27
そこは人々が普段訪れている寺院ではなかった。恭介に連れて行かれたことのある古い遺跡の片隅に教会と呼ばれているその建物はあった。周囲の遺跡は廃墟にさえ見えるというのに、土蔵のような作りのその建物は、明らかに時代の下った時期に作られたものであった。
頭からすっぽりと黒いマントをまとったほっそりした女性が建物の入り口で里美を待っていた。そこから男性は入ることができないと言われていたので、里美は勝手にその人物を女性と決めつけていたのだった。司祭に仕える巫女の役目をするのだろうか、頭の部分に開いた二つの穴から覗いた眼差しはまさしく若い女性のものだった。
サラナとひと言二言短い言葉を交わすと、巫女は恭介の方を向いて天を指差した。恭介は女性が指差す先の天を仰ぐと、頭を垂れて神に忠誠を誓うというように巫女の手を取り、掲げて頭を近づけた。巫女は恭介の頭に右手添えると、そこまで送ってきた恭介に帰るようにいま来た方角を指し示した。巫女は終始無言であった。
恭介は里美に「あとで迎えにくるから」と告げ、いま来た道を帰っていった。
恭介が帰っていくと巫女は里美の手を取り、教会のドアに手をかけた。
教会は、まったく華美な装飾は施されておらず、キリスト教の教会や仏教の寺院などに比べると非常に質素な造りだった。平屋に10坪ほどの土間があり、その奥まった場所に祭壇がしつらえられていた。天井板のない祭壇の上の屋根の三角の部分に窓が付いていて、そこから柔らかい光が差し込んでいた。外の凍りつくような寒さとは対照的に、部屋の中には暖かな空気に満ちていた。
祭壇の前には、粗末な木製のベッドが置かれていた。ベッドとは言っても布団もシーツもなく、板がむき出しになっただけの低いもので、里美はその上にこれから横たわる人間が自分であることを知り、まるで生け贄にでもされるかのような恐れを抱いた。
里美はその場で儀式のための真新しい衣装に着替えさせられた。巫女ははじめて透き通るような声で、下着を含めてすべてを脱ぐよう里美に指示した。里美が脱いだものをひとまとめにすると、新しい衣装を渡した。それは里美が今までに見たこの国の人たちの服装とはまったく異なる、薄い、シルクのようなさらさらした生地でできたネグリジェのようなものだった。幾何学的な文様が全体にあしらわれていて、羽織ると自分がまるで今までとは違った人格の人間になったかのような錯覚を覚えた。
儀式のための衣装をまとった里美は、ろうそくの淡い光の揺らめきの中に衣装の文様が地肌に映り、迷彩の刺青をした未開の原住民のような不思議な姿でその場に立ち尽くしていた。
巫女は再び里美の手をとると、硬い板のベッドの上に横たわるよう導いた。ひやりとしたベッドの感触が里美をいくらか覚醒させ、回りを観察する精神的なゆとりを与えた。
巫女が里美が脱いだ洋服を抱えて控の間に消えると、薄暗い祭壇の上にどこからか小さな人影が現れた。教会の四隅の壁にかかげられているろうそくの明かりではその姿をハッキリと確認することはできなかったが、老人としてもあまりにも小柄なので里美は意外だった。
その人影は、分厚い経典を祭壇の上に置いて、その上に頭を置き何かしきりに経文を唱えていた。
「アンカラ・・・アンカラ・・・」
経文の中に現れる同じような繰り返しと透き通った声が里美の印象に残った。
しばらくすると先ほどの巫女が二本の燭台を持ってベッドのそばにやってきた。里美に見つめられてもまったく動じることもなく、ベッドの頭の方と足の方の両側に燭台を据え付けて帰っていった。
ベッドに明かりが灯されると、里美から回りの様子が見えにくくなった。
里美は司祭がベッドに近づくまで読経がすでに終わっていたことに気付かなかった。
「アローエ・・・」
突然耳元に経文が聞こえて、里美は息が止まるほどに驚いた。そして、里美の頭の上にかがみこんだ司祭の顔があまりにもあどけない顔をしているのであっけにとられてしまった。日本ならば街角で歓声を上げて走り回っているほどの年頃の少年かと思えた。
この地方には幼いときから神と直接交感することができる特殊な能力を持った子供を神の子としてあがめ、教組に祀り上げるというしきたりが、この地に宗教が伝来したときから面々とこの時代まで続いていた。現在の教組が死を迎える前に託宣があり、その託宣に基づいて教祖の指し示す方向に次の教組を求め、どんな困難を克服しても次の教組を捜し求めなければならない。その託宣により選ばれた神の子がこの幼い司祭なのであった。
幼い司祭は、ゆったりとした動作で手に持っていた経文がびっしりと埋められた一枚の古びた紙を里美の胸の上にのせた。紙をかざした司祭の影が教会の壁一面に大きく映り、ろうそくの炎の揺らめきに応じて、天井にまで映し出された影が右に左に大きく揺れた。
