金木犀の香り
「え? 叔父さんがくるって?」
下宿先に突然かかってきた母からの電話でも、私は驚きの声を隠せなかったのに、その内容は面食らった。
私は素直に言ってしまうと、叔父が苦手であった。叔父は、私の父の兄にあたる人で、年がら年中を旅しているような遊び人という印象があったからだ。子供の頃、正月やクリスマスと言った年末になると、古いバイクで父の家に現れては「ほい、お土産」と奇妙奇天烈な品々を渡してくるのが常であった。
そして、海外の話をしだして、手に負えない。
私自身が、海外旅行にあまり行こうと思わないのは、この叔父の影響があるのかもしれない。
だが、苦手だからと言って嫌いという訳ではない。と、いうのも、私自身が住んでいるこの下宿先というのは、叔父の持ち家であるからだ。
電話口の向こうで母は何を驚いているのかと私をたしなめ、事の次第を慎重に話し始める。
「日本に帰ってくるからって、そっちに寄るって」
「なん急に。こっちは何も用意なんてしてないよ」
「別にいいじゃない。叔父さんは、そっちに少しだけ泊まってまた出かけるとのことだし、特に何ももてなしは必要ないでしょ。あ、でも、コーヒーだけは買ってきてもいいかもね。あの人、コーヒーが好きだから」
「でも、女子大生と叔父さんだよ?」
「変な事考えてる?」
「いや、常識的に考えてよ」
「小さい頃はお風呂入れてもらったりしたのよ? だいたいね、あんた、その家は叔父の物なんだからね。そうやって、あんたは昔から」
聞きたくもない話を聞かされそうになり、私は渋々にその話を承諾し、電話を切ると同時に肩を落とした。
女子大生の一人暮らし、一軒屋でまともな生活を送っているはずがなく、家の中はしっちゃかめっちゃかだった。幸いな事に、叔父の書斎ともいえる部屋に関しては鍵がかけてあったので、おそらく、そこで叔父は寝起きができるはずだ。それであっても、なんとか叔父が来るまでに綺麗にしなければならなかった。
それを考え、ため息を吐き出したが、迷っている暇はない。
私はとりあえず、玄関から始まる共有部分を片付け始めた。
「おぉ、久しぶりやねぇ」
叔父が現れたのは母からの電話を受けた翌日の夕方頃であった。その頃までには、なんとか、人を招く事が十分に出来るようなくらいには片付ける事が出来た。おかげで、昨日と今日の大学の授業の大半は欠席してしまったが、一日や二日くらいの欠席は問題ないだろう。
古くて小さいバイクを駐車場に停めた叔父は、リビングでもある座敷に腰を下ろしていた。
ぼさぼさの無精ひげは、まともな社会人男性の顔つきのそれではない。ジーパンこそ綺麗なまだ藍色をしているが、ライダースジャケットの上に羽織っているジーンズのベストはボロボロである。もしかすると、両方とも洗っていないのではないだろうか。酸えた臭いがしてくる気がした。
座敷に座った叔父は、そこから見える小さな中庭に目をやる。中庭は砂利敷きであり、寒椿であったり、小さな松が植えられていた。
「この庭も昔と変わらないな。水やりはしているのか?」
「ときたましているよ」
「本当か? にしては、植物が少し元気無さそうだ。いかんぞ」
懐かしそうな顔で中庭を見る叔父に、私はコーヒーを出す。
「おぉ、気が利くねぇ。いい匂いだ」
と、コーヒーの入ったマグカップの匂いを嗅いだ後、背負っていたボロボロのリュックサックから包みを一つ取り出す。
「ほい。お土産。ペナントだ」
受け取って広げて確かめてみると、確かに言う通りのペナントである。
絶妙に要らない。せめてお菓子の方がマシだった。
無下に断ることも出来ずに、私は、礼を述べてそれを受け取った。
それを見計らって、叔父がマグカップを置いて、口を開く。
「それで、どうして来たのか。というところだけどもな。まぁ、なんてことない、ただ親戚の顔を見たかっただけだ」
「また、なんで」
「そろそろ、一つの所に落ち着こうかと思っていてな。そこで、故郷の物を持っていきたいと思ったわけだ」
「ちょっと待ってよ。ということは、この家を手放すの?」
