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第6話 「真のチャンピオン」

「憑依モード、牛若丸っ!」


 俺は野球のスライディングのように巨人達の足元を滑ってすり抜けると、床に肘を押し当ててその反動で起き上がる。手は決して胸から離す気は無い。しかし、なぜこいつらは乳を見たがるんだ? そう言えば、俺もなぜそこまで隠そうとするんだ? まあ良いっ! とにかくもったいない気がするから見せねぇ!


 巨人達が伸ばしてくる手を、俺は右へ左へと動いてかわす。手がかすっただけで俺の体はバランスが崩れた。体重の差もあるが、腕を固定しているので動きにくい。


「ああっ! もうやだなぁっ!」


 俺は部屋の中を逃げ回る途中、椅子の上に置かれていたジャージを拾い上げて袖を通す。予想通り汗くっさいっ! 昔は俺も汗臭かったが、女になってからはなぜか少し良い香りがする。だからよけいにか、男の汗臭さは強烈に鼻を刺してきやがる。


 ジャージで体を隠す事が出来た俺は、もう腕が自由に使える。だからと言って、この人間とは思えない奴らからどうやって逃げ切る? 親父が15人いるようなものだ。


[カチャ]


「ああっ!」


 セイム・シューマッハが扉の鍵を閉めやがった。もちろんつまみを回すだけの鍵なので簡単に開けることが出来るが、そのロスが大きい。鍵のかかってない扉を開けて外へ出るのと、扉の前で立ち止まって鍵を開けて外へ出るのでは三秒は違ってくる。それだけの時間があれば、外に出ようとした俺の体に八本は腕がからんでくるだろう。


 

 だぶだぶのジャージを着て俺は部屋の中を走り回った。トレーニング用の器具やサンドバッグを盾にして逃げる。捕まらないのは、ひょっとして奴らは俺をもて遊んでいるのかもしれない。しかし、それが奴らの命取りになるはずだ。あと少しすれば、畑中が館長を呼んできてくれるはずだ。…………呼んできてくれるか? あいつ、怒って帰ったかも?


 奴らのおやつ用なのか、テーブルに置かれていたバナナとリンゴを投げつけてみた。やった後馬鹿な事をしてしまったと思う。子供の喧嘩じゃないんだから、そんなもの効くはずがない。むしろ、逆に女っぽさを強調してしまった気もする。


 ロッカーの上に飛び乗ってみたが、ロッカーなど2メートル以上もあるセイム・シューマッハの目線よりも低い。軽々と伸ばしてきた人間とは思えないほど長くて太い手を俺は並んだロッカーの上を走って逃げる。


 ああ、むかつく。しかし、こいつらは恐らく人類でも上から百位以内に入っているような強者(もさ)達だ。どうすることも出来ない。頼む、畑中。そろそろ俺は限界だ……。


「巨チチガール!」


「爆チチガール!」


「ヤマフージ、ヤマフージ」


 奴らは部屋の隅に俺を追い詰め、口々に囃し立てている。大体、『ヤマフジ』ってなんだよ! それだとどこかの大手焼肉チェーン店の名前みたいになっているじゃねーか……。



[ドンドンッ ガチャガチャ] 


 部屋に強めのノックと、扉のノブを回す音が響いた。


「畑中っ……か?」


 俺の表情は明るくなる。最悪館長じゃなくても、小次郎でも良い! とりあえず日本語の分かる関係者なら……。


 外国人選手達も、どうしたものかと言うように眉をひそめて顔を見合わせている。そんな静まり返った室内で、爆弾が破裂したような強烈な音がした。


[ドガンッ!]


 扉の方からだった。目を凝らして見ずとも、鉄製のドアが変形している。外側から強い衝撃を与えられたかのように、部屋側に突き出して盛り上がっている。


[ドガンッ! ドガンッ!]


 二か所、三か所とその盛り上がっている部分が増える。な…なんだ? 何か外にとてつもない猛獣がいるのか? 外国人選手達も顔色を変え、扉から遠ざかって行く。


[ドガンッ!]


