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むかし、この国に旅人がやってきた。
旅人は、若い夫婦と盲目の少女の三人連れだった。
三人は遠くからやって来たといい、この国の入り口に差し掛かったころには食べるものも少なく、今にも倒れそうだった。
この国の人たちは貧しかったが、三人を別々の家に招いて暖かいヤギの乳を飲ませ、その肉をご馳走した。
三人は日に日に元気になり、少しの間この地で働いてお返しをすることになった。
若い夫婦は働き者で、二人を引き取った家の長は、食事をさせた以上のお返しがあったと喜んで、いつでも好きなときに出発するといいといった。
眼が見えない少女を引き取った家の長は、労働させることができない少女を引き取ったことを後悔した。時が経つにつれて、その家の長は少女を冷淡に扱うようになった。
少女の父母がやってくると少女はその場を取り繕い、父母に心配をかけないように、引き取ってくれた家の人たちがとても親切にしてくれていると嘘をついた。
少女はだんだんとやつれていった。
少女が身を寄せた家には、同じくらいの年頃の男の子がいた。
とても働き者で、体も頑丈だった。
その男の子はひそかに少女に思いを寄せていたが、少女が働かないからといって両親がいい顔をしないので、表面的には無関心を装っていた。両親がいないときには少女にそっと近づいて自分の食べ物を分けてやったりしていた。少女がお礼を言おうとすると、男の子はしっと言って少女の口を手で押さえた。
男の子のおかげで、少女は何とか命をなくさずにすんだ。
あるときこの国に大勢の異民族の兵士が来襲し、この国の人たちを惨殺し、国を乗っ取ろうとした。
ところがそのとき、あの旅人の若者が異民族の兵士の群れの前に立ちはだかり、大きな声で何事かを叫んだ。その瞬間、兵士はみんな馬から下りて、若者の前にひれ伏した。
若者は来襲した異民族の王子だった。他の民族との騒乱の中で、戦いに敗れて逃れてきて身を隠していたのだった。
王子はこの国の人々から受けた恩に報いるために人々を救うことを約束した。
少女を引き取っていた家の長は、少女へのひどい扱いがばれるのではないかとあわて、少女が病気で亡くなったと嘘をつくことを考え、少女に毒を盛ろうとした。
そのとき、王子がこの家を訪ねてきてもう少しのところで発覚し、家族は捕らえられて処刑されることになった。
草原に三本の木の十字架が立てられ、家族三人は十字架に体を縛り付けられた。
処刑のときが来たとき、両親とともにその場にいた少女は、見えない眼からぽろぽろと大粒の涙を止め処もなく流した。
両親が理由を尋ねると、少女は十字架の一本を指差して、あの男の子が自分の命を助けてくれたのだと両親に訴えた。
両親は少女の眼が見えるようになったことに驚いた。
王子は男の子を娘の命の恩人として少女の婿に迎えることにして、男の子の両親の命だけは助けてその国から追放した。
少女は男の子と結婚してたくさんの児を産み、その子供たちの末裔が現在のこの国の国民なのだ。
そこでブハンの話は終わった。
「とってもいい話ね」
里美は、ブハンの物語に心が安らいだ。
ブハンはまったく感情を交えず、事実だけをそのまま伝えるように訥々と話し続けた。そのことがかえって里美に感動を与えた。
里美はブハンの純真な詩心をのぞき見たような思いがした。
決して素朴とばかり言えない心の豊かさと繊細さをこの人は持っているんだわ、と里美はベッドに背を向けて寄りかかるブハンの姿を見ながらそう思った。こんなに豊かな心を持っている人のいる国をあと少しで別れなければならないのだと思うと辛かった。
里美は、ブハンがこれ以上近づくことのできない人だと自分に言い聞かせていた。大変な経験をしたけれど、痛いと思う反面、そのおかげでこうして心を通わせることができたような気がした。
また来るとは言ったものの、ブハンと再会できる望みは限りなく小さい。そのことまで考えてあの物語を話したのかしら。もしそうだとしたならば、ブハンの心はなんて悲しいのだろう。私との別れを悠久の物語とともに、避けることのできない時の流れの中に押し流して行こうとしているのだ。そう思うと、里美の目から止め処もなく涙が流れ出した。
ブハンはやがて元の敷き藁のベッドに帰っていった。
里美はこれでいいのかしらと繰り返し、繰り返し問い続け、いくらか眠ったときもあったようだったが、ついに結論が出ないままに暁を迎えていた。
里美がまだ痛みの残る身体を励まして起き上がり、着ていたものを整えて小屋の外に出てみると、斜めに射す淡い光の中でブハンは馬に草ブラシをかけてやっていた。やわらかい光の中では、ブハンの姿までが光の中に溶け込んでいるように見えて、里美はこの人が実在の人でなければよかったのにと思った。
朝露が下りた草原は太陽の光を受けてキラキラと輝き、その中で母子の馬は牧場にいたときのように仲睦まじく草を食んでいた。
「やあ、具合はどう?よく起きられたね」
「ご迷惑をおかけしました。まだ体のあちこちが痛いですけど、一晩寝たら頭の痛みが取れてとっても楽になりました。何と言ってお礼を言っていいのか」
「それは良かった、青あざはしばらく残るでしょうけど、まあ勲章のようなものですよ。東京へ帰ったら、じき消えるでしょう」
まだ痛みは残っていたものの、里美の体は驚くほどに回復していた。
小屋に戻ると、ブハンはストーブの端で温まったヤギの乳を大きなカップに移して里美に飲ませた。
インド料理でよく見るナンのような大きなパンをストーブの上に火ばさみを広げて置いて、その上にパンを載せて焼く生活の知恵に里美は感心してブハンのすることを眺めていた。ブハンがジャムを塗って食べさせてくれたパンの味は里美の記憶にいつまでも残ることになった。
里美の状態を十分観察していたブハンはもう大丈夫という里美の言葉通り、十分馬に乗って帰るだけに回復していることを確認した。
草原の遥かな向うに輝きを増す太陽は、小屋の外に立つ二人にもほのかな温かみを運んできた。
二人は上り始めた太陽の方向にひたすら馬を走らせた。
ブハンは里美とヘロンまで同行し、出国の手続きなどを手伝った。ブハンが里美から預かっていた現金を清算し里美に残金を返そうとした時、里美はまた来るからとブハンに預かっててもらうように頼んだ。
ブハンは一瞬訝し気なそぶりを見せたが、里美の意図が分かったようであった。
帰国後に里美を待っているのは旅行社への説明や紀行文の原稿持ち込みなどで、そのうえで現実に里美がウェックを再び訪れるという保証はまったく無かったのだが、里美はブハンに現金を預けておくことでどうしてももう一度ウエックを訪れなければならないという義務を自分に課しておきたかったのだった。
ブハンの長い抱擁に里美は別れの辛さをはじめて味わった。
里美は時間がくると何も言わずに搭乗機に向かい、機上の人となった。
さようなら、遠い国。ブハンのいる国。