第4話 隠れ家
「『推し』って何かしら?」
「推しとは……『生きる力を与えてくれる存在』よ」
よく分からないけれど……出会うのがとても難しい人、なのだろうか。
「とにかく、すぐに行きましょう」
「どこに?」
「わたくしたちがこれから住む『隠れ家』よ」
ウィンクをしたヴィーは「ついてきて」と言って歩き始めた。
建物の中に入るのではなく、庭の奥へと進んでいくことを不思議に思いながら追いかける。
「ヴィー! これから住む隠れ家、ってどういうこと?」
「わたくしたち、今から家出をするのよ」
「え……ええええ!? むぐっ」
「大声を出したらみつかるでしょ! 次やったら扇子を口に突っ込むから! 分かった?」
ヴィーに口を押さえられ、私は慌ててこくこくと頷いた。
すると、彼女はようやく手を離して再び歩き出したので、そのあとをついていく。
家出だなんて……私は、いったいどうしたらいいのだろう。
家族はきっと心配するだろう。
でも、それは本当に『私を大切に思っているから』なのだろうか。
悲しいけれど、『婚約に支障が出るから』という理由のほうが大きい気がする。
「ところでルー。私事で恐縮だけれど……報告したいことがあるの」
「なにかしら?」
「さきほど、ルシアン様に婚約破棄を言い渡されたの」
「え……ええっ!? んぐっ!」
ヴィーの扇子がこちらに向かってくるのが見え、慌てて自分の手で口を押えた。
でも、こんなに驚くことをこのタイミングで言うなんて罠では!?
ルシアン様はこの国の王太子で、ヴィーとは幼い頃から婚約していた。
美しくて聡明で、家柄まで申し分のないヴィーより優れた女性なんて、この国にいるはずがないのに……婚約破棄?
「わたくしたちを軽視したやつらに痛い目を見せてあげましょう。ルーやわたくしがいなくなって、みんな困ればいいのよ」
※
ヴィーの勢いに押されてやってきたのは、王都のにぎわいから少し離れた静かな通りだった。
奥へ進むと行き止まりになり、あたりは木々と伸び放題の雑草に覆われている。
これ以上は進めないと思ったのに、ヴィーは私の手を引いたまま、その緑の中へと入っていった。
「ヴィー! こんな草むらに……って、あれ?」
一瞬、蜃気楼のように空気が揺らめいたかと思うと、目の前に手入れされた庭と立派な洋館が現れた。
二階建てで庶民の一軒家よりはずっと大きいけれど、貴族が住むにはややこぢんまりとしている。
淡い青の外壁に純白の窓枠や装飾が映えて、落ち着きの中にも華やかさがあり、とても美しい。
整えられた庭の草木の中には白い薔薇が咲いていて、上品な雰囲気を添えていた。
「ここは……?」
「ここはわたくしが買った屋敷よ。誰にもみつからないように魔法をかけてあるの」
ここに来るまでの道中で聞いたが、家出をするのは本気らしい。
私の家にもすでに『しばらくヴィクトリアと旅にでる。探さないで』と手紙を送るように手配した。
本当にこんなことをしてもいいのかと悩んだが、家族よりも私のことを大切に思ってくれているヴィーと一緒にいたい! という気持ちが勝ってしまった。
正直に言うと、今とても胸がドキドキして興奮している。
これまでがんばってきたから……しばらく羽を伸ばしてもいいよね?
「ルー、早くきて頂戴! 早速屋敷の中を案内するわ!」
「あ、うん!」
セオドアだって好きにしているのだし、私だって自由にしたい!
決心すると、嬉しそうに先に進んでいるヴィーの背中を追いかけた。
※
「おかえりなさいませ、ヴィクトリア様」
綺麗なお辞儀で私たちを出迎えてくれたのは黒髪の青年だ。
目元には魔法陣が描かれた黒い布を巻いていて顔の半分は隠れているが、通った鼻筋や形の整った口元、すっきりした輪郭からして、間違いなく美形だ。
フォーマルな黒のシャツとパンツ姿でカマーベストもつけており、細身だけれど筋肉質な体のラインが出ている。
執事というより高貴な女性が夜にお酒を飲むお店で働いていそうな色気がある。
「お客様もご一緒でしたか」
「ええ。『あの子』はもう帰ってきた?」
「ご主人様はもうすぐお戻りになると思います」
「そう。わたくしたちは適当にくつろいでいるわ」
「承知しました」
青年が頭を下げるのを横目に、ヴィーはすたすたと階段を上がっていく。
後を追いながら振り返ると、私の視線に気づいた青年がお辞儀をしてくれた。
目を隠していても視界ははっきりしているようだ。
気配をあまり感じない不思議な人だな。
「ねえ、彼はここで働いているの? 屋敷はヴィーのものだと聞いたけれど、彼の主人はあなたじゃないのね?」
「ええ。わたくしの仲間が主人よ。ここで一緒に住むことになるからあとで紹介するけど、あなたもきっと彼女を気に入ると思うわ」
知らない人と一緒に住むのは不安があるが、家出の手紙を出したのですぐに帰るのも気まずいし……とりあえず会ってみたい。