里美は目を閉じた。眼を閉じると、甘ったるい香があたりに漂っているのに気付いた。日本で嗅いだことのあるお香とはまったく異なる香りだった。その不思議な香りに、里美は幻覚を見たりする麻薬のようなものなのではないかと思った。
司祭は常に何か経文を唱えているようだった。
里美は胸に異様な圧迫を覚えて、薄目を開けて様子を観察しようとした。しかし、少し前までの状況から司祭の行動に変化はなく、里美の体に触れるようなことはなかった。
それにもかかわらず、経文の書かれた紙が置かれた胸のあたりが圧迫されているように感じられ、その感覚が乳房に集中してくるように感じた。ゆっくりとマッサージされているようであり、その部分が熱を帯びてきているようでもあった。その感覚が高じてくるにしたがって、幼い司祭の唱える経文と息遣いが変化し始めていた。一つ一つの息がとても深く、はーっと吐き出すたびに里美は体の奥深くまで達するような暖かいものを感じた。
里美は、これは話に聞いたことのある気功のようなものなのではないかと思った。友人が気功に凝っていて、超能力のようなその不思議な力を里美に熱っぽくはなしたことがあった。現代の医学でもどうすることのできない末期がんの患者が気功によって奇跡的に助かった話などを聞いても、里美はどうしても偶然が重なっただけではないかとしか思えなかった。気功はその人の持つ潜在能力を引き出すのであって、気功師は潜在能力を引き出すことができる技術者なのだと友人は話していた。里美は友人とそんな会話をしたことがあったことを、異常な体験をしているこのときに思い出していた。
いつの間にか里美の呼吸もゆっくりとした深いものに変わっていた。里美は急に胸が苦しくなってきた。病的な苦しさではなかった。もどかしい切なさのようでもあった。
と、乳首がびりびりとしびれているように感じた。
「あっ」
里美は思わず声を出していた。
体を縮めようとしたが、思うように動かなかった。まるで自分の体でないように重く感じられた。
乳房全体にしびれた感覚が広がり、里美は呼吸が乱れた。
乳房に対する刺激はある波動をもって、強くなったり弱くなったりした。
透き通った薄い布に包まれた里美の胸が大きく上下していた。
里美は声が漏れるのをこらえることができなかった。
熱いものが下半身にも移っていくようだった。
何か滑らかなものでマッサージされているような不思議な感覚が下半身に集中し、里美は尿意を覚えた。尿意はだんだんに高まり、ついに堰を越えたように体内から熱くたぎるものが流れ出したようだった。
その瞬間、里美は体が浮き上がるように感じた。下半身の奥深くまで横溢した自分以外のものが里美を甘美の境にいざなっていた。その感覚は一度引いてゆくように見えたが、次の瞬間にはその数倍の快感となって返ってきた。そのみちひきを繰り返すうち、里美はこの世のものとも思えぬ快感にわれを忘れて引きずり込まれていった。
「里美さん」
何度か自分を呼ぶ声が聞こえていた。しかしそれが誰の声であるのか、そのときの里美には誰の声でもかまわなかった。
里美はようやく目を開けることができた。
恭介は巫女に招かれてその場にいた。
恭介が里美の元に戻ってきたとき、里美はまだ非現実の世界をさまよっているように眼をつぶったままで時おり大きなため息をついた。
何度か里美の名を呼ぶと、そのたびに口をかすかに動かすのだが、眼をあけようとはしなかった。里美の唇は濡れたようにみずみずしく潤い、恭介はその唇に唇を重ねた。
ようやく眼を開けたとき、里美はその場に恭介がいることに驚いた。里美は恭介の存在が始めて会う人のようにとても新鮮に見え、その顔を正面から見ることはできなかった。
里美は、上半身を起こして恭介の胸に顔をうずめた。
恭介は、里美に手を貸し巫女から受け取っていた衣類を里美に渡した。
着替え終わると、二人は教会を出てホテルに向かった。
その日から里美と恭介の関係はまったく異なるものとなった。
はじめ里美は自分の中で何かが変わったのだと考えた。しかしその何かとはいったい何だったのかと考えたとき、それがセックスによって快感を得ることへの嫌悪感であったことを思い出した。そしてそれは賢司を失ったことへの喪失感によって里美のなかに生まれたものであった。儀式によって賢司との結びつきが絶たれたとき、里美の性は里美のものになり、快楽も里美の外へと解放されていた。
少しずつではあったが里美は恭介の愛に応えることが、真実の愛のひとつの形であることを疑わなかった。恭介の里美への愛は教会での経験に勝るとも劣らぬ喜びを与え、里美はその瞬間すべてを忘れるほどに惑溺した。
しかし果たして、あの不思議な経験を経ずに、これほど自然に恭介の愛を受けることができたか、里美にはイエスといえる自信がなかった。自分はウェックという土地によって新しい人間に生まれ変わることができたのだと里美は考えた。




