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夢の国紀行  作者: 石木 喬
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 里美の憂いを聞いたときから恭介は、二人の将来にとっても障害となる里美の心の傷を和らげるためには何が必要なのかと恭介は考え続けていた。

 日本への郷愁を煽るだけではなおさら里美の憂鬱な気持ちは募るであろう。かといってこれまでと同じようにポタンの生活だけに埋没していたのでは何も変わらない。里美の好きなこと言えば旅行と紀行文を書いたりすることだったが、それは里美自身がその気になりさえすればいつでも実行できることであったし、ポタンの生活に慣れようと努力している里美に対して何となく言い出しにくかった。


 恭介と里美はイレイの家族に誘われて寺院での宗教行事や自然崇拝のような民間信仰の儀式にも二人で参加するようになっていた。恭介はひとりで住んでいた時期に早くポタンを知ろうとしてほとんどの宗教的な催しに参加していたが、原始的で禍々(まがまが)しく思える儀式もすでに本来の意味は忘れられていて、形式的な祭りのようなものとして残っているものが多かった。

 日本でも行われている七五三や成人式の儀式は、遊牧民族の伝統を踏まえた勇壮なものが多く、恭介も誘われて何度か参加したことがあった。

 その中に結婚前の女性が受ける寺院での不思議な通過儀礼のようなものがあるった。男性はその儀式に参加することは許されなかったため、既婚の女性にどのようなものか尋ねても笑うばかりで決して教えてもらえなかった。里美は同性としてイレイの母のサラナに訊いて何となく知っているようであったが、堅く口止めされているのか恭介には決して話そうとしなかった。私も受けてみようかしらと里美が言ったことがあったが、恭介は冗談として聞き流し、里美もそれ以上話題にすることはなかった。


 草原の雪が斑に見えるようになり、乾いた南風が吹くと枯れた牧草の匂いが鼻を刺激するようになっていた。雪解け水でできた湿地には水芭蕉の緑の葉が萌え出し、葉の間から白や黄色の蕾が膨らみはじめていた。辛夷(こぶし)や山桜が街道や叢林を彩り、梢では小鳥の楽し気な(さえず)りがポタンの春を賑やかなものにしていた。

 イレイと二人だけでいつものようにポタンの伝統的なマトンなどを使った食事をしていた時、恭介はふと蕎麦でも食べたいなと思った。その瞬間恭介の脳裏にひらめいたことがあった。里美と二人だけで日本のものを食べてみても単なる郷愁に過ぎないが、それをイレイにも食べさせてイレイの家族や知人にも食べさせてみる。里美と協力して日本の食文化をポタンの人達に味わってもらうという思い付きは我ながらいい考えだと恭介は思った。そばを打つためには道具と食材が必要であり、うまく()ねるための技術も必要になる。日本にいたときのそば打ち体験が役に立ちそうだった。

 何よりもそのことで思うままにならない里美の気持ちを和らげてあげられそうなのが恭介の背中を押していた。

 その日から恭介は実現のために策を練り道具や食材が手に入るか下調べを開始した。


 ある日恭介はイレイを連れて家に帰ってきた。

「里美、いいものを見つけてきたよ」

 大きな袋に入っていたのは何かの粉のようだった。

「そばの一種なんだけど日本のそばとはちょっと違うんだ。ちょっと苦みがあるけど、これをポタンではそばがきのようにして食べてるんだ。久しぶりに日本そばが食べてくなって、そば打ちのまねごとをしてみようと思ってね」

「まあ、懐かしいわ。イレイにも食べさせてみたいわね。それじゃあ私は天ぷらを作ってみるわ。そばに天ぷらは日本料理の定番ですものね。日本の料理がポタンの人達にどう思われるか、興味津々ね」

「イレイの家族も招待してるんだ。里美も腕の見せ所だな」

 恭介は原料の実も里美に見せたが、確かに外見はそばの実のようだった。日本のそばと同様、どちらもタデ科の一年草だったが、日本の方は他の種類のソバとの受粉によって実をつけるが、ポタンのは自家受粉するので、異種を植える必要もなかった。蜂などの助けを借りなくてよい分育てやすい品種と言えた。

 恭介は大きなボウルとこね棒もイレイとあちこち回って見つけてきて、さっそくボウルにそば粉を入れ、つなぎの小麦粉と混ぜ合わせた。イレイが横にいて恭介がハイというたびにひしゃくに少しずつ水をバケツから汲んでボウルのなかに入れていく。粉をこねるのはイレイの家でもすることで、イレイは要領よく恭介の手伝いができた。出来上がった生地はしばらく寝せておき、その間に天ぷらの材料を三人で街まで買いに行くことにした。