 一際大きな音がすると、ドアがくの字型にひしゃげて、鍵の辺りに壁との隙間が空いた。もうロックの意味をなさないようで、自然に扉が開いていく。



「どぉ~こぉ~だぁ。わしの和海ちゃんをいじめている奴は~」


「……まっ……まさか……。なぜ……ここに奴が……」


 開かれた扉いっぱいに、でかい短髪の色黒男が立っていた。目から青白い光が放たれている。


「お……親父っ!」


 ちなみに親父は、俺が男の時は厳格で放任な奴だが、俺が女の時は死ぬほど溺愛してくる鬱陶しい奴だ。


「センシュ? ナカマなる?」


 そこに、黒人で髭面のビアンキが片言の日本語を言いながら近づいていった。確かに体つきなら親父は格闘家に見えなくもない。


「ナカマコトワル。オマエラ、シヌ」


 なぜか片言の日本語で返した親父は、ビアンキの顔をいつものように片手で掴んだ。


「馬鹿か親父! こいつらはプロだぞ! その辺の高校生を掴みあげるような訳にはいかねーぞ! ……えっ?」


 恐らく体重が120キロはあるだろう筋肉質のビアンキの足が床から離れている。親父が手を放すと、持ち上げられていたビアンキは床に足を着き、そのまま垂直に崩れた。例のごとく白目で泡を吹いている。


 倒れた黒い野獣を一瞥することも無く、親父は部屋の中ほどまで歩いてきた。外国人格闘家達は、親父から距離をとる。


「ダレだ? シラナイジャパン選手カ? ジブンのバショにモドレ!」


 外国人の一人が、床に転がっていたリンゴを拾い上げ、親父の目の前で片手で握り潰して見せた。すごい握力だ。確かリンゴって、握力が120キロ無いと潰せないとか聞いたことがあるぜ……。


「なんだその程度。自慢する程でもない」


 そう言った親父は、横にあったテーブルの上に乗っていたバスケットの中に手を差し入れる。そして、そのフルーツの盛り合わせの中からリンゴを取り出した。


「これを潰せばいいんだな?」


 親父はリンゴを握って見せる。


 待てよ? そのフルーツの盛り合わせは俺が持ってきた物だ。それは本物じゃなく、アクリル製の塊だから、とても潰せやしない。


「親父、それは偽物…」


[バキバキバキバキ]


 親父の握った手のひらから、ガラスのような欠片が粉になって落ちていく。


 戦慄が走ったのは俺だけだっただろう。なんせ、そのリンゴが作り物だったってのはここでは俺しか知らない。外国人共は、やけに乾いたリンゴだったんだなって程度でしか思っていないだろうが、それはアクリルでがっちがちに固められた塊だったんだよっ! 


「ムメイのジャパン選手カ……。小次郎のナカマカ?」


 外国人達の中から、一際強そうなオーラを持つ男が親父の前に立った。髪は金髪で、身長は親父と同じくらいだ。


「ベルトルド・シュバルツ。192センチ、110キロ。三十二歳ドイツ人。人類最強、金色(こんじき)のサイボーグ……」


「えっ?」


 事細かに解説を入れてきた奴を俺は見る。ドアの傍に畑中が立っていた。どうやったか知らないけど、親父を連れてきたのはあいつだったのか。


 ……しかし、ベルトルド・シュバルツって……、今日小次郎と戦うメインイベンターじゃないかっ! 仕事前に控室で読んだ雑誌には、確か35戦35勝。人類の歴史で最強だと言われている化け物だ!


「誰だお前は? 今日の試合に出ていなかったから……練習生か?」


「レンシュウセイ?」


 親父、またバレーボールの番宣の時と同じく、隠れて俺を見に来ていたのかっ! それよりも、そいつは今日の試合に出ていなかったんじゃなく、これから出る一番やばい奴なんだよっ!


