり自衛してくれれば、問題なく事を済ませられるだろう。
俺は追い詰められた獣共の動きに対応できるように注意しつつ、少女の方へと振り向いて呼びかける。
「よし、後は一匹ずつ各個仕留めていくだけだ。覚悟は――――」
最後まで言い切ることはできなかった。振り向いた視界に映ったその姿に、俺は息を呑み言葉を失う。
両手で固く《肋の柄》を握りしめ、背中を丸めて縮こまったまま、震える骨の刃の先端を、まるでそうしなければならないと強要されているかのようにじっと凝視しながら、少女はうわ言のように何か言葉を繰り返していた。
「だ、大丈夫。だ……大丈夫だから」
「……おい、どうした」
こちらが呼びかけても、彼女は同じような言葉を延々と繰り返して震えるばかりだ。
今。
今分かった。
ついさっき感じていた“見落とし”、“思い違い”の正体が。
「――――」
この時の俺の愕然とした顔を、自分自身に戒めとして見せて永遠と記憶させてやりたい。
頭の中が一瞬真っ白になった。そんな中で、《受動探知》が検知した反応を見逃さずに済んだのは幸運というより他にないだろう。
再び、木の幹の陰から一匹の《スキゾイドッグ》が現れ、猛然とこちらに飛びかかってきた。しかしその狙いは俺ではない。木偶の坊みたいに立ち尽くす少女の方だ。
神様の与えた戦士としての肉体は、いかなる事態に対してもすぐさま対応できる動体視力と反応性、瞬発力を発揮する。
俺はすぐさま彼女を庇い、飛びかかってきた獣を光の刃によって切り伏せた。
それと同時に、林の中に吐き捨てるような叫びが響く。
それは他でもない。俺の引きつった口から発せられていた。
「ちくしょうがァ!!」
その罵倒は誰に対してのものでもなく俺自身に向けたものだった。
――――俺は馬鹿だ!
なんでこんな当たり前の考えに至らなかったんだ。
こうなるに決まってるじゃないか。
彼女はつい昨日、魔物に食い殺されかけたんだぞ。そこを俺の手で無理やり生命を繋ぎ止められた。その時の痛みと、自分という生命が少しずつ崩壊していく恐怖が脳裏に刻み込まれて残っていないと、誰が言える?
そんな状態で、その時と同じように獣と戦えと言われて、できると思うのか?
……確かに、彼女は『やる』とは言った。『馬鹿にするな』と再三言っていた。
だが、そんなものただの強がりだった。実際のところ、今の彼女に戦いなどできるわけがなかったのだ。
俺はいい。俺も一度死んだ。死にかけたどころか確かに死んだ。
だが、実際のところ土砂によって全身を瞬時に押しつぶされて即死したのだ。その時の感覚など記憶する間もなかった。
そうして、神様に魂を拾われて転生することになったのだ。なまじそんな特異な境遇であったものだから、自分が死んだということさえあまり実感がないぐらいだ。
それでも、だ。それでも時々、脳が『死んだ』という認識すらなく粉砕されるまでのほんの一瞬、冷たく、固いようでいて柔らかいようでもある何かが俺の手足を上へ下へ右へ左へ前へ後ろへと一度に折り曲げようとしながら、皮膚を突き破ってその中へと入り込もうとするその感覚がぼんやりと思い起こされ、言いようのない不安感に苛まれることがある。
俺がそうなのだ。では、彼女はどうだ?
