chapter1 乙女ゲーム? 悪役令嬢? ヒロイン? ②
夏李と母が家を出て行って数日。
夏葵は部屋に閉じ籠もり、食事すらも拒んでいた。
頭がまるで追いつかない。
思い出した記憶は酷く鮮明で、頭痛に近い痛みを伴って夏葵を苦しめる。
母親だった人が双子の妹。
夏李が嬉しそうに言っていた『ヒロイン』ってなに?
夏李の別れ際の顔が何回も何回も目の端に過ぎる。
『さ、よ、う、な、ら』
ああ、私はまた母親に捨てられたのか…………。
心が張り裂けそうなのに涙が一つも出てこない。
前と同じ。諦めてしまっているのに、望みなんてないとわかっているのに。
一匙分の希望がきっと、この胸に燻っている。
それだけで痛みを伴うには充分なのだから。
そんな自分に業を煮やしたのか、ある日父は「専属のメイドをつける」とだけ言い捨てて、一人の女性を置いて部屋から出て行った。
父が自分をひきとったのは夏李より、勉学も教養も秀でていたから。
この藤ノ百合家にとって益になるから。
理由はそれだけだと知っていた。私に愛情など欠片も持ってはいない。
その自分が使い物にならなくなっては困ると思ったのだろう。
父は財閥家にしては珍しく晩婚で、6歳の私の父親としては高齢な52歳だ。
もし再婚したとしても子どもに恵まれなければ、後継者となるのは自分。いや、自分の結婚相手だろう。
藤ノ百合家の恥にはならない令嬢にと望んでいる。
だからこそ離婚した程度で引きこもられては困ると、早々に手を打つことを考えたのだ。
専属のメイドとして紹介された女性を見上げる。
このまだ20歳を過ぎたばかりだろう少しきつめの美人な女性が切り札?
「はじめまして、夏葵様。本日より夏葵様の専属のメイドとして仕えさせていただきます。此花千早と申します」
「此花、さん……」
「千早で結構です。夏葵様」
微かに頷けば微笑まれた。
その後、会話はなくベッドに蹲ったままでいる私を千早は見ているだけだった。
数時間が経ち、のろのろと顔を上げると、まだ千早はこちらを見ていた。
立ったままで何時間も、どうしてこんな子ども相手にできるのだろうか?
仕事だからと片づければそれまでなのかもしれないけれど、不思議でしょうがなくて。
上げた顔を千早に向けて、じっと見つめてしまっていた。
ほんの数分、蹲っているよりもたかだか僅かな時間だった。
「…………可愛すぎでしょう、夏葵様。本当に悪役令嬢なのですか?」
「え……?」
驚いて目を見開けば、千早は勢いよく180℃の方向転換で背をむけた。
「な、なんでもございません。申し訳ございません」
焦っている声が聞こえてきたが、夏葵にとってはそれどころではなかった。
無意識に千早の元まで行き、メイド服の裾を掴んでいた。
「悪役令嬢ってなに!?」
「へ? な、夏葵様?」
「悪役令嬢ってなんなの!? ヒロインってなに!?」
『ヒロイン』
その言葉に千早が真顔になって、背を屈めて自分と同じ目線になった。
「ヒロインという言葉をどこでお知りになったのですか?」
「夏李が言っていたのよ! 自分がヒロインだって! ヒロインってなに!? 大変なものなの!?」
叫ぶように続ける声に千早は耳を傾けてくれた。
知りたかった。
わからないことだらけで頭は混乱するばかりで。
この答えの解決の糸口がなにかあるのなら、どうしても教えてほしかった。
千早は考え込むような仕草をした後、また自分に目を向けた。
「失礼ながら夏葵様は転生者ですか?」
「転生、しゃ?」
「……違うようですね。では夏李様が転生者ということで間違いはないでしょう」
「千早さんのおっしゃっている意味がよくわかりません」
「それが普通のご反応だと思います。夏葵様はゲームをしたことがございますか?」
「ゲーム、ですか? いいえ」
いきなり違う話題に飛んで途惑ったものの答えれば、千早は少し難しいですが、と付け加えて言い切った。
「ここはある乙女ゲームとそっくりな世界なんです」
理解が到底追いつかなかった。
千早の話によれば、ここは『チェトランガ』という乙女ゲームが舞台の世界にそっくりなのだそうだ。
『チェトランガ』は元々はPCゲームで発売して人気を博したためにコンシューマーゲームに移植になったらしい。
タイトルの起源どおり、チェスが大きくかかわっており、一つの章ごとにチェスをして、その勝敗によってストーリーが変わっていく仕組みで難易度は当初から選べる。
高宮東奥学園の創設者だった人物がチェス好きだったことが由来して、高等部にはそのチェスの駒と同じような呼ばれ方をしている人達がいる。
高等部校長である先生が見込んだ者だけが、その名を受け継ぐ。
藤ノ百合夏葵は高等部では女王と呼ばれているが、それは校長と親しかった父親の願いにより聞き届けられたもので、夏葵の力ではなく権力によってもたらされたもの。
攻略対象である他の人達とは仲が悪いらしい。
そんな中で自分を捨てた母親と母親に愛されているヒロイン・妹の夏李の登場によって夏葵は復讐心を抑えられず、次々と罠にはめようとするが、攻略対象者達が守り、最後には夏葵は断罪され、家からも絶縁されて自殺する。
それがこの乙女ゲームのストーリーらしい。
何度聞いても話についていけない私に親切丁寧に書かれた内容の紙を千早から渡された私は、今度こそ倒れて意識を失った。