第4話 「ドラマも急展開」
ドラマの撮影は夕方から行われる事が多かった。なぜなら、生徒役には俺もそうだが、現役の高校生俳優が多く含まれているからだと言う。昔は二十代の俳優を使う場合が殆どだったそうだが、最近はリアリティを重視し、十代の俳優と、十代に見える歳の近い俳優を揃えているらしい。
そりゃそうだよな。普通、新人の俺が人気ドラマに早々出られるはずがない。年齢の有利さからねじ込むことが出来たようだった。
と、言っても、教室に用意された俺の席は、右の列の後方。カメラは先生を左に生徒を右にして、手前から映すので、俺は奥に座っている生徒と言う事になり、まあ顔がはっきり映るかどうかも怪しい。現実はこんなもんだと思っていたのだが、それは結構な間違いだったようだった。
当然一人ひとり楽屋が用意されていない俺達は、全員大きな控え室に押し込められていた。男子校と言う設定で、一クラス分用意された男達は20人だ。これが主人公である極悪先生が受け持つクラスとなる。その他の顔も名前も必要の無い他のクラスの生徒は、エキストラの高校生役を雇うらしい。
俺以外の奴らは、ヤンキーっぽい見た目の奴も含めて緊張した面持ちだった。しかし、なぜか全員親しげに話をしているので、超リラックスしている俺は奴らのその会話を少し聞いてみた。すると、こいつらはオーディションを潜り抜けて来た奴らで、どうもその時に皆多少仲良くなったらしい。
(オーディション無しでドラマに出ている俺って……ひょっとしてシード選手?)
つまり、そう言う事だった。おそらく、人気ファッション雑誌『CUTE』の力なのだろう。
「君……男なの? 失礼ながら、女の子に見えるね」
そんな丁寧な口調で俺に話しかけてきた奴は、髪が金髪でパーマ、眉が半分しか無い。人は見た目に寄らないって次元を、芸能界は超越しているようだ。
「一応男だぜ。……でも、かわいい系で売るらしくてさ、少し顔に化粧をさせられているんだよ。変だろ?」
「いや、事務所の方針でしょ? この世界はいろいろあるから、全然おかしい事なんて無いよ。むしろ、進むべき方向が決まっていて、羨ましいくらいさ」
こいつとは友達になれるかもしれない。見た目は完全にいじめっ子だが、正也の100倍まともな奴だ。そう思える見た目はヤンキー、中身は紳士なこの男の名は、工藤勇樹と言うらしい。本名は『工藤勇』で、ちょっと古臭いだろと俺に白い歯を見せた。まったく好感の持てる奴だ。
「君、オーディションでは見なかった気がするね? 僕の勘違いかな?」
「いや、俺は出てないんだ。少し『CUTE』の仕事をしただけでさ、そっち方面から推薦みたいなので入ったのかも。あんた達には申し訳ないな」
「『CUTE』? ……の一押しの男子って、もしかして……神野和海君?」
「うにゃ? 知ってた?」
「そりゃ知っているよ! この世界、色んな方向にアンテナを張ってないとね! ……でも、写真とは結構違って見えるね。気が付かなかったよ……」
工藤君は、俺の顔を見ながら首を捻った。そりゃそうだ。雑誌に載っていたのは男の時の俺の姿。男の時と今の俺だと、血縁関係は感じるだろうが、良く似た兄弟くらいの違いがある。もし並べて見たなら、同一人物だと思える人の方が珍しいだろう。
「あー。俺はやだって言ったんだよ。でもさぁ……」
「あはは。修正だよね。このデジタル時代、そんなの当たり前。誰でもやっているから気にしなくて良いよ」
俺の言いたかった事を先に言った工藤君は、完全に納得してくれた顔だ。みんなそんなに修正入れていたのか……。今度千夏達に教えてやろっと。
「僕は、本当の学園は三年なんだ。えっと……神野君は……」
工藤君は言葉を切ると、俺の小柄な体を眺める。一応、背が高くなる靴を履いているが、座高と華奢な体は隠すには限界がある。
