♯2体育館に残る音
「まだ好きだ」と気づいてしまう時のほうが痛い。
変わらない日常の中で、
変わってしまった関係だけが、静かに胸を締めつける。
これは、振られた少女と、
まだ何も知らない少年と、
優しいまま距離を選んだ幼なじみの物語。
体育館に響くボールの音が、
それぞれの心を少しずつ、違う方向へ転がしていく。
体育館の扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
ボールが床を打つ乾いた音。
スニーカーが擦れる音と、短く飛び交う声。
心音は一歩だけ中に入って、思わず息を呑んだ。
――やっぱり、来なきゃよかったかな。
そう思ったのに、視線はもうコートの中央を追っていた。
練習試合の真っ最中。
その中で、すぐに見つけてしまう。
池田春。
見慣れた横顔。真剣な表情。
バスケをしている時の彼は、昔から変わらない。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「遥!」
春の声が体育館に響く。
呼ばれた先で、一人の男子が手を上げた。
背が高くて、動きに無駄がない。
春のパスを受け取ったその人は、流れるようにディフェンスを抜いて、軽く跳ぶ。
――速い。
ボールがリングを通り抜ける音が、やけに大きく聞こえた。
「ナイス、遥!」
誰かが叫ぶ。
春も短く頷いて、すぐに次のプレーへ戻った。
綾瀬遥。
春が信頼している、バスケ部のエース。
その名前を知っているだけなのに、昨日の出来事が頭をよぎる。
よろけた私に、差し出された手。
「大丈夫?」と、何でもないみたいに言った声。
思い出しただけで、心音は少し俯いた。
邪魔にならないように、コートの端へ下がる。
応援する勇気も、声をかける勇気もない。
ただ、見ているだけ。
その時だった。
ガンッ、という鈍い音。
視線を上げると、ボールが大きく弧を描いてコートの外へ飛んでくる。
「わっ」
避けきれず、足元に転がってきたボールを見下ろす。
「ごめん!」
誰かの声。
近づいてくる足音。
ボールを拾った男子が、心音の顔を見て少し目を丸くした。
「あれ?」
一瞬の間。
「あれ? 昨日の人じゃん」
心音の心臓が、どくんと跳ねた。
「……だ、大丈夫です」
声が震えそうになる。
「当たってない?」
「はい」
「そっか。よかった」
ほっとしたように言って、遥はボールを抱え直す。
「見に来てたんだ」
「……うん」
短く答えると、遥は少し考えるような顔をした。
「池田の?」
名前を出されて、胸が痛む。
「……幼なじみ」
笛の音が鳴る。
その直前、聞き慣れた声がした。
「遥」
振り向くと、春がコートの外に出てきていた。
「どうした?」
「ボールが外行っただけ」
遥はそう言ってボールを返す。
春の視線が、心音に向いた。
「……心音?」
「……春」
一瞬、空気が止まる。
「来てたんだ」
「……たまたま」
嘘だったけど、本当のことを言う勇気はなかった。
気まずい沈黙。
「昨日、校内でぶつかった子」
遥の一言に、心音は思わず目を見開く。
「え?」
春が遥を見る。
「……そうなんだ」
小さく笑う春の表情が、少し大人びて見えた。
「邪魔してごめん。すぐ帰るから」
心音がそう言うと、春は首を振る。
「別に邪魔じゃないよ」
軽く言われたその言葉が、逆に胸に刺さる。
「じゃあ、ほんとに帰るね」
踵を返そうとした時、
「齋藤」
遥の声に呼び止められる。
「また来れば?」
何でもないことみたいに言う。
「池田のプレー、悪くないし」
「おい」
春が小さく突っ込む。
「……うん」
曖昧に笑って、心音は体育館を出た。
背中に、ボールの音が残る。
「……どうしちゃったんだろ」
胸の鼓動だけが、やけにうるさかった。
***
体育館の扉が閉まる音を、遥は一瞬だけ聞いていた。
「遥、集中」
春の声に我に返り、コートに戻る。
プレーはいつも通りできる。
シュートも決まる。
それでも、さっきの後ろ姿が頭から離れなかった。
休憩時間、ベンチでタオルを首にかけながら、遥は春に声をかける。
「なあ」
「ん?」
「あの子」
一拍置いて、聞く。
「名前、なんていうの?」
春は少し驚いた顔をしてから答えた。
「……齋藤心音」
その名前を、遥は心の中でなぞる。
「ふーん」
理由は分からない。
ただ、気になった。
***
次の日の朝。
教室はいつもよりざわついていた。
「転校生来るらしいよ」 「マジ?」
遥は頬杖をついて、ぼんやり窓の外を見る。
担任が教室に入ってきて、手を叩いた。
「今日は転校生を紹介する」
教室の扉が、ゆっくり開く。
その瞬間、遥の胸が小さく鳴った。
――なんだよ。
理由も分からないまま、視線を向ける。
物語は、そこで次へ進もうとしていた。
第2話では、三人の立ち位置をはっきり描くことを意識しました。
心音は、まだ春を好きなまま前に進めず、
春は、正しい選択をしたつもりで無自覚に心音を傷つけ、
遥は、その二人の関係に「偶然」足を踏み入れただけの存在。
でも、名前を知った瞬間から、
その偶然は、少しずつ意味を持ちはじめます。
そして次の朝。
転校生という小さな事件が、
彼らの日常を確実に揺らしていくことになるでしょう。
次話から、物語はさらに動き出します。
負けヒロインの恋が、どこへ向かうのか——
もう少しだけ、お付き合いいただけたら嬉しいです。