 さすがにエビ天は大きなエビが手に入らなかったので無理だったが、川や湖に住む小エビや小ぶりな川魚は手に入った。野菜は日本に無いものもあったが、様々な種類のものが手に入ったので試験的に少しずつ用意して揚げてみることにした。めんつゆの材料はだし汁と醤油、みりんで作ることができるので日本と同じものが手に入った。てんぷら粉は売っていなかったが、これも薄力粉と卵で作ることができた。

 材料を手に入れて帰ると、さっそく恭介はテーブルの上に大きなまな板を置き、まな板の端にはそば生地を切りやすいように縦に板を打ちつけた。恭介にもそば打ちの経験はなかったので見様見真似であった。まずテーブルの上で麵棒で延ばすと生地はどんどん広がってテーブルいっぱいになった。生地をまな板に乗る適当な大きさにして、まな板の上でいつもは肉を切る包丁で畳んだ生地をなるべく細く切っていった。恭介がテーブルに切ったそばを並べるとイレイが小麦粉を振った。

 かまどの上で大鍋に湯が煮えたぎっていた。

「じゃあ、僕はそばを茹でるから、里美とイレイは天ぷらを頼むよ」

 恭介は大鍋に切ったそばを投入した。

 その間に里美は天ぷらの食材を大きな皿に並べ、ストーブの上で中華鍋のような大きな鍋に油を熱して、代用てんぷら粉を付けた魚や野菜を少しずつ揚げていった。イレイは里美に教わり、小エビをまとめててんぷら粉につけ、小さな塊にして鍋の中にそっと入れた。次々に大きな皿に小麦色に揚がった美味しそうな天ぷらが並べられていった。


 さっそく恭介とイレイはイレイの家族に知らせに行った。

 イレイの両親には料理ができたら迎えに行くからと言ってあったのだが、二人は祭りのときのような正装をして待っていた。二人とも錦織のような鮮やかな模様の長い着物を着ていたが、下にズボンを履いているのが日本と違っていた。頭には羽根飾りのついた厚い毛皮の帽子を被り、獣皮の長靴を履いていた。

 サラナはイレイの着替えも用意していて、さっそく可愛らしい民族衣装に着替えさせている。

 兄のテルマは出かけていたので戻ったらすぐ来るようにメモを置いて、四人で恭介の家に向かった。

「いらっしゃい。まあ、きれいね」

 里美は初めて見る三人の正装に思わず見とれてしまったが、手の方は相変わらず忙しそうに動かしていた。

 里美は天ぷらをひとりずつ取り分けて蕎麦のつゆも添えてテーブルに置いていった。

 初めて見る天ぷらにイレイの両親は興味津々と言った様子で眺めていた。

 恭介が皿に乗せたざるの上に水を切った蕎麦を乗せて運んで、食べ方を実演した。

「天ぷらも同じつゆで食べるのよ」

 イレイたちも見様見真似で蕎麦をつゆにつけ、口に運ぶと顔を見合わせながら「おいしい」と言った。蕎麦には少し苦みがあったがそれがかえって恭介と里美には新鮮に感じられた。

「日本で食べるのとあまり変わらないわね」

「ブハン、これは何という食べ物かね」

 イレイの父マモルが訊いた。

「こっちがソバで、こっちがテンプラ」

「ソバ、テンプラ」

 マモルは器用に箸で蕎麦を持ち上げ、つゆにつけて口に運び、天ぷらをサクサク音を立てながら食べていた。カラフルな民族服を来たイレイの父母が蕎麦をすする姿は日本では決して目にすることのできない異文化交流の瞬間だった。

「気に入ってもらえて、作った甲斐がありました。

 恭介は里美がポタンに来て初めて見せる明るく華やいだ様子が何よりもうれしかった。

「日本にはまだたくさん美味しいものがあるのよ。今度作ってみますから楽しみにしててね」

 食事が終わった後で里美が日本から持って来た緑茶をだすと、イレイの父母は渋いと言って妙な顔をした。イレイに土産だと言って持って来た山羊の乳を入れさせると、今度はうまそうに啜っている。

 ポタンでは渋みを消すためかミルクを入れて飲むのが一般的だから、やはり飲み慣れたものがいいのかもしれない。

 イレイが両親とともに暮らす冬の間に、恭介と里美も何度かイレイの家に食事に招待されていた。そのときもてなしを受けるのは羊肉や山羊乳を使ったポタンの伝統的な料理だった。そこに日本の発酵食品などが意外に合うのではないかと里美は思った。それには漬物が一番手短だったが、しばらく食べていなかった納豆を作ってみたらみんなどう思うかしらと、日本人でも好き嫌いのあるねばねばの納豆をポタンの人達が食べる様子を想像して一人愉快になっていた。

 日本料理のことを考えはじめると里美の頭のなかでは色々なプランが勝手に浮かび始めていた。


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