「ルー、ここからは土足厳禁よ」
「え?」
二階に上がった先、少し段になったところでヴィーが靴を脱ぎ始めた。
揃えて端に置き、素足でぺたぺたと歩き出す。
「やっぱりこのほうが清潔で落ち着くのよ」
たしかに汚れた靴で歩き回らなければ泥もつかないし、合理的かもしれない。
でも、家の中を素足で歩き回ったことがない私は戸惑ってしまったが……。
「早く」と急かされて従った。
行儀の悪いことをしているような罪悪感がしたけれど、歩くと足に柔らかい絨毯の感触が気持ちよかった。
「談話室でくつろぎましょう」
ヴィーが扉を開けた先の部屋は、全面に真っ白でふわふわの絨毯が敷かれていた。
その上には丸いローテーブルと、子どもなら埋まってしまいそうな巨大なクッションが二つ転がっている。
「はあ、疲れましたわ~!」
ヴィーが大きく手足を広げ、そのクッションに倒れ込んだ。
仰向けになって全力で脱力している。
「な、何をしているの?」
いつも上品で優雅なヴィーがだらしなく足を放り出している姿に、私は思わず目を見張った。
「全力でくつろいでいるのよ。あなたもこの『人をポンコツにするクッション』に飛び込んでみなさいな」
「人をポンコツにする!? そんな恐ろしい……!」
「それくらい気持ちがいいってことよ」
ぽんぽんと隣のクッションを叩くヴィーの圧に負け、恐る恐る腰を下ろす。
これは……体が沈む感じが気持ちいい。
「楽でしょ?」
「ええ……しばらく起き上がれないかも」
そう答えると、ヴィーは嬉しそうに笑った。
「ルーとこの心地よさを共有できて嬉しいわ。リラックスついでに婚約破棄のことを話してもいいかしら?」
リラックスのついでに話すような軽い内容ではないと思うが、ヴィーに何が起きたのか知りたい。
ヴィー以上に『未来の王妃』がふさわしい人はいないのに……。
思い浮かぶのは……あの方。
青みがかった長い黒髪に黒曜石のような瞳の、神秘的でとても美しい女性――。
「婚約破棄の原因は、神子様?」
私の質問にヴィーは「そうよ」と鼻で笑った。
神子様は異世界からやってきた女性で、神から授かった力でこの国を守ってくれるという。
本当に魅力的で、多くの男性が虜になっている。
実はセオドアも彼女の護衛をしたことがあり、少し関係を疑うような噂が流れてきたことがあった。
「今日は朝から呼び出されて城に行くと、ルシアン様に『君ではなく神子のアマネ・カグラを伴侶――未来の王妃としたい。だから婚約は破棄だ』と言われたわ」
「そんな……!」
王太子様まで魅了されたなんて驚きだ。
しかも、ヴィーとの婚約をあっさり破棄してしまうなんて……。
「『国のためだ。理解してくれ』なんて言っていたけれど、ルシアン様が誰にも相談せずに決めた暴走のようだったわ。でも、結局は王家から正式に破棄の通達がきたから、国としても神子を王妃にした方が得だと判断したのでしょう」
「ヴィー……」
私の努力をヴィーが見てくれていたように、私もヴィーの努力をみてきた。
時期王妃としての教育は厳しいもので、負けず嫌いでいつも強気のヴィーでも陰でこっそり泣いていたのを知っている。
つらいことを乗り越えて成長してきたヴィーは、どこに出ても恥ずかしくない国民が誇れる王妃になることは間違いなかった。
それなのに……一方的に婚約破棄を言い渡されるなんてあんまりだ。
「憐れまないでね? わたくしを軽視するような男と添い遂げることにならなくてよかったわ」
クッションに埋もれながらもこちらに向けたヴィーの笑顔はまぶしくて、強がりではなく本当にそう思っていることが伝わってきた。
「それにね。わたくし、ヒゲがある男性が無理なの。嫌だわ」
「え? ヒ、ヒゲ?」
たしかに王太子様には綺麗に整えられたあごヒゲがある。
でも……それって、そんなに気になる?
「清潔感はあるし、私は素敵だと思うけど……」
ルシアン様はとても見目麗しく、色気がある方だ。
まだ二十歳と若いながらも、次期国王にふさわしい威厳を備えている。
「清潔とか不潔とか、そういう問題じゃないの。ヒゲという存在が許せないの。ヒゲ剃り片手に嫁入りする構えだったもの」
「……そこまで!?」
でも、それなら婚約破棄になって、ヴィーが傷つかなくてよかったと思う。
「おめでとう、というべきかしら」
「そうね! その言葉が一番嬉しいわ」
私たちは結婚運がないのかもしれないわね、と笑っていると……。
「僕も王太子との婚約を断ってきたから、その言葉をくれるかな」
扉が開き、快活な声の女性が入ってきた。
びっくりして扉を見るとさらに驚いた。
「え……神子様!?」
王太子様がヴィーを振って選んだ相手――そして、セオドアとも関係があると噂があった方――。
まさに今、話題に上がっていた神子様の登場に大きな声を出してしまう。