5
そこは乾燥した赤土が地表を覆っているだけの廃墟のような場所だった。植物といえば雑草が所々に生えて入るだけで、ただただ茫洋とした古い建物の跡らしきものが広がっていた。
里美は、車の後方で土壁のような場所に向かって立小便をしているブハンの姿を発見した。そうだったと里美は自分の想像力の無さに失望した。これまでに訪れたことのある海外の観光地はトイレなどの設備がしっかりと整っている場所ばかりだった。土産物店さえあるはずのない今回の訪問地で、ましてやトイレなどあるはずもない。簡易トイレの携帯の必要を今更ながらに感じ、そればかりかこれからどれだけ自分の準備不足が露呈するか分からないと半ばあきらめながら、これも旅行の目的の一つと納得せざるを得なかった。
里美に気付いていない様子のブハンは、車の近くまで戻って褐色の土壁が続く場所を向いて立っていた。しかし、すぐに里美に気付いてブハンは里美に車から降りるよう促した。
「トイレはどうですか、ウエックまではもう小一時間かかりますよ。この国では公衆便所なんかほとんどありませんからね」
そう言われると里美は急に尿意が催してくるのを感じた。
(ここだけで済むわけではない。これからこの国に滞在している間常につき惑う問題だ)
里美は、我慢しても仕方ないと考え、ブハンの建っていた土壁の向う側に行ってみて声を呑んだ。そこからは広大な遺跡が広がっていた。いくつもの崩れ落ちた建物のなかに高い塔のようなものが遠くに見えていた。
里美はあわててその場所から出て車の後ろに回り、用を足した。
里美が戻るとブハンはまさに里美が用を足そうとした場所の方に入っていった。里美がブハンの後に付いて行くと、崩れた廃墟の壁のいたるところに建築当時の彫刻がたくさん残されていた。
「この場所は古い神殿の跡です。14世紀のものです。今この国の人たちが信じている宗教は、14世紀に異民族がこの国を支配したときにこの国にもたらされ、為政者が好戦的なこの国の人たちのとげを抜くために布教したと伝えられています」
イントネーションはどこかおかしいが、どこでこんな流ちょうな日本語を覚えたのかしらと里美は不思議に思った。
その彫刻には、里美も見たことのある仏教の伝説の物語のようなものが描かれており、その他の場所では男女交合のさまざまな姿態が描き出されていた。この国が今も性に対する道徳心が強く、結婚前の女性は絶対に処女を守り続けなければならないことや、姦通などの性に関する罪は重大な犯罪であることなどを、里美は本で読んで知っていた。また、男女交合による絶頂の瞬間はすなわち涅槃を意味し、それが最高の宗教的境地とされていたことも知識に加えられていた。
「異民族は去っていきましたが、宗教は人々の間にそのまま残ったんです」
神殿は広く、たくさんの建物の壁におびただしい量の彫刻が残されていた。そのどれにも性のさまざまな姿態や伝記のようなものが描かれ、勇壮な騎馬民族として長い間他の国の脅威となったこの国の人々が、新しい宗教を信仰することにより従順な被支配民となっていった歴史があったことを、里美は再認識させられた。
遺跡を後にしてしばらくすると、褐色の大地の向こうに、陽炎のように忽然と大集落が姿をあらわした。
近づくにつれて緑の牧草地が増えはじめ、それにもかかわらず、その町は草原の台地に囲まれた条件の悪い低地にわざわざ集まっているように思えた。
牧草の生えた台地は、羊の大きな群れやそのほかの家畜がたっぷりとえさをとることができるように、そのような好条件の土地を避けて住むようになったのかもしれないと、里美は考えた。
町の中心部には行政機関や寺院などが集まっていて、近代的な建築物も目に入ったが、住居の多くは土塀のような粗末な材料を使った平屋のしかも小さなものだった。二人が乗った車の前を馬や羊を連れた住民がお構いなしに横切って行った。至る所で子どもたちの姿が目に付いた。子供たちはブハンの車の手すりに掴まってよじ登り、数十メートルを無断乗車した。スピードを落としているとはいえ、走っている車に飛び乗りさらにそこから飛び降りるのだから、この国の子供たちはどんなに運動神経がいいのかしらと、里美は妙なところに感心していた。
町の中心部にある十字街を曲がったところでブハンは車を止めた。二階建ての古びた木造の建物の入り口の上に、HOTELと書かれた英語の看板が掲げられていた。
