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「池野さんですか」
流暢な日本語が里美の後ろから聞こえてきた。
里美が驚いて振り返ると、浅黒いというよりは抜けそうもない褐色の地肌が見るからに現地人といった風貌のひげ面の男性が立っていた。毛糸で編んだカラフルな民族衣装の上に毛足の長い黒っぽいハーフコートを羽織っていたが、その大柄な男性は間違いなく経由したヘロン空港で里美のほうをちらちらとのぞき見るようにしながら新聞を読んでいた男性だった。笑顔のようにも見えるが顔全体が髭に埋れたような男の表情を里美は読み取ることができなかった。
「はい」
里美が答えると、相手は無言のまま突然里美を強い力でハグした。
相手の毛皮のコートの胸に顔をうずめることになった里美は、それまで嗅いだことのない酸えたよう臭いにむせ返った。羊革か山羊革なのだろうか、それとも狼とか・・・。毛先が柔らかく肌触りは悪くないが強烈な匂いには閉口した。この匂いに慣れなければ自分の使命は果たせないのだと、何とかそれに耐えようと拒絶反応と戦っていた。馬乳酒や羊料理などの食事についての知識は、似ているであろうと思われるモンゴル料理の店で何度か試してそれほどの違和感はなかったのだが、様々なニオイのことだけは準備不可能であった。
抱擁を終えると、相手は両手で里美の手を取った。そのとき里美は、手荒く両手で握り締め激しく上下に振ったりするんじゃないかという予測に反して、思ったよりもソフトな握手であることが意外だった。
「池野里美です。よろしくお願いします」
「ブハンと言います。それじゃ行きましょうか」
流ちょうな日本語だった。
どこで覚えたのかしらと聞く間もなく、ブハンはカウンターの方に進んでいった。
ターミナルの中は倉庫のようにガランとしていて、長椅子だけが同じ方向を向いて幾つか並べられていた。出口の近くに置かれたカウンターで若い女性がチケットと荷物の確認をしていた。
里美がパスポートと手荷物引換証をブハンに渡すと、カウンターの女性は一瞥しただけで里美に質問もせずに返した。あまりにも簡単な入国審査に驚いていると、ブハンは自己紹介もろくにしないで、里美を飛行場の片隅に用意してあった軍隊のもののような褐色の車に案内した。里美はその車に見覚えがあった。日本メーカーのオフロードも走れるクロスカントリー車といわれる車種で、最近ではほとんど目にすることがなくなった古い型のものだった。
作業服姿の二人の男性が、車輛の後ろのハッチを開けて里美の手荷物を運び入れていた。
大きな二つの旅行バックを運びながら、二人はなにやら不思議だといった面持ちで話しあっていた。
ブハンは運転席に乗り込むと、大きな声で怒鳴りあうように話している二人の空港職員の方をさして言った。
「彼らはあなたの荷物があまりにも多いので、一体何が入っているんだろうと話し合っていたんですよ。自分の家にあるものすべてを合わせてもこんなに多くないと話しています」
「まあ、失礼な」
ブハンは白い歯を見せて笑った。
「あなたが珍しい格好をしてるんで、少し大げさに話してるんですよ。もっともこの国は遊牧民の国ですから、長い歴史の間に必要最低限のもの以外は持たないように訓練されているんです。ただ、最近ではテレビや洗濯機なども必需品のなかに入ってきていますけどね」
里美は旅行の準備をしていたときに、持ってゆく化粧道具や衣装をどうするか悩まされたことを思い出した。それ以外のものはすぐに準備できたのに、これから向かう土地ではあまり重要ではないと思える自分を飾る道具に頭を悩ませていることに腹を立てたりあきれたりした。文明というものをすべて放り出して、必要最低限のものを持ってゆけばいいのだと当初は考えていたのだが、準備を始めてみるとそうはいかなかった。これはどうしても持って行かなくちゃという最低限のものだけを用意したつもりが、結局は現地人に家財道具一切を持ってきたのではないかといぶかしく思われる結果となってしまった。里美はひそかに苦笑いした。それでもブハンの話すこの国の事情は里美に大切な情報を提供してくれていた。里美はノートを出してメモした。
「揺れますからね。シートベルトをしっかり締めて、揺れたら前のバーに掴まってください」
この国では主要な市街地以外、舗装している場所はまったく無いということだった。でこぼこ道というのは歌でしか聞いたことのなかった里美は、その歌を思い出しながら優雅なドライブを想像した。
走り出したジープの中でも里美は、空港に着いてからのほんの少しの間に起こった不愉快な出来事が思い起こされ、ひとつひとつ気に障った。
「・・・私が何を持ってきたって私の自由じゃない、それになによ、この人だっていっしょの飛行機に乗っていたくせに話しかけようともしなかった・・・」
そんなことをあれこれ考えていたが、草原を疾駆するジープは時おり天井に頭がぶつかるのではないかと思われるほどジャンプし、里美はしっかりと座席の前のバーにつかまっていなくてはならなかった。一つの考えがまとまりかけても、体を支えることに全神経を集中しなければならない状況ではまったくそのような作業は徒労に終わり、里美は考えることに疲れてきた。
シートベルトをしっかりと締め直して草原の景色に見とれていると、長旅の疲れが突然里美を襲ってきた。里美は運転しているブハンのことを意識して、寝てはいけないと何度も言い聞かせ、睡魔と戦い続けていたのだが、疲れ切った体の要求には抗しきれず前後不覚になるほどに寝入ったしまった。
眠りの中にあって、里美は、不思議な夢を見ていた。民族衣装をまとったこの国の男たちが、十人ほどで自分を取り囲んでいる。しかし、誰の顔も眼だけが目立ち、ほかにはまったく特徴が感じられない。その眼もすべて里美に向けられている。囲いがだんだん狭くなってきて、何本もの男たちの手が闇の中から出てきて里美の体に触れようとした。里美は、体をくるくると回して、たくさんの手から逃れようとして必死になった。もう限界、これ以上逃げることはできないと思ったとき、耳元で自分の名前を呼ぶブハンの声によって現実の世界に引き戻された。




