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夢の国紀行  作者: 石木 喬
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 里美は翌日からさっそくブハンを助手にして、取材の仕事を開始した。

 渡航前の里美は、ポタンについて観光資源となるものはそう多くないがそれを補って余りある雄大な自然が魅力だと考えていたが、ブハンが空港からの道の途中で立ち寄ってくれた遺跡のおかげで、大自然ばかりでない古都の印象も与える土地であると再認識した。

 広大な草原と遠くに聳える万年雪を頂いた高峰、そして夜の満天の星。草原を深く切り裂くように流れる渓流には意外にもところどころに滝さえあることが分かった。草原には至る所に自由に草を食む羊の群れが遊び、それを追う遊牧民の姿があった。

 東西の交易路として発達した街道沿いに残る古代の遺跡と古寺院を訪ね、羊肉などの料理を食べる。

 里美は旅行会社の添乗員の経験から、ツアーの旅行先としての可能性まで考えはじめていた。そして足りないことは何かと考えた。何よりも医療体制などの安全をいかに確保するかということが最優先事項であるに違いなかった。まだまだ発展途上のこの国は日本から何年も後れているに違いない。それを知ったうえでのツアーであるから、完全ということはあり得ないにしても、安全のためのネットワーク作りが一番の課題であると里美は考えた。トイレがないことも女性にはネックだった。だがそれは簡易トイレやバスのトイレなどで代用できる。里美は紀行文を書くためのエピソードを一つずつ書き留めていった。

 自然はあまりにも雄大すぎて、どのような説明も誇大すぎることはないと思えた。日本のような季節によって移ろう繊細な自然の変化というよりは、大きく躍動するような季節の変化が特徴であろうと思えたが、里美の短い滞在ではそれを実感するまではできなかった。この旅では味わえない季節の移ろいやこの国ならではの風習、行事など、それをブハンに教えてもらうこともこの旅行の大きな目的であった。

 広大な大地ははじめから草原だったわけではなかった。

 放牧の民がこの地を支配するようになって山林を切り開き牧草地を増やしていったことによって何世紀かのうちに現在のような広大な草原に変ってしまったのだと何かの本で読んだことがあった。

 人間の生活が自然に与える影響について、環境破壊などといった現代人の作り出した言葉では言い尽くせないもっとダイナミックな変化と歴史の重みを里美はひしひしと感じ取っていた。

 ブハンは何日かかけて広大な草原を車で駆け回り、自然のなかに散在する遺跡と寺院をひととおり案内した。

 旅の終わりが近づいた時、ブハンは里美を乗馬に誘った。

 囲いの中で草を食む馬たちにブハンがピューと口笛を鳴らすと一斉に頭をあげて集まってきた。それは里美が知っている日本の馬とはずいぶん違い、体はがっしりしているが羊より少し大きいくらいの小型の馬ばかりであった。そういえば遊園地で見たポニーという馬と同じくらいかなと里美が記憶をたどっていると、ブハンがその中から栗毛の二頭を引き出してきた。

 体形のよく似た長いたてがみの二頭で、毛の間からチラチラと大きな眼を見せていた。二頭は親子で、特に子供の方は親から離れようとしないから里美のような初心者を乗せるにはちょうどいいのだとブハンが話した。仔馬と言われた方も昨年生まれたばかりであったが、すでに母馬とかわらぬ大きさまで成長していた。それでも仔馬らしく母馬の背に時おり頭をのせたりしている姿が愛らしかった。ブハンが馬具を装着するのを二頭はおとなしくして待っていた。馬はこれから平原を駆け回ることができると知っていておとなしくしているように里美には見えた。里美が仔馬の方に近づくと、仔馬は鼻面を里美の胸のあたりに押しつけて自分を連れ出してくれる主人に甘えているようであった。里美はその時うずくような愛情を仔馬に感じた。

 手綱の引き方や足で馬に合図する方法、並足からだく足の乗り方などを柵の中で小一時間ほど学ぶと、里美は自分でも驚くほど馬が思い通りに動いてくれるようになったことを知った。ブハンはともかく大切なことは馬と一体になることだと話した。体ばかりでなく心も通じ合うことが馬の不安を振り払い、気持ちよく走らせるコツなのだと。

 牧羊を追いかけるに適した小回りの利く小さい馬は、里美が乗っても暴れることはなく、どこまでも続く草原を疲れを知らぬがごとくに走り続けることができた。

 里美は、馬に乗って草原を疾駆する爽快な喜びをこの国を訪れる誰もが味わってほしいと思った。

 ブハンと二人でなだらかに傾斜する草原を風を切って走るとき、里美は映像で見たことのある騎馬民族の一人になりきったつもりでいた。そしてさまざまな現実社会の束縛から自由になったような開放感を味わうことができた。

 里美は、紀行文のなかにどのように表現しようかと頭のなかで文章を練っていた。

 乗馬の途中で、ブハンは、この国の数少ないスキー場に里美を案内した。

 その場所には丸木作りの小さなロッジが建てられていたが、二人が訪れたときはシーズンオフだったために、小さな民宿のような建物は無人になっていた。ゲレンデの斜面には数メートルおきに木製の柱が頂上まで建てられていて、その小高い丘の周囲には珍しく木立が集まって小さな林を成していた。

「はいっ」

 ブハンは、馬に掛け声をかけると、斜面を一気に駆け上がっていった。

 里美も同じ様に声をかけると、馬は軽々と斜面を駆け上がった。

 馬の上からブハンは眼前に広がる広大な草原を眺めていた。

 里美はその雄大さに息をのんだ。

 草原のはるかに向こうはなだらかな丘陵となり、その向こうに真っ白に雪をたたえた高峰が聳え立っていた。

「冬になったらまた来てください。本当のウエックがそのとき初めてわかるはずです」

 その場所を去るとき、ブハンは里美にそういった。

「ええ、必ずまた来るわ」

 社交辞令のつもりではなかったが、そう簡単に再訪できるものでないことは里美が一番知っていた。里美はその困難を克服して、再びこの場所にやってきて違った景色のウェックを眺めることを心に誓った。そしてそのとき再び自分の横に立つ人は再びブハンであると、何の疑問も感じずにそう思った。

「はいっ」

 里美は、予告もなしに、先に立って斜面を駆け下りていった。

「危ないよ。気をつけて」

 その言葉は、風を切る音にさえぎられて、里美の耳には届かなかった。

 いくらも降りないうちに、里美の乗った馬は小さな石に蹄を引っ掛け、あっという間に横倒しになっていた。

 里美は馬から遠く放り出されて斜面を転がった。その際に頭を打ったらしく、激痛とともに里美の意識は急速に遠のいていった。

 馬はすぐに立ち上がり里美のそばに戻って里美の匂いを嗅ぐしぐさをしていたが、間もなくその場で草を食み始めた。

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