ホテルに到着したときにはすでに夕方になっていた。ブハンはチェックインの手続きをして里美に大きな金属製のルームキーを渡し、一階から吹き抜けになっている二階への周り階段を上って荷物を部屋に運び入れると、ちょっと下で打ち合わせをしましょうと一階のロビーの横の小さなレストランに里美を連れていった。四人ずつ座れるテーブルが十卓ほど置いてあり、窓からは人々が行き交う街の様子がよく見えた。
「五千円ありますか」とブハンが言うので里美は頑丈なショルダーのついたバックの中から財布を出して中を見たがちょうど五千円には足りなく、「一万円札なら」と言うと、「それじゃ、あとでいただきますから、これだけ持っていてください」と五千円に相当する現地の数枚の紙幣と沢山のコインをテーブルの上に広げた。滞在の間の支払いはすべてブハンが行い、帰国の際に精算させていただくということだった。円から現地通貨に直接交換することはできず、ブハンが後で円をドルに換えてヘロンでさらにポタンの通貨に交換するということだった。
滞在期間中里美が必要なお金は五千円相当で充分で、これでもあまると思うとブハンは言った。
里美のポタン訪問の目的は日本からの連絡でほとんどブハンに伝わっているようで、あらためて里美からブハンに伝えるようなことはほとんどなかったが、ブハンからはホテルの向かいのコンビニなどへ行くほかは決してホテルを出ないこと、小銭はチップ用だからこまめにホテルの従業員にチップを渡すこと、食事はすべて部屋へ運ぶように言ってあるが、慣れてきたら一階のレストランで取ってもいいことなど、簡単な注意を与えられた。
また明日の朝迎えに来ると言ってブハンはそのまま去っていった。
あらためてロビーから二階を見上げると、階段からそのまま回廊のようになった二階に部屋のドアが並んでいるのが見えた。里美はロビーから部屋の入り口が見えることで、いくらか安心できるような気がした。
里美は部屋に入るとあらためて部屋をチェックしてみた。十二畳ほどの広さにツインベッドが奥の窓側を占めて、空いた場所にソファー、テーブル、ライティングディスクなどが配置されていた。トイレと洗面所の先がバスルームになっており、石鹸や日本製のリンスインシャンプーなどが置いてあった。ドライヤー、電気ポットなども日本製のものが置いてあり、里美は日本の技術と販売力を再認識させられた。ライティングディスクの引き出しには英語と現地語の聖典が入っていたし、テレビと電話など、日本との思っていたほどの差は感じなかった。
里美が衣服などを片付けているとノックの音がし、ドアを開けると若い男性従業員が夕食を運んできた。大きなトレイに肉中心の料理と大きな器に入れられたヨーグルトが載せられていた。ひどく訛りのある英語で何を話しているか里美はよく分からなかったが、作り笑顔で応えてチップを渡すと頭を何度も下げて「サンキュー、サンキュー」と言いながらドアの外を指さしていた。食べ終わったらここに置くようにと言っているのだろうというのは里美にも分かった。マトンを煮込んだ料理はあまり食べたことはなかったが、里美はその匂いに食欲をそそられて、さっそく余さずに食べてしまった。
窓辺には日本では見ることのない蘭に似た鉢植えが置いてあり、伸びた茎の先に薄紫の小さな花が沢山咲いていた。窓にはカラフルな織物のカーテンが掛かっており、紐を引いて開けるようになっていた。カーテンを開けると低い屋根が連なるその上に満天の星が瞬いているのが見えた。里美は両開きの窓を開けてひんやりとした外の空気を吸うと、ようやく目的の地に着いたのだと実感した。実際の距離はそれほどでもなかったのだが、これまでのどの海外旅行よりも長い旅に感じた。
旅行の目的をあらためて振り返ると、里美の身体にずしりと重圧がのしかかってきた。ブハンとは会ってからろくに自己紹介もしていなかった。明日から育った環境の異なるブハンとどうコミュニケーションを取ったらいいか、意思疎通の難しさが気になった。どうしてあんなに流ちょうな日本語が話せるのか、どんな生い立ちなのか、家族構成はどうなっているのかと、いくらでも疑問が湧いてきた。里美は、ともかく自然体で応じていれば何とかなるだろうと思うことにした。そんなとき、ふと東京にいる賢司のことが脳裏をかすめた。
シャワーで旅の汚れを落とすと、だだっ広い部屋の片隅に置かれた大きなベッドに横たわり、先のことを考えているうちに睡魔に襲われた。泥濘のような眠りに落ちると、不思議な夢の間を一晩中さ迷い続けた。