「あ、工藤君は先輩かぁ。一応、俺は二年です。年下なんで、和海って呼んでもらっていっすよ」
「そうか、和海君よろしくね」
工藤君は、この日本では珍しく握手を俺に求めてきた。もちろんそれに俺は応じる。まあ、なんて気持ちの良い男なんでしょう。今度、久美にでも紹介してやるかな? ……眉は半分ないけど。
俺達がお互いの手を握り合っていたとき、控え室のドアが開いて、俺達と同じ制服を着た男が入ってきた。後ろにはスーツ姿の男性を二人従えている。
「…………」
その、髪が肩まで届きそうなロン毛の男は、何も言わずに控え室を見回した。
「彼は畑中楽斗。皆さんこれからよろしくね!」
「……ちっす」
スーツの男性の一人が挨拶をすると、その畑中と言う奴は間違い探しの間違いくらいの小さな動きで頭をさげた。すぐにプイッと顔を逸らし、そのまま部屋を出て行く。その間、僅か10秒程だった。
俺は何事かと、どんな事態かと、工藤君に聞いてみた。
「あの人知らないの? 和海君」
「俺、あんまテレビ見ないんっすよ。ネタ番組と洋画くらいしか」
ちなみに、洋画好きなのは千夏で、俺はそれに付き合わされて見ているだけだ。
「彼はさっきマネージャーの人が言った通り、畑中楽斗さん。ジーニーズ事務所の売り出し中グループ、STORMのメンバーの一人じゃないか。このドラマの重要な役をもらっている人だよ」
『極悪先生』の主役は男の俳優さんだ。その他のキャストは、教頭や校長を含む先生方。そして生徒。その生徒達の中には主役と絡む有名なアイドルや俳優がいるらしい。その一人が先ほどの畑中って奴だそうだ。
ちなみに、工藤さんはそのアイドルの取り巻きの一人と言う役どころらしい。ただのクラスメートの俺よりぐっと良い位置にいる。演技も勉強してオーディションも通過して来た人なので、もちろん俺はまったく悔しく無い。頑張って有名な俳優さんになってもらいたいくらいだ。
しかし、先ほどの畑中楽斗の礼を欠いた態度は気に食わない。その後、畑中と同じような役どころの俳優さんが控え室に訪ねて来てくれたが、皆とりあえず笑顔は作って俺達に挨拶をしてくれた。
ドラマの本番が始まった。俺は、主役達の演技そっちのけでリハーサルの時と同じく『クレーンカメラ』に視線を追尾させる。いやぁ、すごいもんだな、あの動き。ちょっとしたアトラクションのようだ。一度あれに乗せて貰えないだろうかって思う。ダイナミックに左から右に動いたりする所は、でっかいロボットの腕をみたいだ。
もちろん演技の事も忘れてはいない。極悪先生と畑中楽斗が対立して、教卓の前で掴みあいになった瞬間に俺は周りの生徒と同じように立ち上がる。はい、カット……って訳。簡単だね。一応、役の名前はあるが、エキストラと変わらない俺の役割はこんなもんだ。
「じゃあ、揉み合いのシーンに入りまーす」
スタッフの人の声を合図に俺も位置を変える。さっきの極悪先生と畑中の騒ぎを皮切りに、クラス全員で揉み合ってしっちゃかめっちゃかになるってシーンだ。
「……っ?」
その時、俺の本能が反応した。教室の奴らの視線が時折俺に鋭く向けられている。もしかして、騒ぎに紛れて新人の俺に制裁でも加えるつもりか? カメラが回っていると言うのに、気が付かれずにそんな事が出来るものだろうか?
しかし、周りの奴らはそれほど売れてない奴らばかりだとは言え、そこそこに撮影の経験を積んできているはずだ。……油断は出来ない。
カチンコがなったと同時に、俺のようなエキストラ俳優は輪の外側から押す。それを上のクレーンカメラが左右に動きながら撮っているようだ。
突然、俺の体が動かなくなった。自分の様子を見ると、両腕を押さえつけるように、体ごと後ろの奴が腕を回して締め上げてきている。もがいていると、隣の奴と目が合った。一人が動けなくして、もう一人が止めを刺してくる気か?
