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里美は、東京に帰ると出版社に原稿を提出し、坂巻賢司に連絡を取った。携帯にメールを入れると、すぐさま返事が返ってきた。いつもの小料理屋「辛夷」で待ち合わせることになった。その夜、里美が店の暖簾をくぐると女将が、「あら、おかえりなさい、坂巻さんがお待ちかねよ」とカウンターの奥にいくつかある小部屋のひとつに案内した。里美が顔を出すと賢司はビールをコップについで口をつけたところといった様子で、賢司は構わずその一杯を飲み干した。
立ち上がった賢司は全く普段と変わらない様子で「やあ、しばらく」と言っただけで、すぐにまた同じ場所に座った。
里美が席に着くと女将が二人のコップにビールを注いだ。「とりあえず乾杯しようよ」と賢司が持ち上げたコップに里美がカチリと合わせた。
女将が「ごゆっくりと」と言って障子を閉めて出て行っても無言の賢司は目の前の料理に箸をつけようともせず、ビールを飲むときにチラリと里美の様子を窺うようなそぶりを見せただけだった。
里美は約二週間ぶりに見る賢司に、何年も会わずにいた人に会うときに人見知りをするようなぎこちない感情を覚えた。あちら側の人間と話すような無感情で覚めた意識が賢司との間に漂っているような気がした。長く続いている交際から何となく結婚を約束したつもりでいた里美ではあったが、結婚を持ち出すたびにはぐらかす賢司に、揺らいだ気持ちのまま旅立った二週間前のことを思い出すと、賢司の前で何一つ変わっていないのではないかと思わせられた。また賢司に誘われるままにズルズルと体の関係を続けて、結婚もしないままいつまでもこのままなのだわと思うと、なぜ自分から打開しようとしないのかと腹立たしくさえ思えた。
里美は何を話せばいいのか分からなかった。ウエックへの旅の思い出を話せばいいに決まっているのだが、聞かれもしないのに話すのも不自然だし、自分から話せば話すほど真実のウェックは遠ざかってゆくような気がした。
たった二週間の空白なのだが、里美はその空白を隔てて見る賢司の表情に状況の変化を感じ取っていた。しかしその理由については判然としなかった。
賢司は突然切り出した。
「うちの両親がね、どこからか縁談の話をもってきてね。どう思う?」
そういいながら鞄の中から折り畳みの台紙にセットされた写真を開いてテーブルの上に置いた。
里美は二人の間の冷めた意識の原因はこれだったのかと思った。
賢司の言葉を里美は少しも意外には感じなかった。
その写真には着物を着てにこやかに微笑む若い女性が写っていた。
「きれいな人ね」
賢司の話を、その日の里美は冷静に聞くことができた。
賢司に持ち上がった結婚の話に、賢司自身が満足しているようだった。
里美の同意を得たそうに話す賢司に里美がおめでとうと言うと、里美が取り乱すのではないかと考えていた賢司は意外だというような表情をした。
気の向かない話をするような口調で話しながらも、里美を見下すような視線は相変わらずだった。
「ありがとう、里美にも賛成してもらえてうれしいよ」
賢司は最大の懸念が去ったとでも言うように、ビールを自分でコップに注いで一気に飲み干した。
(この人は私の体のすべてを知り尽くしているように思っているけれど、心は少しも知らないのだわ。私を誤解し続けたまま去っていくんだわ)
里美はそれならなぜ付き合い続けたのかと自らに問うてみたが、その答えは見いだせなかった。なぜ続いたのかと考えてみて、その問いの方が真実味があるように感じた。
里美は賢司以外に付き合ったことのある男性はおらず、長い付き合いでもあったので、結婚は自然のなりゆきと考えていた。しかし里美は賢司に結婚を打ち明けられてみると、その考えがいかにも幼稚な考えであったと認めざるを得なかった。
里美は賢司から縁談を切り出されたことにも何の感情も覚えずに聞いていた。賢司が全く里美に対する罪悪感も持っていない様子にはかえって救われた気がした。理由をいろいろと並べたてられていたらかえっていたたまれない気持ちになっていたろうと。
