16.異世界ファストフード
もう夜も更けてきた頃だし、今日はひとまずこれぐらいにして宿を取って休むだけなのだが、その前になんでもいいから飯を喰いたかった。胃袋が縮み上がってそのまま消滅してしまいそうな気分だ。
中継都市に入るための入り口となる十六の門、その内の半数である八つは再征者専用のものであるという。そして、それらの門を抜けた先には組合へと続く大通りがあり、そこには我々再征者が活動するための施設が立ち並んでいる。例えば、武器やら魔術のための触媒やら、それらをイチから加工するための素材やらを売っている商店だとかだ。
再征者が中継都市に滞在するためある種の寄宿舎のようなものもあり、今夜は俺もそこを借りるつもりだった。
今後とも、再征者としてやっていく上で世話になる場所もいくつかあることだろう。そしてそれは、『腹を満たす』という目下の目的を達成する上でも例外ではなかった。
なにせ、依頼を終えた再征者というのは皆一様にくたびれて、腹を空かせてこの街に戻ってくる。そんな連中を歓迎するための場所というのも、いくらでもあるわけだ。
取引所を後にし大通りを進んでいると、すぐに目に入った。大衆食堂の看板だ。
すりガラスが貼られた木組みの扉の向こうから、淡い光と共に何十という人間が好き勝手に語り合う喧騒が漏れ出ている。そうして時々、そんな扉を開けて食堂の中へと入っていく再征者の姿も見える。
扉が開く度に光と談笑の声は一瞬だけ大きくなり、それと同時にほのかに香ばしい匂いが漂ってくるような気がした。
……いやぁ、空きっ腹にこれは効く。
「よし、あそこで飯にしよう」
さっそく店の中へとお邪魔しようと足を踏み出す。
が、背後から腕を引かれてその動きが制止された。
「……?」
振り返ると、他でもない。俺の後ろ手を引っ張ったのは《下級》の少女だった。
その姿を見た時、俺は思わず息を呑んだ。
生気の感じられない表情でうつむき、身体をこわばらせ微かに震わせている。意識を傾けてみると、その震えは彼女が引っ張る俺の腕にも伝わっているのを感じられた。
そうこの顔は、あのゼアの森でルチアーノ達と対面した時に見せたそれと似ていた。怯懦にまみれた弱々しい姿。
そんな彼女が、よく耳を澄まさなければ聞こえないような微かな声で言う。
「ここは……ここは、やめよう」
「どうして」
聞かなくても理由はなんとなく分かる。だというのに俺は、反射的にこう問うてしまった。
そんな俺の言葉に、彼女はこう応えるばかりだ。
「いいから嫌なんだよ。こんなとこに入るの……」
これもまた、あの時と同じだ。うつむく彼女の身体は、そのままどんどん内側へと丸まって小さくなっていき、やがて消え入りそうにさえ見えた。
ふと、周囲に眼を配る。
通りを行き交う人々の中に時折、こちらに向かって白い視線を送る者の姿が見えた。取引所の入り口で見掛けたのと同じ視線だ。
その視線の対象は、俺ではないだろう。俺の傍らにいるこの少女だ。
《下級》というのは、いうなれば商品化された労働力であり、消費されればそれまでの存在だ。交わした契約は解除され、さながら使い捨ての道具のように組合へと返される。
その過程において、単なる借り物の商品でしかない彼らに手を尽くす必要など無いのだ。上等な装備を身に着けさせる必要はないし、依頼の帰りに飯を喰わせる必要だってない。――というのがこの世界における通念だった。
例えば、だ。そんな《下級》を大衆食堂に連れて行って飯を食わせればどうなるか。
――これはあくまで俺個人の考えなどではなく、社会性を鑑みた上での客観的な結論である、ということをまず前提におく。この事実に対しては、俺だって胸糞が悪いのだ。それだけはまず踏まえてもらいたい。
こうやって、今しがた道端に突っ立っているだけでも、こうも刺々しい眼で見られるのだ。食堂に入った瞬間、彼女には一斉に好奇と侮蔑と嫌悪のこもった視線が針千本のごとく突き刺さるだろう。ともすれば罵声のひとつも飛んでくるかもしれない。
