1.神
全てを過去のものだと思い返せるようになった今、時々考えることがある。
それは、俺にとって意義のあるものだったのかと。
彼女との出会いは、生まれ変わった俺がもう一度歩む新しい人生だったのか、
あるいは、あらゆるものに眼を向けることに無気力だった自分に対する、罰に過ぎなかったのか。
※
最初にはっきりさせておくことがあるとすれば、俺は別段特別な人間というわけでもなくて、ごくごくありふれた――むしろ一般的な人間と比べれば弱いとすら言ってもいい男だったということだ。
具体的に何が弱いということではない。あえていうなら、価値が弱い。
珍しくもない仕事をして、誰かを好きになることもなく明確な夢だとか目標があるわけでもなく、そうして人生をただ浪費し、そろそろ若者と呼ばれるような歳でもなくなってきた。そんな男だった。
そんな俺は、ちょっとした事故で呆気なく死んだ。
久しぶりに親の顔でも見ようと安い原付きに乗って故郷へと戻ろうとした道すがら、山道を通っている最中土砂崩れに遭った。
出発する前日に大雨が降ってそこら一帯の地盤が緩んでいたということもあるし、俺自身そのことを承知の上で危険な道を通ったんだ。要するに自業自得、悪いのは俺だ。
そういうこともあったし、今更後悔はなかった。
両親は悲しむだろうと思ったが、まぁ、俺がこの先生きていたところで二人にとって何か得することがあるわけでもないだろう。結婚して、孫の顔を見せるような未来も見えていなかったわけだし。
職場にだって、例えば俺が理由も告げずに金を貸してくれだとか頼んだら二つ返事で貸してくれるような、そういう関係の同僚なんていないわけだから、俺が死んだと聞かされたところで残念がるのはその時だけ。後はまた日々の仕事に追われ、俺という人間がいたという事実でさえその内初めから無かったことのように忘れてしまうだろう。
つまるところ、別にこういう形で死ぬならそれはそれで結構ってことだ。
後は、地獄で煮るなり切り刻まれるなりするだけだろうか。俺だって相応に悪いことはしてきたと思うし、この先どんな眼に会ったって納得はできるだろう……と思う。地獄行きどころか、魂の痕跡すら跡形もなく消え去ってしまうだとか、そういうことになったっていい。
この先何が起きたって、別に驚きはしない。
死ぬより突飛なことなんてこの世にあるものか。
――そう思っていた。
だが、これはさすがに予想外だろ……
※
比喩表現でなしに、何もなかった。
あえて色彩を表現するなら、白。白一色の――地面と天井、あるいは空?の境界も分からないような、見渡す限り白色に埋め尽くされた空間に俺はいた。
正しくは、何もないわけではない。土砂崩れに巻き込まれながら気を(というか生命か)失った俺は、いつの間にやら椅子か何かにその腰を落ち着けていた。周囲を埋め尽くすのと同じ白色に染められた、実際に座っていなければそこにあるとも気づかないような椅子だ。
そして向かって正面5mほど先に、同じく白い椅子に腰掛けている一人の男の姿が見えた。
男としてはやや長めの乱れた髪と彫りの深い顔つきに顎髭まで蓄えた、一言で表現するならダンディな男だった。
黒いワイシャツのような服を上から三番目のボタンまで外して着崩し、両膝に肘を乗せ身をかがめるような姿勢で座り込む様は、なんというか正直割りとかっこいい。男ならちょっと憧れるような見た目だ。
そんな風体の男が、俺が眼を覚ましたことを確認するなり徐に口を開いた。低い、地の底から震えるようなバリトンの声だった。
「やあ、お目覚めかい。気の毒だったね、しかしおめでとう。君は選ばれた」
「……」
眉間に皺が寄っていくのが自分でも分かった。
少しの沈黙を挟んで、俺はとりあえず率直に思ったことを口にした。
「閻魔様にしては、なんかイメージと違うというか……」
それを聞いた男は、笑い声を返事にした。