 親父とベルトルドが対峙すると、その周りを外国人選手が取り巻く。俺はもうすでに眼中に無いらしく、選手の一人に突き飛ばされてしまった。


「痛てて……」


「大丈夫か? 神野」


 よろめいた俺の体を畑中は支えてくれた。


「あんたが親父を呼んできたのか?」


「ああ。館長なんてどこにいるか分からないから、連絡通路に戻って俺のマネージャーかお前のマネージャーでも呼びに行こうと思ったんだ。するとそこで警備員と揉めていた人がいてさ。なんか強そうな大人だったから声かけて、お前の名前を言ったら……こうなった。お前の父さんだったのか。……どうする?」


「どうするって言っても、さすがに親父置いて逃げれねーぜ。親父もプロ一人ならともかく、15人とチャンピオン相手に絶対勝てねーし」


 その時、男達が動いた。


 輪になっていた男達が片側五人程で、親父の右手と左手を抑え込んだのだ。それを悠然と見ながら、チャンピオンであるベルトルド・シュバルツが腕を振り上げる。


「き…きたねーぞっ!」


 俺は叫んだが、ベルトルドのパンチは振り下ろされた。それが親父の顔面を捉える。



 実際は10秒ほどだったかもしれないが、一分ほど室内が静まった気がした。そこに、親父の低い声が響く。


「やはり練習生の(こぶし)など、まったく効かんな」


 平気な様子に顔を強張らしたベルトルドは、もう一度腕を振りかぶろうとした。しかし、その目の前で親父の体が動く。


「オォォォ」


「ウォォォ」


 親父が右腕を振ると、右側の五人が吹っ飛ぶ。親父が左腕を振ると、左側の五人が吹っ飛んで行った。


「軽くだが、突きと言うものを教えてやろう。身に受けて覚えるのが一番早い。動くなよ」


 親父が指をポキポキと鳴らしながらゆっくりと近づくと、顔を青くしたベルトルドが後ろに下がっていく。


「動くな。動けば、余計怪我をするぞ」


 親父が腕を振り上げると、ベルトルドは巨大なサンドバックの後ろに隠れた。隣の畑中が「チャンピオン……かっこ悪い……」とつぶやいた。


「チェストォォォ」


 ベルトルドは親父の気合の掛け声を聞くと、頭を抱えてしゃがみこんだ。その上で、親父のパンチはサンドバッグを直撃した。


[バチンッ!]


 吊り下げていた金属の鎖が軽々と引きちぎられる音がし、サンドバッグは床に当たって跳ね返る。そして、壁に当たるとさらに跳ね上がり、天井に当たってからベルトルドの横に重い音と共に落ちてきた。


「…………」


 ベルトルドを含めて、声にならない悲鳴をあげた外国人格闘家の前で、親父は床に横たわっていたサンドバッグを片手で拾い上げる。


「大体、お前たちはなっとらん。人を転ばしたと思ったら関節を極めたり締め上げたりと悠長な事を。人を捕まえたらな、即座に…」


 そう言いながら親父はサンドバッグに両腕を回した。そして、力を込めるとその腕がサンドバッグに一気にめり込んだ。


[ブチブチブチブチ……]


 サンドバッグの上部と下部の皮が裂け、中から砂が流れ出した。


「関節などじゃなくても良い。捕まえたその場所を潰せば良いのだ」


 頭から砂をかけられたベルトルドは、床を這って逃げ出した。そこでようやく親父の顔が俺に向き、声をかけてきた。


「和海ちゃーん! いじめてきたのはだぁれ? この空っぽになったサンドバッグに詰めて山に捨てに行こうねぇ!」


 にこやかに話しかけられた俺が室内を見回すと、外国人格闘家達は全員壁に額を押し付けて後ろ向きに立っている。チャンピオンベルトルドも床にうつ伏せになって、万歳をしたままピクリとも動かず死んだふりをしているみたいだ。


「え……えーっと……」


 俺は、最初に俺に触ってきた白い巨神兵のセイムと、俺の服を破った黒き野獣のビアンキをつい見てしまった。それに気が付いた親父は、目を爛々と輝かせてセイムに近づいていく。


