♯3転校生とトラウマ
人は、忘れたつもりの過去と再会するとき、
思っているより簡単に立ち止まってしまう。
それが名前だったのか、
視線だったのか、
それとも、触れられなかった手だったのか。
この朝、教室にやってきたのは、ただの転校生。
――そう思っていた。
けれどそれは、
確かに置き去りにしたはずの時間を、
もう一度、呼び戻す出来事だった。
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第3話 転校生
朝の教室は、いつもより少しだけ落ち着かない空気に包まれていた。
「今日、転校生来るんだって」 「女子らしいよ」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
心音は窓際の席で、ノートも開かずに外を眺めていた。校庭を吹き抜ける風が、木の枝を揺らしている。
(……転校生、か)
昨日の体育館で見た遥の背中が、ふと脳裏をよぎる。胸の奥に残った、説明できないざわめき。
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。
「静かに。今日は新しいクラスメイトを紹介する」
教室の扉が開く。
「入ってきて」
視線が一斉に集まった。
入ってきたのは、肩にかからない長さの黒髪の少女だった。背筋を伸ばして立つ姿は落ち着いていて、けれどどこか緊張も滲んでいる。
「……今日からこのクラスに転校してきました。白石 透です。よろしくお願いします」
短く頭を下げると、小さなどよめきが起こった。
心音は、なぜか目を逸らせなかった。
(……静かな子)
「白石、席は……齋藤の隣が空いてるな。そこに座って」
「はい」
透はそう答えて、心音の隣の席に来た。
「よろしく」
「あ、うん。よろしくね」
近くで見ると、思っていたよりも柔らかい表情をしている。クールというより、感情を奥にしまっているような——そんな印象だった。
ホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなる。透の周りにはすぐに人が集まり、質問が飛び交った。
その様子を横目に見ながら、心音はぼんやりとしていた。
——そのとき。
「転校生、見に来た」
教室の後ろから、聞き慣れた声がした。
振り向くと、綾瀬 遥がドア枠にもたれるように立っている。軽い調子のはずなのに、どこかぎこちない。
「なにしに来たの」
思ったより素っ気ない声が出た。
「ひど。気になるじゃん、普通」
そう言って、遥の視線が教室の中をなぞる。
——そして、止まった。
透と、目が合った瞬間。
空気が、一拍遅れて凍りついた気がした。
「……透?」
遥の口から、低く名前が零れる。
透の肩が、びくりと揺れた。
「……遥?」
かすれた声。驚きと動揺が、隠しきれずに滲んでいる。
心音の心臓が、嫌な音を立てた。
(……知り合い?)
遥は一瞬だけ目を見開き、すぐに表情を作り直す。
「まだ引きずってるの?」
突き放すような声音だった。
「……もういいよ。別に、なんとも思ってない」
そう言って、踵を返す。
「待って」
透が一歩踏み出し、遥の手首を掴んだ。
教室のざわめきが、遠くなる。
遥の動きが止まった。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、呼吸が乱れるのが見えた。
「……触んな」
低く、押し殺した声。
遥は透の手を振り払い、振り返らずに走り去っていった。
教室に、重たい沈黙が落ちる。
透はその場に立ち尽くし、掴んだままになっていた自分の手を、ゆっくりと下ろした。
心音は、何も言えずにその背中を見つめていた。
(……私の知らない遥が、いる)
胸の奥が、ひり、と痛んだ。
転校生が来ただけのはずの朝は、いつの間にか——戻れない一歩を踏み出していた。
◇
その後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
遥が走り去ったあと、担任が慌てて教室に戻ってきて何事もなかったかのように授業は再開されたけれど、空気だけは元に戻らなかった。
心音は何度も、遥が立っていた教室の後ろを見てしまう。
(……追いかけた方が、よかったのかな)
でも、あのときの遥の表情を思い出すと、足がすくんだ。近づいてはいけないものに、うっかり触れてしまったような感覚。
隣の席では、透がじっと前を向いたまま、ほとんど身動きしていなかった。
ノートは開いているのに、ペンは進んでいない。
心音は、声をかけるべきか迷って、結局何も言えなかった。
昼休み。
教室の外はいつも通り騒がしいのに、この席だけが切り取られたみたいに静かだった。
「……さっきの人」
透が、ぽつりと呟いた。
心音は、びくりと肩を揺らす。
