彼の日常彼女の非日常
愛媛県松山市。
愛媛県の県庁所在地であるこの町は古くは城下町という事もあって町の中央に松山城があり、そこから東西南北にそれぞれ特徴がある。
北は大学を始めとした教育エリアで二人が通っている瀬戸内学園もここにある。
南は県庁を始めとした政治・経済エリアで、市役所だけでなく大街道や銀天街という商店街もここにあったりする。
東には日本最古の温泉の一つと言われる道後温泉や、四国八十八ヶ所の一つである石手寺などがある観光エリア。
西は松山観光港や松山空港、JR松山駅等がある松山市の玄関口となっている。
それらのエリアを環状線の伊予鉄道市内電車が繋いでおり、各エリアの行き来は50万人ほど居るこの手の都市の中ではかなり楽な部類に入る。
「お疲れ様でーす」
「おつかれー。
今日卒業式だっけ?
卒業おめでとう」
「ありがとうこざいます」
大街道のネットカフェ『遊スペース』は、大街道の雑居ビルの七階のフロアを丸々使っている。
事務所兼ロッカースペースに二宮忍が入ると、店長の渡辺慎一郎が声をかける。
ネットカフェは一人がカメラを監視しつつ、もうひとりがカウンターで接客をするのが一般的だった。
「これで二宮くんもはれて大学生かぁ。
このまま働くって事で良かったっけ?」
「ええ。
大学もここですからね。
そのままお世話になります」
「深夜の人手不足が解消するんだからこっちは大歓迎だよ」
24時間営業のネットカフェだとコンビニと同じでどうしても深夜要員の確保がネックになっており、18になってこっちの大学に進学する忍は多く稼げる深夜シフトへの移動を希望していた。
人手不足で昨日も深夜入っていただろう慎一郎の顔には無精髭がうっすらと生えている。
「とりあえず仕事はこっちでしておきますから、店長はシャワーでも浴びて少し休んでください。
どうせ今日も深夜なんでしょう?」
「ああ。
そうさせてもらうよ。
シャワーを浴びた後でソファーで一休みするから、夕方組が来たら起こしてくれ」
そう言って慎一郎は店舗備品のバスタオルとひげ剃りを持って、備え付けのシャワーに向かう。
それを見送って、忍はカウンターに備え付けのジュースサーバーを点検し、ジュースを補充してゆく。
「アイスコーヒーとオレンジジュースと……アイスコーヒーは残りがないけど作り置き店長作っているかな?
あ。やっぱり忘れてる」
業者からコーヒーも仕入れたらと思ったが、慎一郎はそれをせずに豆を買ってコーヒーを入れて、それを冷やしてお客に出すという事を続けている。
深夜勤務で眠気覚ましに店長権限を使った例なのだが、ユーザーアンケートにも『ここのアイスコービーは美味しい』なんて書かれているので、止めるに止められなくなっている。
用意されているブレンドコーヒーの袋を開けて豆をコーヒーミルで潰す。
そして粉にしたものを業務用コーヒーメーカーに入れてセット。
業務用のは上に保温があってそこにホットコーヒーが置けるようになっている。
新しいのを入れる際に交換するので、残っているコーヒーは流してしまうのだが、もったいないのでカップを一つ取って余ったホットコーヒーを入れて飲み干す。
時間が経っているので、あまり美味しくはない。
出来上がったホットコーヒーを上の保温機にのせてもう一回ホットコーヒーを作る。
その間にカウンター裏の流しにボウルを用意してその中に氷と水を入れておく。
できあがったコーヒーをそのボウルに入れて熱を取ったら、そのコーヒーをジュースディスペンサーに入れて出来上がり。
「ああ。
いい湯だった。
忍くん。
一杯もらってもいいかい?」
「いいですよ。店長。
いつも言っているじゃないですか。
作り置きは忘れないようにって」
髪をタオルで拭きながら慎一郎がカップを手に取る。
無精髭も剃ったらしく、眼鏡をかけた彼の姿は三十路後半の色男にしか見えない。
実際にこの店を開店する前はその顔でホストをやっていたとかなんとか。
「すまない。すまない
どうしても、昼夜逆転しているとこの時間の思考が落ちるんだよねぇ」
カップに氷を入れた上で生ぬるいコーヒーを注ぐ。
慎一郎は備え付けのシロップとコーヒーフレッシュを注いでストローでかき混ぜてそれを飲みだす。
「そういえば今日で彼女と一緒に帰るのは終わりだっけ?」
「彼女じゃないですよ。
幼馴染なだけで」
アイスコーヒーを飲みながら慎一郎が茶化す。
忍はなれたもので適当に相槌を打ちながら、流しで使用済みカップを洗っていた。
何かにつけて曽我夏海がやってきたので店長にも顔を覚えられていたのである。
「それを言い張れる君の姿勢が信じられないよ。
双海からわざわざ通って来ているんだろう?」
「なんでも恋愛脳にしないでくださいよ」
呆れ声で忍は苦笑する。
彼はホスト時代のイザコザで女性不信になり、足を洗ってこのネットカフェを開店させた過去がある。
そのくせ恋愛そのものは好きらしく、女性コミックのその手の恋愛物を良く仕入れていた。
最初はホストとしての女性を知る勉強から。
今は紙の中の恋愛は刺したりしないという理由から。
「世は恋愛に満ちているのさ。
見てみろよ。
こんなに恋愛のコミックが溢れてる」
「それ今月の新刊ですよね。
万引き防止用に判子さっさと押してください」
軽度の人間不信のくせに人そのものには興味がある。
そんな彼のルックスに釣られてこのネットカフェはそこそこ女性客が多い。
そんな彼女らに塩対応ができる忍を慎一郎は買っていた。
「本当にそういう所は塩対応だね。君は。
その仕事は夕方組にさせるから、一眠りさせてもらうよ。
何かあったら起こしてくれ」
「はい。
おやすみなさい。店長」
事務所のソファーで毛布に包まる慎一郎を横目で見て、忍は置かれていた恋愛コミックをカウンターに持っていって判子を押していった。
これが忍の日常の一つだった。
「卒業おめでとう!