―ドンッ!―
即座に俺は解放された。その目が合った隣の奴が、俺の後ろの奴を体当たりで突き飛ばしたのだ。
……と、思ったら、今度はそいつが俺の背中に片腕を回し、恋人のように寄り添ってくる。なんだこいつ……と睨みつけようと思ったら、更に俺の腰にタックルをしてくるかのように両腕を巻きつけて、ぐいぐいと後ろから押してくる奴がいる。そいつの頭は、俺の腰の横にぴったりとくっついている。
「まっ……まさか……」
気が付けば、揉み合いの中心が俺へと変わっていた。極悪先生と畑中は、慌てた様子で俺のそばに割り込んでくる。
「ひ……っ!」
ウェストに回っている腕が、段々と上にのぼってくる。あと数センチで、さらしを巻いているとは言え、下乳を触られる。
「てめぇらっ! 調子に乗ってんじゃねーぞっ!」
そんなセリフは当然あるはずがない。しかし、俺は叫ぶと後ろの奴に肘を食らわせる。その俺の体の正面に開いた隙間に割り込んできた奴が、前から堂々と俺を抱きしめようとしてきた。そいつの肝臓の位置に、俺は拳を下から突き上げるように叩き込む。
――早い話が、いつの間にか学園格闘ドラマになっていた。
「っの野郎ぅ!」
一人二人と、周りの机と人を巻き込んで脱落していく。完全に切れた俺が目の前にいる畑中を叩きのめすと、教室で立っているのは極悪先生と俺だけになっていた。
「…………」
「…………」
俺と先生は無言で見つめ合う。その時になって、ようやく俺の汗は冷たい物となって背中を流れた。
(カットだろ? NGだろ……これって……)
NGの言葉で収まるのか自信は無いが、とりあえず撮影は中断して……俺を首にして再開するはずだ。ドラマの仕事でいきなりこんな事をやらかした俺……、干されちゃうのか?
もうカメラが止まっていると思った俺は、力を抜いて両腕を下ろした。
「そうだっ! その元気を見せて欲しかったんだっ!」
そんな俺を極悪先生は抱きしめてきた。台本には無かったセリフを言いながら……?
「自分を信じろ! こんなクラスで一番弱そうな子でも、眠っている力があるんだっ!」
これがアドリブってやつだろうか? 先生は更に腕に力を入れてくる。
「――――っ!」
抱きしめられ、体を仰け反らせていた俺は気が付いた。俺の背中に回っている極悪先生の腕がいつの間にか下がり、片方の手で俺の尻を撫でている。
「っの、死ねっ!」
俺は万歳のように両腕を上げて極悪先生の腕を弾き飛ばすと、両手で首を掴み、思いっきりジャンプして膝をみぞおちに叩き込んだ。
白目を剥いて崩れた極悪先生を見ながら俺はつぶやいた。
「アイム、チャンピオン……」
当然そこで「カット!」と言う声がスタジオに響いた。
撮影は一旦中断となり、俺達は控え室に戻された。一人荷物をまとめて帰り支度を始めた俺に、金髪の工藤君が話しかけてきた。
「何がどうなったんだろ? 僕は気が付いたら教室の床に倒れていたんだけど……? 最後まで立っていた和海君は分かる?」
「俺の周りではいつもの事っす。俺はトラブルメーカーですから……」
帰ろうかと控え室の扉に視線を送った所、それが開いて俺のマネージャーの穂乃花さんが顔を出した。俺を見つけると、手招きをしてくる。
廊下に出ると、穂乃花さんは少し困ったような顔をして俺を見ている。ショートケーキとチーズケーキで迷っているって事じゃないことだけは確かだ。
「極悪先生役の、尾上さんが怒ってるみたいでぇ……」
尾上武。さすがの俺も聞き及んでいるドラマの主役を張れるほど有名な俳優だ。これまで何本かのヒットさせた主演ドラマを持っている。歳は確か30歳過ぎくらいで、今が一番俳優として油がのっていると言える頃だろう。顔は、パッチリ二重で、少し日本人離れした濃い顔だ。今回の極悪先生もそうだが、大抵元気のある役どころをもらっている。