「ははははっ。いや、閻魔様じゃないよ。ここは地獄じゃないし、天国でもない。仏教で言う涅槃でも、ヴァルハラでもない」
「でもあの世なんだろ?で、あんたはその住人ってわけだ」
「それも正解じゃないな……まぁ、確かにここは生者のいるべき空間ではない。しかし、君がこれから向かう場所はどうだろうな」
「……」
正直、この男が何を言っているのか分からない。そもそもこいつは何なんだ。
そんな俺の疑念を知ってか知らずか、目の前の男は言葉を続ける。
「そういう顔するなって、今から諸々(もろもろ)説明してやるよ。
――そうだな、まず最初に言っておこう。私は神だ」
「……」
「だからそういう頭のイカれた奴を相手にしているような顔をするなって言ってるだろうが。少なくとも、君よりかは遥かに高尚な存在なのは間違いないんだぞ……。まぁそんなことはいいとして。いいかね、よく聞くんだ」
そうして男は膝に乗せていた肘を離して幾分姿勢を正し、そのまま悠々と語り始めた。
「“世界”というのは、ひとつではない。君がこれまで生きてきた世界は、遍く存在する“並行世界”のほんのひとつ――無数に並ぶレールの一本に過ぎないんだよ。ニイハラ タカヤ君」
俺の名前だ。この男、少なくとも俺のことを知っているというのは確からしい。
早速アブナイ思想を持っているとしか思えないような発言が聞こえてきたが、どうやら今のところは、その全てを事実として受け止めるしかないようだった。
ひとまず、ただ黙って男の言うことを聞く。
「そしてそれぞれの並行世界には、そこに生きるありとあらゆる生命、その活動により生じるある種の“力”が循環している。ひとつひとつの世界に巡る力は微々たるものだが、それが幾万、幾億と連なることで、それは膨大な一つの塊となる。私はその力を抽出し、管理しているのだよ。……そんなもの何に使ってるかって?それは秘密だよ君」
いや、別に聞いてないんだが。
「しかしこの生命の力というのは、過剰に多くてはいけないし少なくてもいけない。一定の力を安定した状態で維持するために、私は並行世界に遍く生命のバランスを保たなければならないのさ。時には新たな世界を生み出し、また時には……力の循環が停滞した世界を滅ぼしたりね」
最後の方は、怪しくささやくように言う。
これにはさすがに、ひとまず最後まで黙って聞こうとしていた俺も、口を挟まずにはいられなかった。
男の言っていることはなんとなくだが理解はできたし、納得も――できないところを無理やりする。
しかしそうなると、今自分の目の前にいることの男、とんでもない奴じゃないか。そんな感想を抱かざるをえない。もっとも、これまでの発言の全てを真実だと仮定するなら、だが。
こんな状況でなければ、意識を傾けることすらせずに聞き流しているところなんだが……
「なるほど、そりゃ確かに“神様”だ。ってことはあんたがその気になれば、俺の生きてた世界だって滅ぼすことができるわけだ」
俄に信じられないという皮肉を込めて言うが、“神様”はそれを気にも留めていない様子だ。
「ん、できるとも。でもしないよ、君のいた世界は力の効率がいいからね。それに、ひとえに世界を滅ぼすと言っても、その条件や実際に滅ぼす時の方法はいろいろある。まぁ、それを君に言ったところでしょうがないだろうが……」
そんなことを淀み無く言われると、無いはずの説得力というものを否が応にも感じてしまう。
「……あんたが“神様”とやらで、“並行世界”がどうとかいうことも分かった。じゃあなんでそんなご立派な存在が、俺なんかの前に現れたんだ。並行世界で死んだ人間に、あんたはいちいち顔見せしてるのか?」
「まさかあ!今この瞬間にすらどれだけの生物が死んでると思ってるんだ?」
男は冗談っぽく大声をあげた。見た目の男前に反してなんというか、上司とかお得意様とかにたまにいるような巫山戯た性格をしてるなこいつ。
「言っただろ?『おめでとう、君は選ばれた』ってね?