今この瞬間の彼女が抱く恐怖はどれだけの……
武器をその手に握りしめ、林の中から漏れ出るように聞こえてきた獲物の唸り声を聞く中で、自分の身体に爪が食い込み、激痛と共に身体の中身を溢れ出ださせながら、少しずつ意識が、自分という確かなモノが薄れていくその感覚を思い出しているのではないか。
やはり、彼女をこの場につれてくるべきではなかった。そんなの当たり前のことだった。
俺はその当たり前のことをしなかった。
つくづく自分自身が腹立たしい、憎い、信じられないし許せない。
いっそもう“仕事”なんぞ放り出して、自分で自分を徹底的に痛めつけてぶち殺してしまいたい。
……だが、それはできない。少なくとも今は。
俺が全てを投げ捨ててしまえば、一人残った彼女はすぐに殺されてしまうだろう。
さらに三匹ほどの《スキゾイドッグ》が立て続けに別方向から襲い来る。動きの止まった少女ならば容易に噛み殺せるという判断だろう。
そうさせるわけにはいかない。この状況は自衛できない彼女をここに連れてきた俺のミスだ。そのミスは俺自身の手で贖わなければならない。
神から与えられた肉体、今使わずにいつ使う。俺は地面を蹴って全速力で二本の脚を動かし、少女の周囲をぐるりと一周しながら、三方から迫る獣をまとめて切り裂いた。この状況を客観的に見ているわけでもないので分からないが、人によっては俺の姿が一瞬消えたように見えたかもしれない。
土を蹴るその勢いと吹き起こった風により、地面に堆積していた落ち葉が舞い上がる。
その中で俺は、俯いたままの少女の肩を掴み上体を起こして、眼を見開いたまま震えるその瞳を見据えながら呼びかける。
「悪かった!俺はあんたに酷いことをした。後でいくらでも詰ってくれていい、なんなら殺してくれたっていいんだ。それでも、今は絶対にあんたを守る。だから、傍から離れるなよ!」
「あ……あ?」
少女はただ、微かに開いた口から声にならないような声を上げるだけだ。こちらの声が聞こえているのかも定かではない。
どの道今の彼女には何もできないか。彼女が俺からではなく、俺が彼女から離れずに守りきれなければならない。
《スキゾイドッグ》は、魔物により半ば淘汰され、生態系の隅へと追いやられた弱い獣だ。だからこそ、奴らは尚も生き残るために狡猾さを身に着けた。
少女がほとんど動けないこと、そして俺がそんな彼女を守ろうとしていることを、連中は即座に察知したようだ。となれば、次に取るべき行動は決まっているだろう。奴らにとってこれはこの上ない勝機であった。
叢や木の幹から躍り出るように、時には枝から飛び降りてくるかのように、立て続けに獣がその姿を現すと同時にこちらに襲いかかる。その狙いは、やはり無防備な少女だ。俺が彼女を庇っている隙をついて、諸共仕留めようというのだろう。
……馬鹿にするなよ畜生如きが。
元々俺にとっては、これしきの獣程度など相手にならないのだ。
奴らが戦闘を続行しようとした時点で、すでに全滅は確定事項と言える。その上で、少女を守りつつ勝利条件を満たさなければならなくなったというだけのことだ。
確かに、彼女を傷つけてはならないというのは大きなハンデではある。とはいえ、これしきの事態など容易に乗り越えてみせなければ、それこそ世界を守るなどと口に出す資格もないだろう。
この依頼自体、俺自身が戦うという行為、魔術を行使することそのものに慣れるという目的があった。となれば、シチュエーションは困難であればあるほどいい。
当人には悪いが、この状況は俺としてはむしろ好都合であるとさえ言えた。
確かに、例えば十匹の《スキゾイドッグ》が今一斉に少女に飛びかかったら、まったくの無傷で切り抜けられるかどうかは分からない。今のこの状態では。
この《肋の柄》一本だけではさすがに限界がある。振り抜いて標的を切り裂くという動作が必要である以上、多数の敵を同時に仕留めることはできない、というのは道理だ。
この先、二桁どころか三桁に達するであろう数の魔物を、今のように何かを守りつつ相手にすることもあり得るだろう。そのような場合に必要になるのは敵を迅速に一網打尽にするための手段だ。