叔父の話に私はつい聞いてしまった。今、私がここに住んでいるのは、叔父の持ち家であり、それを格安で賃貸させてもらっているにすぎない。もしも、叔父がどこかに腰を落ち着けて過ごすとなれば、この家を売却するとかいう話が出てくるはずだ。
京都市の北区にあるこの家を欲しがる人間が少ないとは思えない。良い値段で売れるだろう。
私が混乱したと思ったのか、叔父は片手を突き出して落ち着くように制した。
「この家はそのままにしておく。家を手放すつもりもないんだ」
「それは、そのよかった」
「だいたい、まだ、大学もあるだろ? はぁ、あのちっさかったのがなぁ……残酷だな、時の流れというのは」
「叔父さん、さすがに失礼ですよ」
むっとした私の顔を叔父は認め、すまんすまん、と軽く謝った。
こういう軽い所が私はなんとも好きになれないのであった。
が、ふいに叔父が真面目な顔を見せた。
「実はな。折り入って頼みがある」
やけに真面目な顔をするので、私はごくりと生唾を飲み込んだ。
「近くに船岡山があるだろ」
船岡山というのは、京都市北区にある山だ。街中にぽつんとある低山で、建勲神社がある。
「あるね。私は行ったことがないけど」
「いや、小さいころにお前は弟と、いや、親父さんと一緒に行ったと思う。覚えていないとは思うが、ともかく、その船岡山に今晩一緒に行ってほしい」
「それは、また、どうして」
叔父は、私の問いに、すぐに返事はしなかった。
ただ、じっとコーヒーの入ったマグカップをじっと見つめる。
「悪いけど、私は、理由がわからないことに付き合うつもりはないからね」
「いい態度だ」
叔父はふっと笑うと、マグカップの縁に口をつけ、コーヒーをすすった。
「船岡山に生えている金木犀。それを盗む」
「は?」
「正確に言うと、船岡山の近く、建勲神社の金木犀だ。それの枝をいただくので見張りを頼む」
突然のことに、私は言葉を失って、ようやっとしばらくした後に、絞り出すように「なんで」という疑問をぶつける事が出来た。
叔父はそこまで非常識な人物ではないと思っていた。しかし、今、目の前にいる叔父はそんな非常識、もっと言うならば、犯罪行為を示唆している。
「何、金木犀の全てをもらおうとは思っていないさ」
「それはどうして。その理由が知りたい」
「いくつかは、この庭に」
叔父は、中庭を見た。
「そして、いくつかは、俺の新居に持っていく」
「ごめん。それは理由にならない。本格的な理由が知りたい。なぜ、そんなことをするのか」
「本当に、それだけなんだ。深い理由はない。思い出を持っていきたい、だけだ」
私は腕を組んで唸った。
叔父には、苦手の意識はある。しかし、かと言って、嫌いという訳ではない。
が、この話に乗ってしまうのは些か犯罪行為に加担するようなもので望ましくない。
その私の考えが叔父にも伝ったのか、叔父は、首を横に軽く振った。
「無理にとは言わない。何、無理にとは言わないさ」
それだけ言うと、その話は終わった。叔父はそれから一切、その金木犀の話には触れることなく、あれこれ、色々旅の話を聞かせてくれた。私は、金木犀の話を断ったという負い目からか、その話をしばらく傾聴するふりをしながら考えた。
そうしているうちに日が暮れて、夕食を食べるとなった。夕食として叔父は、旅先で教わったという料理を振る舞ってくれたが、私に断られたのが響いているのか手を付ける事はあまりなかった。そんな様子を見ていると、申し訳なくなってくるのが人情というものだ。
「叔父さん」
洗い物をする叔父の背中に私は声をかけた。
「やるよ」
叔父の顔がふっと笑みで満たされる。
二人して家を出たのは、時計の針が夜の12時を回ったという時刻である。叔父は汚いリュックサックを背負う程度の荷物を持っていた。秋口の夜はぐっと冷え込み、寒さが強く、二人して簡単な防寒対策をした。
歩いて船岡山に向かう道中、人とすれ違う事はなかった。神社の敷地に足を踏み入れても、当然ながら人気はない。それどころか、何かしらの動物が飛び出してくるのではないか、という不安感が滲みだしてきていた。不思議な事で、見つかってどうなる、という不安はなかった。
「ここでいいか」