「え?」
「綾瀬くん。……昔の知り合い」
それ以上、透は続けなかった。
「そ、そうなんだ」
心音も、それ以上踏み込めなかった。
聞いてはいけない気がした。
沈黙が、二人の間に落ちる。
「……ごめん」
しばらくして、透が小さく言った。
「迷惑、かけたよね」
「え? ううん、そんなこと……」
慌てて否定する。
でも、言葉は途中で途切れた。
迷惑なんかじゃない。ただ——胸が、痛かっただけだ。
放課後。
心音は校舎を出て、昇降口で立ち止まった。
遥の姿を探してしまう自分に気づいて、苦笑する。
(……なにしてるんだろ、私)
そのとき、少し離れたところで透が立っているのが見えた。
誰かを待っているようにも、迷っているようにも見える背中。
声をかけようとして、やめた。
代わりに、心音は空を見上げる。
夕焼けが、やけに赤かった。
放課後。
心音は校舎を出て、帰り道を一人で歩いていた。
頭の中では、何度も同じ場面が繰り返される。
名前を呼び合った二人。 掴まれた手。 そして——「触んな」という、遥の声。
(……考えすぎ、だよね)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥の違和感は消えてくれなかった。
角を曲がった先に、見慣れたコンビニの明かりが見える。
何となく、寄り道する気分になった。
自動ドアが開く音。 冷たい空気と一緒に、揚げ物の匂いが鼻をくすぐる。
ペットボトルを手に取って、レジへ向かおうとしたときだった。
見覚えのある後ろ姿が、目に入る。
黒いジャージ。少し猫背な立ち方。
(……綾瀬、くん?)
レジ前に立っていたのは、遥だった。
一瞬、声をかけるか迷う。
昼間のことが、頭をよぎる。
でも——
「……綾瀬くん」
気づいたら、名前を呼んでいた。
遥の肩が、わずかに揺れる。
ゆっくり振り返って、心音を見た。
「……齋藤」
いつもの無表情。でも、どこか疲れているように見えた。
「さっきは……大丈夫だった?」
探るような言い方になってしまう。
「別に」
短く、それだけ。
沈黙が落ちる。
レジの電子音が、やけに大きく聞こえた。
「……あの子」
心音は、思い切って口を開いた。
「白石さんと、知り合いなんでしょ」
遥は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻す。
「昔な」
それ以上は、言わなかった。
「そっか」
納得したふりをするしかなかった。
袋を受け取り、店の外に出る。
夕方の空は、少しだけ暗くなり始めていた。
「……じゃ」
遥が先に歩き出そうとする。
「待って」
心音は、今度は自分の意思で声を出した。
「私……綾瀬くんのこと、よく分からないけど」
言葉を探す。
「でも、ああいう顔するんだってことは……知っちゃった」
遥が、足を止める。
振り返らないまま、低く言った。
遥は、少しだけ黙ったまま立っていた。
逃げるように歩き出しかけて、でも——足を止める。
「……知らなくていい」
一度はそう言いかけて、遥は小さく息を吐いた。
「……いや」
コンビニの明かりの下で、遥はようやく振り返る。
「隠すほどのことでもないか」
心音は、思わず息を詰めた。
「白石とは、昔からの知り合いだよ」
淡々とした声。
「中学の頃、よく一緒にいた。……俺と、兄と」
「兄……?」
「誠也。俺の兄」
初めて聞く名前だった。
「白石はさ、昔、トラックに轢かれそうになって」
一瞬、言葉が詰まる。
「それを、兄が……助けた」
遥はそれ以上、具体的なことを言わなかった。
でも——
続きを想像するには、十分すぎた。
「白石は助かった。……兄は、戻ってこなかった」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
「……だから、今日みたいなのは、正直きつい」
遥は視線を逸らし、苦笑する。
「別に、白石が悪いわけじゃない。でも……近くにいると、どうしても思い出す」
心音は、何も言えなかった。
言葉を選ぶ余裕なんて、なかった。
「ごめん。こんな話、聞かせるつもりなかったんだけど」
遥はそう言って、ポケットに手を突っ込む。
「でも、ああいう顔見られたなら……言っといた方がいいかと思って」
短い沈黙。
「……ありがとう」
心音は、絞り出すように言った。
遥は少しだけ目を見開き、すぐに目を伏せる。
「礼言われるような話じゃない」
それだけ言って、今度こそ歩き出した。
夕暮れの中、その背中は少しだけ小さく見えた。
心音は立ち尽くしたまま、胸の奥に残った重みを抱えしめる。
(……知らなくてよかった、なんて思えない)
——この日から、三人の距離は、静かに、確実に歪み始めた。
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