第7章 イラン半周 大バス旅行
第7章 イラン半周 大バス旅行
忙しかったテヘラン交際見本市も終わり、その気分転換にイラン半周2,800kmのバス旅行を思い立ち、実行に移すことにした。
10月13日(金)
早朝にテヘランを出発し、マシャッドと並ぶシーア派イスラムの聖地コムに立寄る。コムは熱心な信者が地方から巡礼に来る町で、アルコール類は一切販売されていないし、モスクも異教徒は立入禁止になっている。僕はそれを知らずに入って、注意され追い出されてしまった。モスクの中では信者が熱心にお祈りをしており、お祈りもせず、酒を飲む多くのテヘランの若者達とのギャップの大きさに驚く。車に戻って冷えたビールを飲もうとすると運転手が危険なので街を出てからにした方が良いとアドバイスをくれた。
コムの町を出てイスファファンに向かう。周囲の風景は何も無くなる。いわゆる土漠が果てしなく続き色褪せた草や小木が少し生えている荒涼たる景観である。
夕方イスファファンに到着。イランで最も伝統と格式のあるシャーアッバスホテル(五木寛之の “燃える秋”という小説の舞台にもなっている) に泊まる。このホテルは、昔のキャラバンサライ(隊商宿)を模してつくられたもので、独特の建築様式である。
“燃える秋“はペルシャ絨毯に心惹かれた一人の日本女性、桐生亜希が、一枚の絨毯に織り込まれた五千年の文化の歴史を知り、愛や幸せよりも、もっと大切な何かを求めて生きる姿を描くものである。 映画は革命前夜の1978年に真野響子主演で三越と東宝が共同製作した。その主題歌はハイファイセットが歌いヒットした。
♪♪ 燃える秋
空はペルシャンブルー
人は夢み、詩は風に消え--- ♪♪
10月14日(土)
イスファファンは、ザクロス山脈の平原に開かれたオアシス都市で、アーケメネス朝時代(紀元前525~330年)からの町で、サファビー朝(1502~1736年、最もイラン的な王朝でイスラム教シーア派を国教に定めた、シャー・アッバース1世が有名である)の首都として、“世界の半分”と言われるほど繁栄した。現在、人口52万人、イラン第2の都会で、石油産業、紡績工業、工芸品が発達している。イスファファンはイスラム世界で最も美しい街とも、イランの京都とも言われる古い都で美しい町である。
ここで一緒に旅をしてきた、住倉商事の社長や今田さんと別れる。彼らはテヘランに戻る。ここからは五井物産の石田君と二人での道中になる。
シャー広場、シャーモスク、ケイサリエ・バザール、アリカブ宮殿、40柱宮殿、ジョメモスク、神学校、ハージェ橋など、あらゆる所を見て回った。バザールは値段はあってもないようなもので、商社マンの得意なネゴをすれば30~40%は安くなる(と言うか、値切らないとバカだと旅の本にも書いてあり、壁掛と細密画を買って実際に値切ったら4割安くなった)。時間が余ったので、映画館に入ると日本の空手映画を上映していた。もちろんペルシャ語の吹替え版だが結構面白かった。イランでは日本といえば、まず工業製品、次いで空手、柔道というくらい有名である。
2泊目は、3流のモサフォルホネ(日本流にいえばビジネスホテル)に宿泊。宿泊費は前日の約10分の1と安いが、一流ホテル以外はトイレットペーパーが無いので、注意を要する(イラン人は水で事後処理を済ます場合が多い)。ボーイに聞くと日本人の宿泊は我々が初めてだそうだ。僕たちがウイスキーを飲んでいると、ボーイが飲みたそうな顔をしているので、仲間に入れてやったら、メロンや葡萄を持ってきてくれて色んな話をした。彼の日給は400リアル(約1,200円)で貧富の格差が大きい事を実感できた。
10月15日(日)
長距離バスでシラーズに向かう。周囲はいわゆる“土漠”が果てしなく続いているが、30分おきくらいに土造の村落がある。日本人的感覚でみると汚なく、貧しい村々であるが、村を一歩でると果てしない広がりの空間が有り、その汚さ、貧しさを包み込んでしまう雄大な自然がある。このようなバスには駐在員も誰も乗った事がないというので、かなり汚いと想像していたが、予想外に綺麗であった。但し乗客の人相はあまり良くない。
イランでは、乗客はバスの出発と到着の時、“アラー! モハマッド”と叫び、道中の無事と到着の喜びを祈るわけだが、最初は分けがわからず驚いた。
約7時間のバスの旅であるが、途中ドライブインならぬ粗末なレストランで昼食をとる。料理はチョロキャバブ、チェロモルグ(それぞれバター付きライスに羊肉、鶏肉を添えた料理)の2種類程度で旅行中はほとんどチョロキャバブだったのですこし閉口した。
夜、7年前にイラン建国2500年祭が催されたペルセポリスに到着する。ダリウスホテルに宿泊する。ペルセポリスはアーケメネス朝のダリウス1世によって建設された城で、その遺跡で夜、光と音楽によるショーが行われた(ショーの説明は英語と仏語のみでペルシャ語がない。これも不思議な気がした)。星空のもと、スポットライトに浮かび上がった古代遺跡は、2500年前のダリウスとアレキサンダー大王の時代を思い起こさせる素晴らしいものだった。
兵どもの夢の跡―――ペルセポリス
ペルセポリスを取り巻く大平原に夜明けの太陽が昇る。朝靄をつき、時の声が上がる。アレキサンダー大王率いるマケドニア軍とダリウス大王が率いるペルシャ軍の戦いが始まった。