彼女が怯える理由はそれだ。拒絶する理由はそれだ。
もしかしたら一部にはあのゲオルグのように、少女のことを快く受け入れる者もいるかもしれない。しかし、そんな少数の存在などは、大衆の力の前にあっさりとかき消され、こちらの眼には見えなくなるだろう。悪しき常識というのは、正しき異端を容易く排除する。
何人もの人に睨まれ、言葉の(あるいは直接的な場合もあるかもしれない)暴力を浴びせられる彼女の姿が、ぼんやりと頭の中に浮かび上がる。
……最近の俺はどうも、妙なところで想像力が働いていかん。以前はこんなことなかったと思うのだが。
とにかく、その姿を想像してしまうと、こちらとしても彼女に対して掛ける言葉が見つからなくなる。
この世界におけるそんな悪しき因習など糞食らえだ。前向きな言葉で彼女を励ましてやりたい。
『気にするな。いいから入って飯にしよう』と口で言うのは容易いはずだ。だが、今の俺にはそれができなかった。
まるで地獄の釜を前にしたように震える彼女に対して、そんな楽観的な発言ができるものか。ここで彼女を無理やり連れ回してしまえば、それこそ、その尊厳を踏みにじることになってしまう。
俺が何を言ったところで、彼女が《下級》として人々に蔑まれるのは紛れもない事実なのだから。
「……分かった。ここはやめにしよう。ひとまず食い物だけ買って、どこかひと目のつかない場所で食えばいい。どこかに屋台の類でもあればいいんだが――」
そう言う俺に、少女は声もあげずに小さな頷きを返した。
ただでさえ小さいくせに、なおさら小さく見えるその背中を、気がついたら俺は手で軽く叩いていた。
気休めの言葉をかけても逆に彼女を傷つけるだけだろう。だが、それでもこれだけは言っておきたいと思った。
「気にするな、俺は気にしてないから。ほら、行こう」
そうして、黙り込んだままの少女の背中を押すようにし、俺はもうしばらく大通りを先へと進むことにした。
※
程なくして、運良くおあつらえ向きに薫香を漂わせる屋台が目に入った。もうすでに陽は地平線の向こうに沈み、大通りを行き交う人影も少なくなりはじめている。すでにほとんどの人はそれぞれ馴染みの店に入り浸っているか、家や宿屋で休んでいる頃合いだろう。この手の屋台ももうそろそろ店じまいになってもおかしくはなかったので、見つけられてよかった。
何を売ってるのかはまだ分からないが、とりあえずあそこで適当に何か買ってそれを食おう。さすがにもう空腹で辛くなってきた。それは少女にしても同じことだろうし、早く何か食わせてやりたいという気持ちもある。
とはいえ、彼女と一緒に屋台に近づいて彼女の分の食事も頼むのでは、結局のところさっきの食堂で考えた『もしも』と同じことになる。
俺が向こうに行っている間、少女にはどこかで待ってもらうとしよう。
そうだな……
「あんたはとりあえず、あそこで待っていてくれ。申し訳ないがな」
そう言って俺が指さしたのは、大通りに立ち並ぶ店舗と店舗の間にある狭い路地だった。
滅多なことでは人が立ち入らないであろう薄暗く辛気臭い隙間だ。あそこならひと目につくこともないだろうし、彼女を待たせてそのまま一緒に飯を食っても大丈夫だろう。
わざわざあんなところに隠れなければならないというのは、はっきり言って無性に腹が立つのだが、これが一番波風立てない案なのも確かだ。
現に少女は、俺のこの我ながら屈辱的だとさえ思えるような提案に、文句の一つもいわずに応じた。
「そうだね。あれぐらいの場所の方が、私の性に合ってる」
何を馬鹿な――と言い返してやりたかったが、それもやめておいた。見るからに狭苦しい路地裏へと逃げるように入っていく少女の背中を眼で置いながら、心の中で一言謝罪しつつ、俺は屋台へと向かった。
「何を売ってるんだ?」
客足も引いてきて、もうそろそろ今日の商いを終わりにしようかと顔で物語っていた店主に、屋台の前に立つなりそう聞く。
慌てて気を取り直した店主は、
