物語と性別
タイトルの話しはとりあえず置いておいて、今文学の流れを受け継ぐ小説は衰退しつつある。だがこれは文学とは違う。あくまで流れを薫陶を受けた程度のもので根本的には娯楽小説と呼んで良い。だからこそ文学マニアはそれらの小説の商業主義的な性格を嫌ってるのだから。それでも文学の流れを受け継ぐのは重要。小説と言う古典的な物語のスタイル自体が衰退してて文学が衰退してるのをそれに絡められるから。
刺激を大きく分けて、3つに分類できると思う。軽い話、これは喜劇がその代表例になる。ただ私は以前から喜劇や笑いは絶対書くなと書いてきた。何故か?古典的に誰でもこれが面白い事を知ってるから氾濫してるからレベルが高すぎて簡単には作れないから。私は楽して勝つのが良いやり方だと思っている。それゆえ喜劇や笑いは軽い楽しみで避けるべきだ。
そのため漫画ではあるが実写でも通用したと言う点で孤独のグルメが良い例だと思ってる。ただこの作品に別に拘らなくて良い。分類しにくいが特徴として軽い気持ちで望めるが似てるだけで実際の刺激は全く違う。軽い楽しみはその他の扱いに近い。本当の目的は後の2つにある。その2つとは衝撃展開と共感感情移入で楽しむ物語になる。
孤独のグルメはこれらの物語の王道と違ったものなので分類できないとなりやすい。だからこそ、軽い楽しみと言うその他カテゴリーが良くあう。本来の刺激とは別に気軽に楽しめるという条件にマッチすればすべてこのカテゴリーに入る。以前は衝撃展開を加えて頭を使わない受け手の楽しみとしてきた。
シリアスとは違う何か?について述べる時に軽いものじゃないが、これ種類が違うと言うときに他人の不幸の転落をジェットコースターのように見るものは可哀想と思ってみるわけじゃない。可愛そうな境遇を安全圏から見る愉悦として楽しむような残酷さにたのしみが有る。他人の不幸は密の味とはだが違う、それ自体が楽しみではない、火事場で見学してる野次馬こそが衝撃展開のツボになる。
共感や感情移入とは全く正反対にあるから敢えて残酷さ書いたが、それは大事じゃない。これは良く言われるが、物語の基本として笑いも関わるが、日常の破壊がある。狂気と笑いはどこか似てると言うのはこれがある。笑いの奥の深さに関わるが、笑いは軽さで書いたのに、こっちにも顔を出すのは、笑いはそういった日常の破壊を修正する感情の補償にある。だからこそ難しいのだが、一端日常を壊すアクションが必要になる。
これが笑いがタブーに触れるのが面白いツボになり、同時にそれが上手く行かない原因にもなる。上手く日常に戻せないと駄目だから匙下限が入ってくる。これが人によって違うから笑いは絶対が無い。笑いは戻すのがキーだが創作は想像上の事なので安全なので、思い切りぶち壊す。火事場の野次馬は他人事だから楽しいんだ。
日常に対して非日常を描く事が衝撃展開の面白さになる。それゆえに軽い話と相性が悪い。これでシリアスと非シリアスの2分されるが、これが間違っていた。日常と非日常を対立させる事は現代を上手く表してない。これはこれで違うものであるのは確か。だがその裏で、非日常には感情移入、共感が強く面白さとして絡んでる事に気が付いた。
衝撃展開事態はむしろ頭を使わない物語として、軽い話と同一カテゴリーになる部分がある。ユーチューブを思い出してくれれば分かる。頭を使わない今の受け手の好みにあってるのは何故か?で軽い内容と衝撃映像の2つがユーチューブでは同一に扱われる。登場人物に感情移入、共感する事こそがシリアスの根本にある。それと絡んだ非日常物語と日常物の対立になってるだけで、非日常的衝撃展開と日常物(ファンタジーでも可能)は確かに真逆だが、それだけじゃ現代のシリアス忌避は解けない。
何を当たり前なとなるだろう。だがここに性別を要れることで私独自の話しになる。古典的な共感や感情移入を軸にした物語は女性の方が楽しめる。これが常識となってなかった。男性でも楽しめるからだ。ただそれは数の問題を扱ってない。女性なら誰でも備わってる力が、男性には残念だが若干弱い。
男性作家も多いじゃないか?となるが、大体の男性作家は女心が描けないと自虐するが男全般からすれば心理が女っぽい。次に文学の変遷がここに絡む。何故文学の薫陶を深く受け、受け継いでいる今の日本の小説が文学とはちとずれるのも多いか?と言うと、この女性の感じやすさを利用した安っぽい話が大量に作られたからだ。
だから評価者として女性は駄目だとはならない。女性も読みなれればやはり擦れてくる。その点そこまで男性と変わらない。問題は大半の人間は性が持つ特性に支配されるって点。男性は根本的に向いてるか?または鍛えなければ女性の様に容易に感情移入や共感が面白さにならない。
文学が持つそういった部分と思考の部分、この男性的な思考の部分の楽しみが大半排除されて感情で埋め尽くされて女性仕様にされるから、今の大半の小説は商業的だと文学マニアから批判されるんだ。これが文学と共通性を持ちながら違うものになってる正体になる。後大半文章になり物語の核となる面白さからすれば枝葉が模倣されてるのも大きい。(日本文学はちと文章に傾倒してるためある意味核なのかもしれないが)
未来において、小説は多分衰退していくが、女性は別じゃないか?と私は以前から見ている。女性も徐々に傾向としては男性的な好みの細分化の流れに入ってきてはいるが、根本的に楽しみのアンテナ、感受性の強さに違いがあるので、そのため女性は男性が作ってる今の流れとは違う方向になる可能性もある。
すでに以前から意識されてるが、古典的な物語の大半が女性に埋め尽くされててそのせいでさらに男性が離れる悪循環が起きている。シリアスが何故忌避されるか?で衝撃展開自体は別に男性でも楽しめるのに、女性的な共感、感情移入に比重が置かれるため男性には刺激が薄いものになる。これが大きいと見ている。
かつ衝撃展開事態飽きられたらお終いってのがあって、後の時代ほど刺激が駄目になっていく問題もある。もっと言うと時代よりも創作を取り巻く社会環境、商業環境が重要になる。衝撃展開と言う情報が氾濫すれば刺激が刺激で無くなる。情報の転移が容易でなかった過去の時代と較べると創作現実の衝撃が社会的、商業的にどんどん伝わってしまう今の社会ではこういった刺激はおそらく過去とは比べ物にならないぐらい刺激が薄くなっていると見ている。
これはシリアス忌避の補助の原因と私は見てるがそれは以前触れた、今回発見した一番の原因は、感情移入共感にあると見ている。そしてそれが女性的であると看過した。これは女性差別的ではない、むしろ男性蔑視的になる。男性はそれを楽しむのに何ら鍛えない自然のままでは劣っている。
再度書くが男性作家が多い文学などは思考の面白さの比重が、現代の文学の流れを継ぐ小説に対して高いから。それゆえ十分男性的だから。TVドラマも本屋も気が付けば女性ばかりとなる時代になるだろうと見ている。