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里美が意識を取り戻したのは、小さな避難小屋の中だった。からだのあちこちが痛かったが、どうしてその場にいるのか思い出そうとしても、まったく思い出せなかった。
壁際のベッドの上に寝かされて、毛布がかけられ、頭の上にはぬれたタオルが乗せられているのがわかった。天井板を張っていない丸木の三角の屋根が見えた。里美は自分の今の状態の原因を何とか思い出そうとした。
遠い異国の地にいるのだけはすぐ分かったが、その先が思い出せなかった。
里美は飛行機が着陸するとき座席にしがみついたことを思い出すと、そこから記憶をたどりはじめた。
空港に着いた時髭面のブハンが迎えてくれたことなどを連鎖的に思い出していった。ようやく仔馬に乗って草原を駆け回ったところまでたどり着いた時、仔馬で坂を走りおりたことを思い出し、そのときからプツリと記憶が途絶えることでそうかあの時仔馬から落ちたのかと推測した。
ブハンが看病してくれていたのだ思ったが、そのブハンが近くにいる気配はなかった。
立ち上がろうとしたが、頭がガーンガーンと棒で叩かれるような痛みで、とても立ち上がることはできなかった。
ガチャリと音がして部屋のドアからブハンが入ってきた。
ブハンは、二時間ほどかけて、町まで飲み薬や湿布を取りに行っていたのだった。
ブハンの話を聞いて、里美はようやくすべてを理解することができた。
馬から放り出されて空中を飛翔したことまで、ハッキリと思い出すことができた。
「どうだい、起きられるかい。背中を打ったようだね。湿布を塗るけど、痛み止めの薬も飲んでおいたほうがいい」
ブハンに支えられて体を起こそうとすると、体中のあちこちがズキズキと痛んだ。
「体を動かせるから骨折はしていないと思う。打撲したところにはシップを貼るから」
里美が何とか上半身を起こすと、ブハンは口を開けるように里美に言い、紙に包まれた錠剤を一粒づず摘まんで三粒を里美の口に入れ、ブリキのコップに入った水を里美に飲ませた。
そのとき初めて、里美は、着ていたものがくつろがされていることに気付いた。カーキ色の上下のつなぎのベルトが緩められ、上半身のファスナーが下ろされていた。さらにブラジャーのホックもはずされていた。
打撲している部分などを確認するためとはいえブハンに素肌を見られてしまった恥ずかしさに、体が熱くなり、顔が紅潮してゆくのがわかった。しかし、看病するために必要であったろうことも理解できた。里美は動揺をブハンに覚られまいとして必死で恥ずかしさの感情を抑えようとした。
「ありがとう」
薬を飲み終えると、里美はぽつりと言った。
「そっちを向いて」
里美は、ブハンに背中を向けた。
里美の白い背はところどころ紫色になり、その部分はいくらか熱を持っているようだったが、幸いに傷にはなっていなかった。ブハンの冷たい掌が気持ちよく感じた。
ブハンは、丁寧に背中の患部に貼り薬を貼ると、足は大丈夫かと聞いた。
「ちょっと痛いの」
その部分にブハンが手を当てると痛みが走った。
右足の腿の外側を強く打っているようだった。
ブハンは、里美をベッドに仰向けにさせると、体を抱え上げながらズボンを下ろした。里美の自由にならない体を、ブハンは軽々と持ち上げ、擦り傷がついて赤く血がにじんでいる足に消毒薬を塗り、ガーゼで抑えるようにした。
里美は下着をブハンに見られていることが恥ずかしかったが、黙々と治療をしてくれている恩人のブハンにそんなつまらない感情を抱く自分が恥ずかしくも思えた。
治療が終わるとブハンは里美に毛布をかけ、今日はここに泊って明日ホテルに帰ろうと言った。
「ええ・・・ご迷惑をおかけしました」
「気にすることはないですよ、この土地の者でも同じ経験は必ずしています。ただ、馬で坂を駆け下りるのは、上るのよりもはるかに難しいんです。僕も悪かったんです。それを言わないうちに、あなたが急に駆け下りていったものだから。実は僕も数年前に大怪我をしているんです」
里美はブハンのような人でも怪我をするんだと聞いてほっとした。
「旅行者には、きちんと注意をしておかなければなりませんね」
ブハンも反省しているような口ぶりだった。
「仔馬は大丈夫だったのかしら」
「ええ、元気にしてますよ。あなたのことを心配していましたよ」
馬が人間のことを心配するなんて、とそれまでの里美には決して信じることができなかったような言葉を、ブハンの言葉通りそのまま信じることができた。
いつの間にか、外はすっかり暗くなっていた。
夜になると気温が急激に下がり、零下になることもあると聞いていた。ブハンはストーブに火をつけ、ランプにも灯をともした。
遠くから動物の鳴き声が続いていた。里美は小さいころに絵本で見た羊を襲う狼でもいるのかしらと思ったが、恐ろしくてブハンに聞くことはできなかった。
ブハンは小屋の片隅の敷き藁の上に体を横たえ、厚い毛布を一枚かけて寝ようとしていた。
里美はまったく経験のない異郷での山小屋の一夜に小一時間ほど経っても寝付けずにいた。
静かになると風のうなり声が耳につき、時おり強い風が小屋全体を揺らした。木々のざわめきが里美には誰かが外にいて揺すっているのではないかという妄想に変わり、不安になって反対側を向いて寝ているブハンの存在を確かめた。
「どうしました」
思いがけずブハンは眼を覚ましていた。
「眠れないようですね。どこか痛いんですか」
ブハンは、里美が寝ているベッドのそばまでやってきて様子を窺った。
「とても楽になったわ。それより外のいろんな音が気になって頭が冴えちゃってるの。日本では夜中でもいろんな音が絶えずしているものだから、かえって一つ一つの音がわからなくてあまり気にならないんだけど、ここでは一つ一つの音がハッキリしているので、何の音かなってかえって気になるのね。起こしちゃって悪かったわ」
「それじゃあ、この地方に残っている伝説を話してあげましょうか」
ブハンはベッドに寄りかかり、一人語りを始めた。