軍馬の嘶き、兵士達の叫び声が、四囲から湧起る。目の前に両軍の10数万人の兵士達の槍や剣、それを防ぐ盾のぶつかりあう音、兵士達の叫び声が満ちわたるなか、何千もの軍馬が疾走し、地響きが体に伝わる。そしてひと時、激戦が繰り広げられる。最後にペルシャ軍がマケドニア軍を破り、ダリスス大王が声高らかに、荘厳な声で勝利を告げる。兵士達の歓声が沸きあがる。
ペルシア軍が引き上げ、そこにはまた静寂が戻ってきた。
ふと気がつくと、ペルセポリスの神殿のイオニア式柱列に月光が射し、暗い空には無数の星が瞬いている。
10月16日(月)
午前中ペルセポリスを見学し、“バラとワインと詩の町“ シラーズへ向かう。
シラーズはイランの奈良とも呼ばれている(日本人が勝手に名前を付けただけと思うが)。シラーズはペルシャ民族発祥の地ファルス(ペルシャ)地方の中心都市でペルスセポリスの南西60km、高度1600メートルに位置している。サッファービ朝に次いでイランを統一したゼンド朝(1750~1795年)の首都で、有名な叙情詩人サーディとハーフェズの生まれ住んだ町でもある。彼らの墓には、有名な詩が刻んであり、読むと、勉強の成果(?)で、所々分かる。またこの街では、山岳民族であるトルコ系のカシュガイ族の民族衣装を着た女性を良く見かけた。
シラーズではバキールモスク、ニューモスク、カリムハーン城、オアシスガーデンも見て回った。このような観光には白タクを使う訳だが、外人観光客とみると価格をベラボーに吹っかけてくる。乗車中は殆ど価格交渉というのも疲れるものである。
夜行バスで700km離れたアワズに向かう。イラン人は夜行バスの中でも、日本人のように酒を飲むこともなく、意外と静かである。前の席の大学生が我々に、“イランから外国勢力は出ていけ“ ”農業をもっと重視すべきである“ ”イスラム復帰、国王は不必要“ と熱っぽく(悪く言えばうるさく)語りかけてきた。バスには運転手の他に、助手が一人おり、水やコーラを乗客に配ってくれ、結構サービスは良い。
10月17日(火)
ザクロス山脈を越え、早朝6時にアワズ到着。7時に着く予定が1時間も早く着いてしまい、コンタクトをはめる間もなくバスから降りた。真っ暗なのでどこへ行ったら良いのか訳が分からない。荒くれ男のタクシー運転手たちが取り囲むし、困ってしまった。バスで知り合ったイラン人が町まで連れて行ってくれると言うので待っていると、突然彼とタクシーの運転手が殴り合いの喧嘩を始め、地面を転がってすさまじい殺気が漂いだした。周囲を見るとバスもいないし、他の乗客も誰もいなくなっており、荒くれ男たちが喧嘩を取り巻いている。コンタクト無しでは何も見えないし周囲の情況すら判断出来ない僕にとってはすごく不安な一瞬だった。突然一人のタクシーの運転手が僕の手を引っ張り、車に無理やり押し込んでしまったが、ともかく危険な場所から離れられホットした。そしてやっとの思いで、ホテルにたどり着けた。アワズはイラク国境、ペルシャ湾に近く、周辺の工業地帯、油田の中心都市で、町の中でも石油のにおいが鼻をつく。町には労働者があふれ、活気が有り、“赤線”の町としても有名である。町の背景には土漠が広がり、油田の炎が空を焦がすように、燃え上がり、殺伐とはしているが、力強く壮観である。町には人間が溢れていて(このあたりに来るとアラブ人の血が混じった人が多く、色が茶色っぽい)一発触発で暴動が起きそうな雰囲気であった。 早速、古代遺跡スサへ路線バスで向かう。スサは紀元前1500年ごろからの町でアーケメネス朝時代には都にもなったが、今では一農村になっており、遺跡も土台が僅かに昔の名残りをとどめているに過ぎない。“兵どもが夢の跡”といった風情である。スサでは大都市では見れない、イランの農民の生活を垣間見る事が出来た。スサから戻り夕方に、石田君と赤線に向かうべくタクシーに乗る。
運転手が曰く“お客さん、早く行かないと閉店しますよ” “???”。 運転手がまた曰く“ だって赤線は国営だから従業員は公務員ですよ! 公務員の勤務時間は6時までだよ” “ ???!! ”
10月18日(水)
アワズからハマダンに向かう道路は、ザクロス山脈の西側を走っており、周囲の景色は緑が多くなり、小麦や野菜畑が目につく。ハマダンは、旧名をエクバタナと言い、メディア王国の首都として栄えた町である。戒厳令に慣れてしまった僕とっては、銃を構えた兵隊もいなく、夜も自由に外出できるハマダンの町は異様に感じられた。
旅行の後半は、見学よりも裏町を歩き、住民の生活を見たり、人々と話をすることに重点を移した。地方都市では一歩裏道へ入ると、200年も前の土造りの崩れそうな家屋が続いており、女性も殆どチャドルをかぶっている。
10月19日(木)
ハマダンからテヘラン行きの帰途につく。テヘラン行きのバスが出発して2時間後くらいに、市内で軍隊と暴徒の間で発砲事件が起き、数名の死傷者が出たとのことで、事件に巻き込まれずにラッキーであった。バスを一つ遅らせていたら万事休すだった。いつも持ち歩いている守りのおかげかな。
午後7時、テヘランに到着。イラン半周2800kmの旅はここに幕を閉じた。次回はマシャッドからシルクロードへの旅にするか、タブリーズから、トルコ、シリア、イスラエル、エジプト、サウジアラビア、クエートを回るという大旅行にするか迷っている。然しながらこの2回目の旅はイラン革命の為実現はしなかった。