だが、単純に威力の高い魔術は根源を大量に消費するため、生命力の枯渇や“事象の穴”の発生など、無数の問題点が発生する。それに、例えば今この場でそんな魔術を発動してしまえば、守るべきはずの少女まで一緒に吹き飛ばしてしまうことになる。強大な熱量で周囲を一瞬で焼き払うような魔術なら、これしきの獣共など瞬殺だ。が、その後の結末など容易に想像できる。
それを防ぐためには、必要最低限の威力で、対象だけを的確に攻撃するための魔術が必要となる。
それを今から編み出さなければならない。
――――ここからは応用編だ。
俺は次々と少女に襲いかかる《スキゾイドッグ》の群れを蹴散らしながら、それと並行して詠唱を唱えていた。
「『其は風を捉え、金の如く固きものであり、また火を宿し、金と固まるもの』」
それは、ただの魔術詠唱ではない。
俺がこれからやろうとしていることは、異なる複数の魔術を同時に発動し、それらを新たにひとつの魔術として組み替えるための儀式だ。
魔術師の業前としてはかなりの難易度を持つ高等技術である。が、俺にとってはそう難しいことではない。
例え戦いの最中であろうとやってみせる。
「『万物がこの世に在る限りその証もまた須らく在るものなり。不可視の波は常にこの身に打ち寄せては引いていく。世の始まりにして、暴力の始まりは炎であった。我らが祖は生まれ出るその時から、母なる熱により滅びを望まれ苛まれてきた』
『その歴史を繰り返す。証を捉えよ。この身に打ち寄せる全ての悪意ある波を識れ。さすれば原初の炎は翻り、悪意の源を焼き尽くせ。我が望むはただそれ一つ』」
なんの問題もない。すぐにでも術式は完成する。
いきり立って襲い来る獣共も、この魔術が発動すれば瞬時に皆殺しにしてやれるだろう。
後は、命題詠唱をもって全ての詠唱を終わらせれば……
その時だった。
どこからともなく聞こえてきた叫び声が、俺の鼓膜を震わせる。
それは、獣の咆哮などでは決して無く、人があげる絶叫であった。
「うああああああッ!!」
その叫びがどこから、誰から発するか考える間もなく、俺の視界を遮るように飛び出してくるひとつの影があった。
少女だ。
彼女は何の前触れもなく、突然草の影から飛び出してきた一匹の《スキゾイドッグ》に向かって体当たりせんばかりの勢いで駆け寄っていた。
その手が握る《肋の柄》からは光の刃が展開されている。しかし、少女の姿から冷静さというものを一切感じられなかった。自分が何をしているのかすら、理解しているようには到底思えない。半分狂乱したような状態に見えた。
そんな有様では、例えまともな武器を持っていたしても碌な戦いなどできるわけがない。これではまるで、自ら死にに行くようなものではないか。
戦いに参加する、というつもりでもないと分かる。ただ、何かに突き動かされ、無意識の内に飛び出しただけだ。
――――何故だ?
叫び声を上げながら突進する彼女の身体と、飛びかかる獣の身体が重なり合う。
突き立てられた光の刃は獣の腹を突き破って背中まで貫通した。
だがそれと同時に、開かれた顎が少女の首筋に食らいつき、剥き出しの牙が皮膚を破って肉に食い込むのが見えた。
……言わんこっちゃない。
――――何故だ?
そんな光景を、まるで対岸の火事でも見るかのように、やけにゆっくりと動くようになった視界の中で捉えるその瞬間、俺の脳裏に浮かび上がったのはただただ疑問だけだった。
――――何故だ?
何故、よりにもよって今そんなことをする?
別に戦えないのならそれでもいい。そのまま大人しくしてくれていれば、俺がなんとかしてやったのに。
何故よりにもよって今、そんな。
そんな……
「何やってんだ馬鹿ッ!!」
俺は再び叫んだ。
もはや何もかも訳が分からなくて、怒りにも似た焦燥を露わにすることで、それだけでこの状況を打破できるかもしれないと思って、とにかく吼えた。
だが、当然のことながら、そんなことで何かがどうにかなるわけがない。
獣の牙に噛み付かれた少女は、自らも獣の腹に刃を突き立てたまま、崩れるように勢いよく仰向けに地面に倒れ込んだ。