「マッテ! ホンのジョークネ! ビアンキ! ウェイクアップ!」


 心細くなったのか、セイムは先ほどから気を失っているビアンキの体を起こして頬を叩き始めた。



「何をしているっ!」


 そこで、いつ来たのか、開け放たれた扉の外でいかついおっさんが大声を出した。ようやくの日本人だ。身長は少し親父より小さいかもしれないが、腕は親父より太いだろう。


半袖のYシャツにネクタイを締めたこの人は、開会式の時に俺に尻を蹴飛ばさせたおっさんだ。要するに、やっと館長のお出ましって訳だ。


「チャンピオン! いつまで遊んでいる! もうすぐ試合だぞっ!」


 館長に名前を呼ばれたベルトルドは、死んだふりをやめて、親父に気づかれないようにその後ろで静かに起き上がった。しかしさすが虎殺しの館長。未だにチャンピオンよりも強いかのような威厳だ。


「あんたは誰だっ! ここへは部外者は立ち入り禁止だ! おい、誰でも良いからこの人を摘まみ出せ!」


 館長は控室内に響き渡るような大声で言った。しかし外国人格闘家達は、急に口笛を吹いたり、ストレッチを行ったり、枝毛を探し始めた。


「おい! 聞いているのか!」


「ワタシ日本語ヨクワカラナイ」


 館長に指差された選手はそう言ったが、即座に返答している事からして絶対理解してる気がするんだが……。


「だ…誰だっ! 私のサンドバッグを壊したのは! これは特注製だから、めったな事ではこんな事にはならない!」


 虎殺し館長こと、(いの)(また)()()(ろう)はズタボロで床に転がっているサンドバッグを見ながら肩を震わせている。


「私が全力で蹴っても殆ど動かないこのサンドバッグを、お前たちは面白半分で吊り下がって壊したなっ!」


「…………」


 外国人格闘家達は、唾を飲み込みながら視線だけを親父に向けた。そんな選手たちの様子に気が付いた館長は、親父の前に立つ。


「あんたが壊したのか? どこの所属だ? プロレス団体か? 空手か?」


 そう問われている親父は、なぜかあごに手を当てながら首を傾げて館長を見ている。


「んんっ?」


 館長の方も、急に眉をひそめて親父の顔をじっと見始めた。そんな二人の様子を、皆固唾をのんで見守る。


「お前、猪俣(いのまた)……太郎(たろう)か?」


 ポツリと親父がそんな言葉を口に出すと、それを聞いた館長の目が大きく開かれた。そして、すぐに顔が青くなる。


「お……お前は……まさか……ダイダラボッチ……神野(じんの)……」 


 館長は目にも止まらないスピードで後ろに下がると壁に背をついた。その館長を見ながら、親父は懐かしい物をように目を細めて言った。


「青沼高校番長の猪俣太郎先輩じゃないですか」


 親父の学生時代の知り合いなのか? 親父は確か九州の学校を全て勢力下にしたって言っていたから、その時のライバルの一人なのか?


「どうしてわしとずっと戦ってくれず、卒業と同時に東京へ行ってしまわれたのですか?」


「な…な…な…な…な…」


 館長は顎が震えて言葉になっていないようだ。


 ……待てよ、館長は親父と戦うのを避けていたって話だが、館長の年齢って雑誌には48歳って書いてあったよな。親父は43歳だ。五歳の差。つまり、高校三年の館長は、中学一年の親父との戦いを嫌がっていた? ……って事か?


「確か、開会式では猪俣(いのまた)太郎(たろう)では無く、猪俣(いのまた)()太郎(たろう)と名乗っておられませんでしたか? どこかで聞いた名前だなとは思っておりましたが……」


「と…と…虎だっ!」


「はい?」


「虎を倒したから、名前にその文字を一文字入れたのだっ! 私は虎を倒す程まで強くなった!」


 館長は歯を食いしばると、ようやく親父に向かって言った。しかし、目はなぜか親父には向けられずに泳いでいるが。


「もう私はプロだ! プロの格闘家だっ! お前みたいな素人とは戦ってやらん! 怪我をさせたら……も……問題になるからなっ! み……見てろっ!」


 そう言うと館長は、腰の横に拳を置いて空手のような構えをし、呼吸を整え始めた。


「せいやっ!」


[ボコンッ!]


