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週に数便しかない成田発のその国の航空会社の飛行機のなかはガランとしていて、日本駐在からの帰国だろうか数組の民族カラーの衣装を着た家族や背広を脱いだビジネスマンが離れた席でくつろいでいた。機内に乗り込んだとき里美はすでに空気が違うと感じた。草原のさわやかさとは違う、干し草が積まれた上に寝転がっている時のような独特の匂いが漂っていることに気付いた。そういえばタイやインドの航空会社の機内でも同じようなエスニックな料理の匂いが漂っていたことを思い出すと、むしろこれからの遠い異国の旅への誘いのように思えた。
現地語に続いて英語と日本語によるフライトの案内が流れた。続いて緊急時の応対方法が映像とともに流れた。旅行に慣れた里美はどこも同じような内容なのであまり注意して聞かなくなっていたのだが、つい二週間ほどの間に航空機のインシデントが何度か続いてニュースになっていたので、再確認のつもりで注意深く聞いていた。三言語で繰り返されると、現地語のところで、里美は破裂音や歯擦音が耳につくことに気付いた。現地語についてはテキストもなく、類似の言語がその地域に多数散らばっていることを一般書で知った里美は、そのことも今回の旅行の調査の重要なポイントとしていた。いずれガイドブックを作るときには、その地方の日常会話についてもある程度の紹介が必要となる。そのために、日本語のできる現地ガイドから情報を得ることは何よりも重要と思っていた。
成田を飛び立った飛行機は揺れることもなく順調に飛行を続け、機内食のサービスが終わると間もなく機内の灯りが落された。里美は読書灯を点けて準備した資料に目を通したりオーディオで音楽を聴いたりして時間を過ごした。
月明りに照らされた絨毯のような雲の上をゆったりと漂うように目的地を目指す機内にいて、里美はすっかりくつろいで外の景色を見やりながら音楽に耳を傾け、いつしか微睡のなかに落ちていった。
朝方の乗り継ぎのヘロン空港で、旅行客は悪天候のために五時間以上も待たされることになった。
空港の待合室には同じ飛行機を待つ十数人の乗客がコーナーに集まっていた。時おり英語のアナウンスが流れるほかは、まったく意味の分からない言葉だけが飛び交っていた。コーナーの端の方にいた里美は、乗客が集まっている反対側の席に座って新聞に眼を落としていた浅黒い顔の男性が時おり里美に向ける鋭い視線に気付いた。里美は一人旅の心細さを感じ、あらためて気を引き締め直した。
ようやくフライトが可能になったと放送があり、乗客は小型バスに乗せられて滑走路の端まで運ばれていった。
長時間待たされた挙句に用意された双発の小型機は、広い空港の片隅に修理不良を思わせるようなくすんだエンジン音を立てて里美たちを待っていた。
タラップを上って機内に入ると、想像していた以上に中は狭かった。通路の両側に一席ずつ客席が並び、里美の席はそのちょうど中ほどだった。しかし座席はゆったりとして意外に高級そうに思えた。座席について前方を向いた里美は驚いた。操縦席が客席の前方にバスの運転席のようなバーがあるほか何の仕切りもない状態で、二席ある操縦席の上にはごちゃごちゃと機器がひしめいていた。そして、操縦席の先には滑走路の向こうの山並みまでがはっきりと見えていた。里美は一蓮托生という言葉がこの世に存在する意味がようやく分かったような気がした。
里美の席はちょうど翼のある辺りだったが、翼が機体の上部に付いているタイプだったので、窓からの視界を遮るものは無かった。搭乗する前からスタンバイしているエンジンの音がともかく大きかった。機内に入るとその音はいくらかやわらいだものの、かえって機内で共鳴しているようにウオンウオンとまるで草原に住む動物の遠吠えのように聞えた。里美はさっそくイヤホンを取って音楽のチャンネルに合わせた。音楽でも聴いていなければとても我慢ができないと思った。
ヘロン空港を飛び立ってから十五分もすると、飛行機の前方に立ちはだかるような高々と聳える巨大な山塊が迫ってきた。操縦席の窓から前方が見えることで、あたかもジェットコースターの一番前に乗っているような目の回るような景色が展開していた。ジェット機と違い、低い高度を飛ぶプロペラ機は、気流の影響を受けやすく、常に機体が上下しながら飛行していたので、目に入る光景もまさにジェットコースターに近い状態だった。とても見続けていることはできないと里美は思った。里美は富山県の氷見から海を隔てて見た立山連峰を思い出した。連なる山嶺がどこまでも続き、里美はその奥に目的の地があることを思うとあらためて神秘の土地との思いを強くした。あたかも山々の間を縫うかのごとく飛行する小型機の中で、里美は、猛烈な後悔と戦いながら、事故がないようにと一心に念じていた。時折尾根を吹き上げる強風に小型機は木の葉のように舞い上がり、そのたびに甲高い悲鳴を上げる里美に、乗客の冷ややかな視線のすべてが集まった。
目的地の空港に近づいたとき、飛行機は管制の指示を待っているのか、空港の上を二度、三度と旋回した。飛行機の窓から見た地上は、緑の草原を開いた褐色の一本の滑走路と、空港の数個の建物、そしてその近くにある住民のキャンプのようないくつかのテントのほか何も見えず、町並みらしいものはどこにも見当たらなかった。空港の周囲は小高い丘のような見渡す限りの草原がどこまでも続いているばかりだった。
舗装されていない滑走路に、飛行機は右に左に傾きながら突っ込んでいった。里美は他の乗客が突然前の座席にしがみついたのを見て反射的に同じ行動をとっていた。
滑走路に着地すると、日本の田舎の悪路を走るバスでもこれほど揺れないだろうと思えるほど揺れてジャンプし、里美は夢中で前の座席にしがみついた。
ようやく飛行機が停止すると、里美は全身から力が抜けて行くような気がした。
その場ですぐにドアが開けられ、掘っ立て小屋のような空港ターミナルの方から、ところどころペンキのはげた灰色の自走式のタラップが猛スピードでやってきた。
転げ落ちそうになりながら飛行機を降りると、ひんやりとした空気とその中に濃く漂う草原の匂いに里美の感覚が集中した。北海道の日高へ行ったときに嗅いだ牧草のにおいに近かったが、それと少し違うはじめて嗅ぐ土の匂いのようなものが混じっているような気がした。なだらかな起伏が続く緑から黄色に変わるグラデーションが滑走路の周りを取り巻き、飛行機のプロペラが向いた方向に深い緑の小山と、さらにそのはるか彼方に雪を頂いた高峰が連なっていた。
広い草原のどこから集まってきたのか、飛行機から降りてきた客と迎えの人々が抱き合って声を交わし合っていた。日本の早春のような気候のポタンは実際にはそれ以上に風の冷たさが感じられ、里美はヘロン空港で準備していたダウンコートを着込んだ。
回りを見渡したが、会社が提携している旅行社を通じて頼んでおいたガイドはまだ着いていないようだった。
里美は飛行機から少しはなれた場所に立って、あとから降りてくる乗客を一人ひとり観察していた。