金木犀の木が生えている所が近付くにつれて、強くなっていた香りが、花が見えた途端に明確になる。
私は叔父が何をするかを見ずに、周囲を伺った。しばらくして、叔父の手には金木犀の枝葉が握られており、それをリュックサックに詰めている所であった。その手つきは慎重であり、丁寧で、一体、叔父になぜそこまでさせるのか不思議でしかなかった。
「この木も前と変わらないな」
叔父は、そう呟くと立ち去ることを告げた。
あまりの簡単な事に拍子抜けしてしまいそうであったが、家に帰るとどっと疲れてしまった。思っていたよりも気が張っていたらしい。叔父には申し訳ないとは思いながら、先に自室で休むこととした。別段、叔父は付き合ってくれた時点で満足しているのか特に何か言うことはなかった。
翌朝には、叔父は金木犀の枝を中庭に植えて、私に「これこれ世話するように」と教えてくれた。
それから叔父はまた、バイクでどこかへと旅立つといい始めた。
「あのさ、叔父さん。なんで、ホームセンターとかで買わなかったの?」
これが最後の機会になるかと思い、私は叔父にそう質問をぶつけた。
金木犀の木くらいであれば、インターネットでいくらでも手に入りそうなものだ。それであるというのに、わざわざ建勲神社まで出向き、船岡山まで出向いて、金木犀を手に入れようとするのは深い理由があるとしか思えない。
座敷で叔父は、次の旅の準備を始めていたが、考えるよう、その手を止めた。それから観念したように、書斎へと向かい、一冊のアルバムを取り出してきた。かなり年季の入ったアルバムで、アルバムの年号を見るに、叔父さんが若い頃からのものであるというのが感じ取れた。
「いいか? 絶対に、誰にも言うなよ」
真剣そのものの声に、私は真剣に首を縦に振った。
それから、叔父はアルバムをめくった。
そこには、叔父と一人の女性が並んで立つ写真ばかりが納められていた。
見たことのない小奇麗でこざっぱりとした叔父の姿と、見たことのない女性。
「誰なんですか」
「俺が愛した女性だ」
ぎょっとした顔を浮かべてしまう。
まさか叔父の口から女性についての話が出るとはとても思っていなかった。
それが伝わったのか、叔父が怪訝な顔を見せる。
「あのな、お前は俺を仙人か何かと勘違いしてないか? 俺だって、若い時は恋愛の一つや二つはしたことはある。だけどもな、彼女が特別だ。一番の特別だ。その彼女が一番好きだったのが、金木犀なんだよ」
「なんでまた金木犀なんだろう」
「金木犀はな。中国から来たんだ。彼女もまた、中国から来た人だった。そこが自分に似てるってさ」
叔父は少しだけ遠い目をした。
アルバムの中には、建勲神社の金木犀の前で二人して並ぶ、叔父とその女性の姿があった。
「その人とはどうなったんですか?」
「今、俺が独身っていうのが全てだ」
叔父は少し笑いながら言った。
それが、悲劇的な終わりだったのか、円満な終わりであったのかは明言しなかった。
「ただ、金木犀の香りを嗅ぐと、あいつを思い出すんだ。だから、せっかくなら、思い出の場所の金木犀が欲しかった」
それだけ言うと、叔父は話は終わり、という風に、また荷造りを始めた。ある程度の荷物をバイクに積んだ叔父は、キックスタートでバイクに火を入れる。古いバイクのエンジン音が、早朝の住宅地にこだました。
「いいか。必ず、金木犀は世話しろよ」
と、最後の最後まで、叔父は金木犀の事ばかりを言っていた。
わかってるって、と当然というように答えて、叔父はにっかりと笑った。
叔父を見送ってから中庭に植えられた金木犀をちらりと一瞥する。香りはするが、十分に強い、というわけではなさそうである。私はしばらく、迷っていたが、大学の授業まで時間があるのを確認すると、支度をして、建勲神社へと向かった。昨晩来た時とは異なって、随分と柔らかい雰囲気が周りには満ちていた。
私は、叔父が枝を取った金木犀の近くへと立つ。
おそらく、それは写真にもあった金木犀だったのだろうと思った。
強い甘い香りが周囲に満ちていた。
叔父はきっと、ずっと思い出すのだろう。この香りで、金木犀の枝で、かつて愛した人を。
私もきっと思い出すのだろう。この匂いを愛した二人の存在を。