 館長が隣にあったロッカーに横蹴りを食らわせると、そのロッカーの側面が大きくひしゃげた。さすがに中々の威力だ。一つのロッカーが完全に破壊されて使い物にならなくなった。


「わしは別に構いませんが」


 親父の方は、袖を巻くって二の腕と肘を見せた。そして、そのロッカーの前に行くと、おもむろに腕を振った。


[グワシャシャシャシャ……]


 横に並んでいた四つのロッカーが、一つのスペースに圧縮された。もう、ぐちゃって感じだ。扉どころかロッカーの原型が無い。車の解体場に置いてある鉄くずみたいになった。


「まあ、わしの目的は子供をいじめたと言う選手を一人頂いて帰ろうかと言う事ですしな。特に猪俣君と遊ぼうと思って来た訳では無いので…」


 そこで館長の目は俺に向いた。一瞬で頭からつま先までを往復する。先ほどまで制服姿だった俺が、なぜかジャージを着ている事で何かあった事を悟ったようだった。


「もっ…もうし訳ありませんでした! うちの選手達がっ!」


 館長は飛び上がると、空中で正座の姿勢になって、そのまま地面に着地をすると同時に床に額を擦り付けた。すげぇ……ジャンピング土下座だ……。


「ダイダラ…、神野君のお子様だとは知らずっ! ここはご容赦を! 平に……平に……」


「ほう……懐かしい。わしに服従する証のその土下座方法を覚えていたとは……」


 三十年前の九州に生まれなくて良かった。俺は心底そう思った。




「お父さん! 探したわよ! 変な通路に入って行ったと思ったら、いつまで油売ってんのよっ! 早く家に帰らなきゃ、韓流ドラマ始まっちゃうでしょ!」


 また聞き覚えのある声が聞こえたと思ったら、扉の所に腕組みをした母さんが立っていた。


「あら和海、その子はいつも一緒にいる美形君じゃないの。和海をよろしくねー」


 母さんは俺の隣にいる畑中に頭を下げて言った。


「母さん、だからこの人は超有名なアイドルで……」


「若い子なんてみんな同じ顔に見えて覚えられないわよ! 日本人なら、やっぱり阿部寛ね! 早く一緒に仕事出来るようになりなさい!」


 俺にそう言った後、親父の傍へ行こうとした母さんに向かって、外国人格闘家の一人がつぶやいた。


「OH、ビューティフルガール……」


 それをつぶさに耳で拾った母さんは、頬に手を当てて身をよじる。


「まあ、ガールだなんて……」


「38歳にもなってガールな訳無いだろ。早く親父を連れて帰ってくれよ」


「年齢をばらすんじゃないわよ! 和海!」


 その俺と母さんのやり取りを聞いた先ほどの外国人格闘家は、さらに小さな声でつぶやいた。


「38(サーティーエイト)? ジーザス。オバハンね……」


「あぁっ!? 誰がおばさんだってぇ!」


 表情を変えた母さんは、その格闘家の前に立った。母さんはこの歳になっても『お姉さん』て呼ばれたい面倒くさい種類の人間なんだ。



 母さんの手が動いたと思ったら、格闘家の目がうつろになった。恐らく、母さんの指が格闘家の頸動脈を一瞬だけ押さえて、脳への血流を少し止めたのだ。堰を切ったように流れ始めた血流により、脳の血圧が一時的に上昇して意識が飛ぶ。ちなみにその時の母さんの手の動きは俺の目では追えない。


 時間にして一秒間の空白の時を得た母さんは、格闘家の膝の裏を蹴った。糸が切れた操り人形のように膝を床に付けた格闘家の髪の毛を母さんは掴む。格闘家の頭が床に向かって下げられると同時に、母さんの膝がすさまじい勢いで格闘家の顔へ跳ね上がった。


「次……は無いわよ」


 母さんの膝は格闘家の鼻先で止められていた。その時になってようやく意識がはっきりした様子だった格闘家だったが、さすがにプロ格闘家なので、事態がすぐに飲み込めたようだった。