さて、ここからが本題だ。これはね、ビジネスライクな話なんだよ。仕事の話。折角死んで現実のしがらみから解放されると思ったのに、他人から仕事を頼まれることになるなんて拍子抜けするかもしれないけど、神からの依頼なんだから名誉なことだと思おう」
「……」
それを聞いて俺は、めんどくさそうに頭を掻きながらも応えた。
「あ~仕事ね。はいはい仕事仕事」
なんだか、急に話が世知辛い方向に進んできた。自分が死んだという事実さえ、薄れてきそうだ。
威厳のない神様が、言葉を続ける。
「世の中というのはそう上手くいかないものでねぇ、並行世界を管理していると、時々想定外のことが起こるのさ。力を理想的な効率で生産してくれる世界や、これから成長していくであろう発展途上の世界が、私とは別の何らかの異常――“バグ”によって滅ぼされることがね。いやね?私は基本放任主義だし、それぞれの世界はそこに生きる者達のものだと思ってるから、大抵のことには手を出さないよ?というかそもそも神である私には、現存する世界の内側へと働きかける力自体が存在しないんだ。できるのは世界を生み出し、消失させるだけ。単純な“ON”と“OFF”だけさ」
「不便な神様だなぁ」
「まぁそう言うなよ、そのおかげで君たちは自由にのびのびと生きていけるんだから」
「……別にそれがありがたいとは思わないがな」
再び皮肉を込めて言った俺の言葉には、やはりというか神様は特に反応は寄越さなかった。
「まあとにかく、世界がその住人の選択により衰退し、滅んでいくのならそれはそれでいい。私は認めよう。だが奴らに対しては話が違う。異常は世界の中ではなく外から前触れもなく発生し、私にも、そして世界に生きる者達にも誰ひとりとして断ることもなく全てを食い尽くし破壊していく。奴らは私にも、世界にも一切関係がないのだ。だからこそ“異常”と表現している。
そして、その存在は私としても困る。折角手間暇かけて管理していた世界が勝手に消えていくのを甘んじて見ているだけというわけにはいかない。しかも、連中が滅ぼす世界はそこだけではないかもしれない。ひとつの世界を滅ぼしたら、また別の世界を標的にすることはないとは、言い切れないんだからね。仮にそんなことを許してしまっては私の立場が……いや、なんでもない。とにかく私としてはなんとかこの不本意な滅亡を防ぎたいのだ。だが、こちらから手を下そうにも、それこそ世界を“OFF”して消滅させてしまうしか手段がないのだから本末転倒だ。なんとかして世界に内側から働きかけ、滅びを阻止したい。そこで私は考えた!それが、これから君に頼みたい仕事なのだよ」
神様の言わんとしていることがなんとなく察せられた。
しかし、それこそ『まさか』だ。こいつは俺に、そんなことを頼もうとしているのか?
俺は恐る恐る口を開き、この懸念への答を問うた。
「……まさか俺に、世界が滅びるのを止めろとか言うんじゃないだろうな」
「そうだよ」
神様は事も無げに返事した。
思わず俺は声を荒げた。
「ば、馬鹿じゃないのか!俺が!?できるわけがないだろうが、そんな仕事引き受けられるか!」
当然、こう言い返すに決まってる。
俺の今までの人生をこいつは知らないのか?
いや、おそらく知っているはずだ。名前を知ってて、これまでどう生きてきたのか知らないということはないだろう。なにせこいつは(狂った妄想をしているのでないのなら)神様なのだから。
その上でこんな冗談じみたことを宣うのか?
こいつが頼んでいるのは要するに、『世界をひとつ救え』ということだ。ゲームの話じゃないか。そんなことに浪漫を感じるようなお年頃などもう十年以上も前に過ぎた。
俺は吐き捨てるようにまくし立て、神に食って掛かった。
「悪いけど、断らせてもらうぞ。そんなことどうでもいいから、早く新しい生命に生まれ変わるなりなんなりさせてくれ。輪廻転生って奴だよ、神様ならそれぐらいできるだろ。あるいは悪さをしたっていうなら、これから地獄に送ってくれてもいいぞ、そっちの方がむしろ気が楽だ。それとも、魂そのものを消滅させるとか、そういうことをしてくれるのか?だったらどうぞそうしてくれ」
しかし、神はそれにも相変わらず動じることなく、むしろ俺のこの反応自体を予想していたかのようだった。
奴は徐に椅子から立ち上がり、大げさに手を振ってこちらの言葉を遮った。
「まぁ待て待て、落ち着きなよニイハラ君!まだ話は途中だ、最後まで聞いてほしいな」