「あぁ、“ダネル”だよ。小麦から作った生地で具を挟んでものでね。豚の肉やらレタスやらトマトやら……まぁ、聞くよりも見て食ってみた方が分かりやすいと思いますよ」
「だろうな。二つくれ」
「あいよ。二つで136キリね」
「銀貨しかないが構わないか?」
そう言って銀貨を二枚手渡す。早速ゲオルグへの依頼で手に入った金を使わせてもらおう。
「もちろん。これお釣りね」
こちらの注文を受けて、店主は品物を用意し始めた。
この手の屋台というのは早くモノを出してくれればそれだけ魅力的だ。すでに下準備はしてあるのだろう。鉄板の上で焼き上がっていた生地を取り、そこに手際よく具材を並べて別の生地で包み込むように挟む。
それを二つ分つくり、数分としない内に出来上がったものを紙に包んでこちらに手渡してくれた。
ナンのような見た目の生地で豚肉やら野菜やらを挟み込んだ、まぁ先に説明された通りの品物だ。タコスのようでもありハンバーガーだとかサンドイッチのようでもあり、メキシコのトルティーヤのようでもありそのどれでもない、といった印象だ。これが“ダネル”というものか。こちらが想像していたよりも大きく、片手で持つとこぼれ落ちてしまいそうである。
状況が状況ならもっと細かく観察しているところなのだが、どうやらこの世界においては俺が元いた世界とよく似た動植物が棲息しているらしい。豚もいればレタスもあるしトマトもある。頭の中で機能する翻訳がそうしているのかもしれないが、どうやら名称も俺が知るものと同じであるらしい。これなら飯を食うことに関しても余計な混乱をする必要はなさそうだ。見たこともないような得体の知れない食材を食う羽目にならずに済みそうだ。
……と、辛味と塩気を感じさせる香りが目の前に漂ってきて、今はそんなことを考える暇もない。
これはたまらん。今すぐにでもかじりつきたい気分になる。よだれまで出てきそうだ。
「ありがとう」
とだけ口早に言い残して、俺はさっさと屋台から離れ、少女の待つ路地裏へと小走りで駆け込んでいった。
路地の奥、壁に背中を預けて待っていた少女に、近づくなり、
「ほら、買ってきたぞ。早く食べよう。腹が減って叶わん」
と言いながら買ってきた品物を押し付けるように手渡す。
「いただきまーす」
そうして、相手の反応を見もせず俺はもう片手に残ったものに早速かじりついた。
こんな陰気なところで飯を食うなんて気が乗らないが、今は四の五の言っている場合じゃない。とにかく腹の中に何か入れなければ。
――これは……!
小麦粉で出来た生地の、柔らかくも歯ごたえのある感触が顎に咀嚼の喜びを与え、絡みついてくる豚肉の脂身と野菜のみずみずしさが混ざり合って口内に広がる。
飲み込まれ、胃の中に落とし込まれると同時に、できたての熱さが肺にまで広がってくるような気分だ。
いやはや、こんなに腹が減ったのも久しぶりだし、そんな状況で何かを口にしたことも久しぶりだったが、こりゃたまらん感覚だ。久しぶりに感動しながら飯を食った気がする。
それに、舌の上と喉の奥にひりつくように残るこの塩気と辛さの合いの子のようなものは、香辛料の類だろうか。鼻につき、脳みそから直接唾液が出てきそうになったあの薫香の正体はこれか。刺激的でありながら痛くはないスパイスが食欲を喚起させ、内容物を得た胃袋にもっと寄越せと要求させる。
「うっまっ!こりゃ病みつきになりそうだ」
そんな言葉を口にしながら、久しぶりの食事を貪るように口に運んでいく。
それにしても、香辛料か。
中世の時代においては香辛料とはかなり貴重なものとして扱われていた、というイメージがある。勿論俺のいた世界での話だが。
そのためどうも、いくら世界有数の大都市である中継都市の中とはいえ、単なる屋台でこんな美味いものが売っているというのも不思議に思えた。
……いや、よくよく考えればそう珍しいことでもないのかもしれない。なにせこの世界には魔法がある。物質を思うままに分解、合成し、あるいはゼロから生み出すこともできるこの技術があれば、化学調味料の類を生産することだってそう難しいことではないのかもしれない。
