第3章 覚悟を測る 第4話 何も起こらない場所 5/6
「自分が今、
何を感じているか分からない者は、
奇跡を使う資格がありません」
イザベラは最後にそう告げた。
声は低くも高くもならず、
言葉だけが、空間に正確に置かれる。
「感情は、力です。
そして同時に、
最も信用できない要素でもある」
その一文が終わった瞬間、
誰かが小さく息を吸い直した。
だが、それ以上の音は生まれなかった。
言葉だけが、候補生たちの胸の奥に沈み、重さとして残る。
教室の照明は、さらに段階を落とされた。
天井の光が消え、窓から差し込む午後の光だけが、机に伏せた手や、強張った横顔の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
影が長く伸び、机と椅子の脚が、床に細い線を描いた。
やがて、魔導映像装置が起動する。
低い作動音が、静まり返った空間にゆっくりと広がった。
「次に、失神・暴走・後遺症の実例について扱います」
その声には、これまで以上に抑揚がなかった。
感情を削ぎ落としたというより、最初から含めていない声音だった。
「警告しておきます。
この講義に、成功例は出てきません」
映し出された最初の映像は、一見すると穏やかな治癒の場面だった。
若い聖女が、傷ついた兵士に手をかざしている。
姿勢は安定し、呼吸も乱れていない。
「この症例は、奇跡そのものは完全に成功しています」
数値が表示される。
魔力出力。
持続時間。
効果範囲。
どれも基準値の枠内に収まっていた。
「ですが、行使から三十秒後」
映像が進む。
次の瞬間、聖女の膝が、力を失ったように崩れ落ちた。
支えようとした兵士の手が、間に合わない。
「失神です」
教室の空気が、はっきりと冷えた。
候補生の喉が鳴り、誰かの背筋がわずかに伸びる。
「原因は、魔力枯渇ではありません」
波形が強調表示される。
なだらかだった線が、見えないところで歪んでいる。
「出力制御のために、無意識下で精神負荷を引き上げ続けた結果です」
イザベラは、映像から目を離さずに続けた。
「本人は“無理をした自覚がない”と証言しています」
次の映像に切り替わる。
今度は、瓦礫の残る街。
空気の色が違い、背景に緊張が張りついている。
「こちらは暴走例です」
奇跡が行使された瞬間、魔力が膨張し、周囲を包み込む。
境界が曖昧になり、光が必要以上に広がる。
「救おうとした人数は、五名」
映像が一時停止する。
「実際に救われたのは、三名。
残り二名は、魔力干渉による二次被害で死亡しています」
息を呑む音が、今度ははっきりと聞こえた。
「暴走とは、奇跡が失敗することではありません」
イザベラは、そこで初めて言葉を区切った。
「“成功の定義”が、使用者の意思から外れることです」
再生された映像では、聖女が叫びながら奇跡を続けている。
声は届かず、魔力だけが流れ続ける。
「止めようとしても、止められません。
魔力は流れ続け、本人の意識は奇跡に置き去りにされる」
画面が暗転する。
「彼女はこの後、奇跡行使不能となりました」
教室に、重い沈黙が落ちる。
椅子の上で、誰かの指先が、無意識に膝を掴んでいた。
そして、最後の映像。
「三つ目は、後遺症の例です」
映し出されたのは、静かな部屋で椅子に座る一人の女性。
窓辺の光が、動かない横顔を照らしている。
「奇跡は、問題なく行使されています」
だが次の瞬間、彼女の視界を再現した映像に切り替わる。
世界が歪み、光が滲み、人の輪郭が崩れていく。
「魔力の流れが、神経系に定着しました」
イザベラの声が、わずかに低くなる。
「結果として、彼女は常に“奇跡の残響”を感じ続けています。
日常生活は可能です。
ただし──」
一拍。
「二度と、正常な魔力感知は戻りません」
映像が消える。
暗闇と静寂だけが、教室に残った。
「失神。暴走。後遺症」
イザベラは、ゆっくりと候補生たちを見渡した。
視線を受け止めきれず、何人かが無意識に目を伏せる。
「これらは、特別な失敗ではありません」
「訓練を受け、評価も高く、“優秀”とされた聖女たちの記録です」
視線が、ほんのわずかに鋭くなる。
「奇跡は、人を救います。
同時に、使う者を壊します」
一呼吸。
「だからこそ──」
イザベラは、はっきりと言い切った。
「“使わない判断”ができる者だけが、長く生き残る」
講義は、終わりを告げた。
椅子が軋む音は、まだ生まれなかった。
誰一人、すぐには立ち上がれなかった。