賢司はひと言も里美に旅のことを聞かず自分のことだけ話すと、里美の同意を得て安心したかのように、「まあ、飲めよ」と空になっていた里美のコップに壜を向けた。一口も料理に口をつけようとしない里美に構わず、賢司はようやく食べ物にありつけたといった様子でせっせと箸を運び、「それじゃあ決まったらまた連絡するから」と言いながら席を立った。外で誰かが待っているようだった。若い女性の声が里美の耳に入ってきた。
賢司が食べ散らかした食器が残るテーブルが、ひとり残された里美をみじめにさせた。長い付き合いだったが、終わりはあまりにもあっけないものだった。それでいて付き合い始めたころと何か変わったのかと考えてみると、まったく何も変わっていなかった。賢司と体の関係を続けながらも、里美はいつも孤独だった。自分の未来は賢司が開いてくれるものと考える浅はかさには付き合い始めてすぐに気づいたはずだった。非は自分の方にあるのだと考えると、涙も出ないほどに空虚な自分を感じていた。
別れ際に里美の耳元に口を近づけて囁いた賢司の言葉がいつまでも消えなかった。
「お互い楽しめたよな」
そうだったのか。初めて里美は二人の関係がその言葉以上に言い表すことのできない関係であったのだと理解した。結局自分も賢司と同じことをしていたにすぎないんだ。そう思うとふしだらという言葉が浮かび上がってきた。その言葉に里美はぞっとした。
里美は、この先自分はどう生きていったらいいのだろうと考えはじめていた。
幼いころから内向的な性格であった里美は、高校時代にフロイトの「夢判断」や「精神分析入門」を読んでフロイトの理論に強い興味を抱き、迷った末に大学では心理学を専攻した。幼児期の忘れ去られた体験に焦点をあてるフロイトの理論は、自己の探求を始めつつあった青春期の里美の心をすっかりとりこにした。そのことはかえって自身の心の問題を大きく膨張させることにもつながってゆき、そのときから自分とは何者か、どこへ行こうとしているのかというテーマが里美の思考の中心になっていた。
自分自身の内面にばかり意識を集中することは、里美を抜け道のない思考に導き、精神を疲弊させ、ゼミに所属する仲間たちとの議論も里美にはいつしかまったく無意味なものと映るようになっていた。
そんな時に出会って付き合い始めたのが賢司だった。初めのうち、理屈抜きにぐいぐいと引っぱって行く賢司の行動力に理屈っぽい里美が身を寄せるオアシスのように、賢司は里美にとってひと時の安らぎの場所になった。しかし間もなく里美は体だけを求める賢司に物足りなさを感じるようになった。自分が賢司に理解されていないということだけなら恐らく里美はそれほど物足りなさを感じることもなかったのだろう。人間として関心を持たれていないと感じたとき、里美はふと孤独を感じたのだった。
賢司は都合の良い時だけ里美に会おうとし、里美の都合を考える素振りは微塵もみせなかった。
里美が一人旅に出ることにも賢司は関心を示さなかった。「ふうん、行ってらっしゃい」と言うくらいが関の山だった。
旅先の見知らぬ町でのおもいがけない出会いや路傍に咲く名も知れぬ植物を発見することが里美の疲弊した心を癒し、生気を甦らせた。旅には発見があり、何度も旅をするうちに、旅行は里美になくてはならない生活の一部になっていった。
心理カウンセラーになるという道は自分には重すぎるように感じて断念したとき、趣味の旅行を生かした職業に就きたいと考えたのは、学生時代に旅行に親しんだ里美には自然の成り行きでもあった。
入社してから二年間の団体旅行の添乗員の仕事は、大いに忍耐を必要とした。三年目に新しい旅行プランの企画の仕事に配属になったときには、これでもういやな思いはしなくて済むと肩の荷をおろしたような気分になった。
旅行のたびに書き綴った里美の紀行文を採用する旅行雑誌が増え、コラムなどの依頼も増えると、里美はフリーのライターに転身する決心をした。すでにマスコミ業界で記者として働いていた賢司は、そのことにもあまり関心を示さなかった。