「イエス……サー……」


 母さんは手を放してパンパンと払うと、親父の傍へ行ってその耳を掴んだ。


「早く! ドラマ始まっちゃうでしょ!」


「だから母さん、どうせブルーレイの最高画質で録画しているのに……」


「またその話をする気ぃ? 次は『(ひぐま)落し』をかけるって、私言ったわよねぇ?」


「待ってくれ! あの技だけは勘弁してくれっ! 和海ちゃん、気を付けて帰ってくるんだよっ!」


 親父は、耳を掴まれたままヨタヨタと歩いて母さんと出て行った。さすが女子高生の頃、ヒグマ狩りが趣味だった北海道の妖精(自称、実際はUMA(未確認動物)と呼ばれていた)だけあるな……。



 静まり返っていた控室内だったが、そこでようやく猪俣館長が顔を上げた。


「さぁ! メインイベントだ! ベルトルドは早く用意しろ!」


 そして立ち上がると、俺と畑中の前に来る。


「君達は小次郎と撮影だね! 少し離れた別室にいるから、そこで軽い取材と写真を……。えっと、君の制服は……」


 俺は破られて床に雑巾のように転がっているTシャツとYシャツを指差した。


「もっ……申し訳ないっ!」


 そこで俺と畑中は、もう一度目の前でジャンピング土下座を見せられた。


「いや……別に良いっすよ。むしろ、親父の方がこの部屋で暴れて帰ったし……」


 破壊された特注サンドバッグ、鉄くずと化したロッカー。恐らく百万円以上の物品を壊していったんじゃないだろうか……?


「いや、全面的にこちらが悪い! もう何があろうとこっちが悪い! しかし、制服は後で弁償するとしても……、今着る制服が無い。替えのシャツとかは……持ってないよね?」


 俺は首を横に振り、畑中も持ってきていないようで同じように首を振る。工藤君も当然持ってきていないだろう。


「あの……別にこのジャージで良くないっすか? 小次郎選手からプレゼントされたとか言ったら……?」


「それだっ! さすがあの神野君のお子さん!」


 猪俣館長は、俺に向かって全力で拍手をして褒め称えてきた。本当にこの人、虎を狩った人なのか? 俺の周りでは、なぜか最初の印象から180度キャラが変わる人が多い気がするぜ……。



 かなり時間が迫っていると言う事で(当たり前だが)、俺達は駆け足で小次郎の控室へ行って仕事をこなした。


 そして、ジャージ姿で試合会場に戻ると、だぶだぶのジャージを着ている俺に向かって「かわいいー」といくつも声援が飛んできた。


 そんな中、俺と畑中が放送席横にある元の席に座ると、ぐったりとした様子で工藤君が俺達を恨めしそうな目で見てくる。


「勘弁してくれよ……。用意していた(わる)の武勇伝がとっくに底をついちゃって、最後は『犬に意味も無く吠えられるほど俺は(わる)だ』って、訳の分からない事まで言っちゃったんだから……」


「そっ……それは……ご愁傷様……」


「兄弟に喧嘩で勝ったとかはどうだ?」


 そう畑中が言うと、工藤君は首を振る。


「そんなの、中盤に話したよ」


 俺達が大笑いを始めた所で、メインイベンターである小次郎の名前がリングに上に立っているスーツの人によって呼ばれた。強烈な照明を当てられ、バラード調の音楽と共に小次郎が出てくる。そして次にチャンピオンのベルトルドが呼ばれる。照明が当てられ、ロックミュージックにのってベルトルドが現れた。


「あれ……。ベルトルドって、少し元気が無いんじゃない?」


 観客を代表したように工藤君がそう言うと、俺と畑中は苦笑いをして顔を見合わせる。


 

 そして試合が始まり、2ラウンド目にして新チャンピオンが誕生した。恐らく原因は……俺と畑中を含めた一部の人間しか知らないだろう。


 会場は初の日本人チャンプに沸く。


「すごいね! 日本人が最強になっちゃったね!」


 興奮している様子の工藤君の横で、畑中がぽつりと言う。


「確かに……日本人が最強だ。なあ、神野」


「そうだな。やはり奴が……人類最強だった……」



 もちろんそれは、今頃居間でドラマが始まる10分前からスタンバッている母さんの横で、煎餅をむしゃむしゃと食べているだろう……あいつだ。


 ……または母さんかもしれないけどな。



 そしてこの件を境に俺と畑中は仲良くなり、メールをたまに交換する程になった。






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