「何で俺が……」
そう口に出しては見たものの、穂乃花さんや事務所の人に迷惑がかからないように、やはり謝りに行かなければいけないだろう。高校二年生にして、俺は社会の厳しさを学ぶ。尻を触ってきたのはあいつだってのに……。学校へ行ったら『エロ俳優』だって話を広めてやるのが俺のささやかな抵抗だな。
畑中の野郎の楽屋を通り過ぎ、一番奥の部屋が尾上武の楽屋のようだった。プラスチックプレートに書いてある名前を確認すると穂乃花さんが先に入っていく。
一応穂乃花さんがノックをしたはずだが、わめき散らしている尾上は気が付いていないようだった。隣にいる奴のマネージャーらしきスーツの人が、俺と穂乃花さんを見つけると、小さなため息をついて見せてくれた。それに気が付いた尾上は、俺の姿を見つけてつかつかと歩いてくる。
「よくも主役の俺に対して、無名に毛が生えた程度の奴が蹴りを…」
「ごめんなさい」
俺の事務所の人達のために、俺は尾上の目を真っ直ぐに見上げながらそう言った。
そんな俺の顔を、棘が取れた顔でぼんやりと眺めているような感じに見えた尾上だったが、急に顔をボンッと赤くして横を向いた。そして横目で俺の顔や体にチラチラと視線を送ってくる。
「君、名前は?」
「神野和海ですけど……」
「……そうか。うん、良い蹴りしてたっ! これからもあんな感じで頼むよっ! むしろ、どんどん蹴ってくれ! 特に、次は腹じゃなくて、ケツだっ! お尻をガンガン蹴ってくれっ!」
頬を赤くした尾上は、俺の両肩を押さえながら興奮した様子で言ってくる。微妙な表情をしている彼のマネージャーを見ながら、俺は首を縦に振った。
「さぁ! 撮影の続きをするぞっ! 和海君も早く来なさいっ!」
運動会の時の行進のように、尾上は両手を元気よく振りながら楽屋を出て行った。その後ろを追ったマネージャーが俺の隣で脚を止めると、「尾上にMっ気がある事は内緒にしておいてね」と囁いて、また走って行った。
「……えと」
俺が穂乃花さんの顔を見ると、彼女は、
「私達も撮影に戻りましょう」
と、何の問題も起きていなかったかのように俺に言う。
「Mっ気の話、ツイッターでつぶやいちゃ駄目ですよ、穂乃花さん」
俺がそう言うと、穂乃花さんは首を傾げた。どうも話の内容が良く分かっていなかったようなので、これ以上穂乃花さんへ詳しく説明するのはやめておこう。
それから『極悪先生』の撮影はガンガン進んだ。ちなみに、『ガンガン』と言うのは、快調に進んでいる様子では無く、俺が極悪先生の尻を蹴る音だ。
極悪な先生が、極悪なやり方で生徒達を育てて行くと言うストーリーから、極悪な先生が極悪なやり方でも生徒達が従わない事で自信をなくした時、俺が蹴飛ばして自信を取り戻させるストーリーパターンに変更だという。
次回までに脚本も書き直してくると言うから、主役の尾上と監督の熱意は相当なものだ。
これは後で聞く話なのだが、かなりこのドラマは偏ってはいるが強い人気を博し、ネット世界では高名な作品になったと言う。
ドラマの放送が始まると、あの人気俳優である尾上の尻を蹴飛ばす新人俳優として、俺は世間を騒がせる事となった。蹴られている時の尾上の不満などを一切感じさせない至福の表情から、俺は大物俳優の二世では無いかと言う噂も立ったが、ただの無敵超人の息子である。
この頃には、当然俺のバイトの事は学校中に知れ渡っていた。ファッション雑誌のモデルだけやっていた時は一部の女子だけが気が付いていたそうだが、全国ネットのドラマに出ては見つかるのは仕方が無い。