組合の案内所でも思ったことだが、どうもこの世界は魔術のおかげで、俺にとって馴染みのある現代社会のそれとそう大差のない文明を築いているようだ。見た目は古臭いが、実態的には非常に高度な文明が。
食い物が美味いことにしても、情報の管理伝達技術が進んでいることも、それに、《風の馬車馬》のように魔術によって移動手段が発達していることにしても、その利便性は全て俺のよく知る文明の産物に互換するものだろう。
この世界への認識を、一度改める必要があるかもしれない。神様は『剣と魔法のファンタジー』と言っていたが、そこでの生き方は決して幻想などでではない。俺の知る現代社会での常識を、地続きで適用することができるだろう。
それについてはまぁ、むしろありがたい。この世界が本当に中世相応の文化しかなければ、逆に困るだろう。俺には畑を耕し家畜を育てる術なんてないし、どこかに移動するにしても馬車か徒歩で何日もかけなければならないなんてことになれば、正直上手くやっていける自信がない。
魔術の存在と、俺自身がそれを体得しているという事実は、予想以上にこちらにとって助けになってくれるようだ。
腹が満たされてきたので、ようやくそんなことを考える余裕も出てきた。
そうして、ダネルの生地がいつの間にやら半分近くまでなくなってきた辺りで、ふと隣にいる少女の方へと眼を向けた。
――あれ、もう?
もう食い終わったのか?
少女の持つ紙の容器はすでに空であり、彼女はダネルが影も形もなくなってしまった中空を、肩を上下させるほどの荒い呼吸をしながら眺めていた。
もしかして、息をする間も惜しんで一気に平らげてしまったのか?
確かにとてつもなく美味いのは認めるが、何もそんなハァハァいいながらがっつかなくてもいいじゃないか。急がなくても逃げたりするわけでもなし。
……いや、違う。これもまた想像力の不足というやつだ。
少女にとっては、逃げるかもしれないものなのだ。こういうものは。
なにせ彼女は《下級》だ。過酷な環境下で、はした金程度の契約金でなんとか生きていかなければならない。
食べるものなど手に入れるのがやっとで、契約が得られなければそもそもそれすらできなくなる。内容を選り好みすることもできず、碌なものを口にできないだろう。場合によっては、何も食えないということだってあるかもしれない。
俺はほんの半日飲まず食わずだっただけだ。だが彼女はそれを何日も、あるいは何ヶ月、下手すれば年単位で続けてきた。
そんな彼女にとっては、こういうまともに美味い食事というのは欲しくても手に入らない。それこそいつも自分達から逃げていく“幸運”なのだ。
《下級》にとって食事というのは、味わうものでも感慨深いものでもなく、ただとにかく少しでも早く消費し、自分の身体の中に確保しておくべきものでしかない。
そんな彼女のことを見ていると、なんだか気の毒になってきて、さっきまであれほどまでにとめどなく溢れ出てきていた食欲が減退してくるのを感じた。
彼女のことを余所にのんびり舌鼓を打っている自分が恥ずかしくなってきたのだ。
気がついたら、俺は手元に半分残っていたダネルを彼女の方へと差し出していた。
「その、なんだ……そんなに美味いなら、これも食うか」
……またやってしまった。俺がそう後悔するのと同時に、彼女は例のあの嫌悪のこもった視線を俺に送りながら応えた。
「馬鹿にするな。そんなものいらない。あなたの分なんだからあなたが食べればいい。私はもともと、こんなもの食べなくたってよかったのに」
「……」
丸々ひとつは食ったくせによく言うよ――などとは口が裂けても言えるわけがなかったし、思うことさえ自分が憎らしくなるほどに恥ずかしいことだった。
「……悪かったよ」
そうとだけ返事して、俺は彼女に差し出したダネルをもう一度自分の口元に運んだ。
これを食い終わったら宿を探しに行こう。