そうして、そのままゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「そうだなぁ、なんと言えばいいか……君がこの仕事に選ばれたのは実際のところはただの偶然だ。他にも候補は沢山いた。しかし、かといって誰でも良かったというわけでもない。
――いいかいニイハラ君。君は実際選ばれた人間なんだよ。君は自分をごくありふれたつまらない人間だと思っているし、確かにそれは事実かもしれない。だが言い換えればそれは『普遍的』な人間ということだ。充分な良識を持ち、知恵が働き、優しさ、そして責任感がある。君はそんな、当たり前に素晴らしい人間なんだよ」
「……なんとでも言え」
「なんとでも言おう。だからこそこれから私が語る言葉は、君の心の奥にある琴線に触れることができるだろう」
やがて神は俺のすぐ目の前に立ち、座ったままのこちらを見下しながら、静かに語った。
「並行世界と聞けば、君も想像できるだろう?その世界には沢山の人がいる。今日という日を健やかに生きる無辜の人々がいる。誰かの子供がいれば、また誰かの親もいるだろう。愛し合い、これから家族になる男女がいる。男同士や、あるいは女同士で親しい関係を築いている者達もいるだろう。豊かな環境で育ち同じく豊かな心を育む者もいるだろうし、貧しい中でも懸命に生きる者もいる。一様に言えることは、今彼らは皆確かに生きているということだ。君が今この瞬間に頭の中で想像したであろうものと同じ営みが、そこには紛れもなく存在している」
「……」
「そんな人々がこれから、不条理な暴力によって苦しみ、悲鳴を上げながら死んでいくことになる……君ならそれを救える」
「……」
「――さて、どうする?」
そうかい。それは哀しいことだ。
だが、それを聞いたところで俺に何ができる。尚更無茶な話じゃないか。俺はあんたが今しがた語った無辜の人々と同じ存在なんだぞ。
それならせめて、
せめて……
「――せめて、世界を救えるだけの力があればいい……かね?」
神の手が俺の肩に触れた。思わず身震いが起こる。
黙り込んだままの俺に対し、奴は身をかがめ、こちらの横顔を覗き込みながら言った。
「あのねぇ、私を誰だと思っているんだ?私は神だ。世界のデザイナーだぞ?確かに、自らの創造物に“内側”から関与する力はない。しかし“外側”となると話は違う。ここはすでに世界の“外側”だ。ここでなら、私は大抵のことはできるし、大抵のことを君にしてやれる」
「それは、どういう……」
「異常とは言うなれば、世界の外に現れた強大な力が世界の内へと侵入した存在だ。だからこそ今の私では手出しができない。だというのならば、だ。君も奴らと同じことをすればいい」
「だから、それはどういう意味――」
「神である私の力を、ほんの少しだけ分けてあげよう」
「な……えっ?」
思わず聞き返し、こちらを覗き見る神の方へと視線を合わせる。
奴は満足げに顔を離し、言葉を続けた。
「繰り返すが、君は当たり前に優しい人間だ。そんな君なら、どうするべきかが分かるはずだよ。いや、応えなくていい。ただ、自分自身の言葉によく耳を傾けて欲しい。その上で改めて返事してくれたまえ」
話がまた変わってきた。
何もかも信じがたいことだ。正直、斬新な手口の新手の詐欺にでも会っているのではないかとさえ思う。
だが、俺という人間は死んだ。それは確かだ。自らの身体が土砂に呑み込まれ、身体が潰れたり捻れたりしていく感覚すらまだ微かに残っているような気がする。
それを改めて実感して沸き起こってくるのは、ほんの僅かな申し訳のなさだった。両親には禄に孝行もしてやれなかったし、なんだかんだ言って俺がいなくなってからの職場はほんの少しだけだろうが苦労することだろう。そんなことを考えると、もう少し上手い具合に何か残せるものがあったんじゃないかと考えてしまう。
特別な価値もなかったこの人生、最後に何か大きなことができるんじゃないかと……
――いや、嘘だ。本当はそんなことどうでもいい。実際にあるのはただの後ろ向きな衝動だ、それだけでしかない。
どうせ死んじまったんなら何もかも“ゼロ”だ。ゼロであるのなら今の俺は、誰かの子供でもなければ他者に貢献する社会の一員ですらない。
これから何が起こったって別に構いはしない。初めからそういう考えだったじゃないか。
ただそれだけのことだ。
ゼロから生命をやり直すというのならそれはそれで構わないし、その始点がどこに存在してもいい。
今更、自分の行く末を選り好みできるような人間じゃなかったんだ、俺は。
「……話だけは聞いてみる」
それほど長くもない沈黙を破って、俺はそうとだけ応えた。