男から女へと、容姿が変わった事については皆気が付かない。当然だ。ほんの二ヶ月前の姿に戻っただけだから。この学校に入学して、男の姿でいたのは二ヶ月ちょっと。あとの十ヶ月程は女の姿で俺は過ごしていた訳だから、皆は「そうだったよな。こんなだったよな」と言いながら、短かった男の俺の姿を記憶から消去した。
「和美君、昨日の放送でも良い蹴りっぷりしてたよねー」
思い出したかのように吹き出しながら言う久美に、俺も尾上に言われた事を思い出しながら答える。
「尾上の奴さ、どんどん要求が激しくなるんだよ。最近では全力で蹴っても、足りないとか言ってきやがる。次は、つま先に鉄が入っている工事現場用の安全靴を履いて蹴ってみようかと思ってるんだ」
昼休みに飯を食った後、俺、千夏、久美の三人で井戸端会議をしていた。ちなみに、ノートを写すのはもう諦めた。今は全部コピーして千夏からもらっている。
「今日はドラマの撮影無いの? 和海クン」
「ドラマは無いんだけどさ、夕方から番宣があるんだ」
ドラマではクラスの目立たない生徒って位置だった俺だが、主役を蹴飛ばす役になった今はそうはいかない。今日の晩は総合格闘技の試合のゲストとして、間中と一緒に呼ばれている。
この前の女子バレーボールは良かったが、格闘技だと血が騒いで、可愛い系で売っている俺の俳優としてのイメージを壊さないか心配だぜ。
「そう言えばさ、私達も『CUTE』に載せてもらえる事になったのよっ! 正也も松尾もよっ! せっかく南条さんが千夏もって言ってくれたのに、千夏は断っちゃったけど……」
「だって、恥ずかしいもん……」
俺はそれを聞いてほっとした。千夏はあまり人目に触れて欲しくない。信じているが、やはり心配になってしまう。
聞くと、マジ読者モデルらしい。普通、読者モデルとか言いながら、雑誌と専属契約を結んでいたり、事務所に所属していたりするみたいだが、こいつらは正真正銘読者モデルだ。いや、久美は読者モデルだが、正也と松尾にいたっては、『読者でもないモデル』と言う前代未聞な奴らと呼べる。
ん? 正也と松尾はこの場にいないのかって? 二人なら先ほど奴らの希望通りに思いっきり尻を蹴飛ばしてやったから、今は自分の席に座って至福の表情をしながら気を失っているところだ。
「まあ、載ったら教えてくれよ。見たいから」
俺がそう言うと、久美は意外そうな顔をした。
「あれっ? 和海君と一緒に撮る特集もあるって南条さんから聞いてるよ。和海君は知らないの?」
「えっ? そうなのか? スケジュールは穂乃花さんに任せているから、俺がまだ聞いて無いって事はもう少し先になる撮影って事だな」
「わー。和海君、もうすっかり業界人って感じね」
久美が力の抜けた顔でそんな事を言うと、心配したのか千夏が机の下で俺の手を握ってきた。俺はそれを強く握り返す事で答える。
――大丈夫だって。千夏と結婚すると同時に引退するから
それは、もうすでに千夏には伝えている事だ。芸能界なんてそれまでの腰掛。俺は、千夏と幸せな家庭を作り、爺さんになっても千夏と手をつなぐんだ。
しかし、その時俺の頭を何かの映像がよぎった。
赤茶色に統一された部屋で、俺は一人大きなベッドに横になっている。抜け殻の自分。大きな後悔。目を覚ました俺はベッドを出て、和室へ向かう。そこには……
「和海クンっ!」
「へっ?」
とっさに呼ばれた方向を見ると、千夏の可愛い顔が見えた。
「今日もお仕事頑張ってね!」
「お……おお、もちろん!」
頭に浮かんでいた映像は消え去った。
今月は入った給料で千夏に何か買ってあげようかな。でも、千夏って医者の娘で金持ちだから、物は欲しがらないんだよな。じゃあ、二人で旅行でも行って……、静かな旅館で一泊を……。
疲れのためか、そんな妄想に浸る事が最近多くなった俺だが、現実は休日など無いのである。