乾杯!!」
「かんぱーい♪」
合図と共にグラスの音が響き、元高校生たちはテーブルに並べられたお菓子を食べながら歓談に花を咲かせる。
テーブルに並べられたのは、ケーキに焼きそばに唐揚げにサラダ。
ジュースと炭酸飲料が並び、卒業パーティーは華やかさよりも食い気と共に始まった。
これも卒業式がお昼前に終わるのが悪い。
「やっぱり唐揚げは揚げたてが美味しいよねー♪」
「ケーキも甘くておいしい♪」
「けど今日の夜の体重計が……」
「はい!その話はやめやめ!!」
松山市湊町。
銀天街と千舟町通りの間にある小道の雑居ビルの五階にこの『アヴァンゼ』という店があった。
昼はランチに、夜はダイニングキッチンとして営業しており、その六階がオーナー兼曽我夏海の叔母である千舟美香の自宅となっている。
基本実家通いの夏海だが、どうしても帰れない時はこの叔母の家に泊まる事になっていた。
その分、休みの昼間にエプロンをつけて働く羽目になるのだが。
『アヴァンゼ』に集まった十数人の男女には共通項がある。
全員家が松山市外にある人達で、進学や推薦の為に瀬戸内学園に入学した連中なのだった。
一番遠い人は宇和島市に実家があり、関西の大学に進学が決まって卒業と共に瀬戸内学園の寮を引き払ってこのパーティーの後実家の宇和島帰省するつもりらしい。
特等生クラスと呼ばれたクラスで学費の免除など優遇を受けた彼らの卒業パーティは、そのクラスの中心人物だった曽我夏海の知り合いである『アヴァンゼ』にするのはいつの間にか決まっていた。
「しっかし、ここに残るやつと、東京に進学するやつと見事にバラバラだよな」
「そうよね。
落ち着いたら連絡ちょうだいね」
学生服にエプロン姿の夏海がみんなと歓談しながら料理や飲み物を出している。
この『アヴァンゼ』の看板娘として昼間の人気の一つになっているらしいが、子供の頃から双海に住む両親のドライブインの手伝いをしていたのだからその仕草も手慣れたもの。
自分も食べたり飲んだりしながら、しっかりと皿を出し入れしてパーティの雰囲気を盛り上げる。
「なぁ。曽我。
進学しなくて良かったのか?
推薦来ていただろう?」
宮田優が場の人間全員が気になっていた事に切り込む。
夏海はこの場に居る松山市外組の中で唯一卒業後に家業を手伝うことを理由に進学していなかった。
スポーツにせよ勉強にせよこの場に居る全員が瀬戸内学園の大学部か関東・関西の大学に進学が決まっていたのに対して、彼女一人だけがそれをしない。
学校側も優等生である彼女の進学を望んでいたが、彼女の決意は固かった。
「まあね。
元々無理して学校に来ていたからね。
これ以上の無理はちょっと……という訳」
はにかむように夏海は笑う。
そんな笑みに魅了された男子は多く、告白されたことも多々あったが、その全てに彼女はそのはにかむ笑みでお断りを入れていた。
「じゃあ、二宮とつきあうのか?」
宮田優のおせっかいだが、それはこの進学組全員の総意でもあった。
仲良く地元から通学し、公私に渡って大体つるんでいる忍と夏海だが、こうやってつき合っているのかと問われると揃って否定するまでがいつもの事。
……なのだが、その日の夏海の答えは違っていた。
「うーん。
いつまでもこのままじゃ駄目かなとは思っていたから、告白するつもり」
皆の静寂の後に悲鳴があがって曽我夏海が驚く。
その後の夏海の台詞に皆が更に唖然としたのに夏海本人が驚くのは数秒後。
「けど、忍私の告白受け入れてくれるかな?
それがちょっと怖くて……」
(お前は何を言っているんだ?)
それを突っ込む人間はこの場には誰も居なかった。