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夢の国紀行  作者: 石木 喬
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 里美は恭介の語る果てしのない物語の世界に迷い込んだような気がした。

 里美も海外旅行の経験は豊富であったが、ポタンを訪れるまではあくまでもガイドブックに載っているような代表的な観光地ばかりだった。

「そろそろ帰ろうか」

 まだまだ続くと思ったとき恭介が言った。

 恭介は自分をノマドのようなと表現したが、恭介の長い話の中には何故日本に戻ろうとしないのかについてあまり触れられていなかった。里美はその点について何か他に事情があるような気がした。

 今日の話があまり長すぎて話し切れないのか、それとも意図的にその部分を省略しているのか。恭介のことだから必ずいつかまた話してくれるだろう。里美はその時を待つことにした。

「ここからロッジまでは三十分以上かかるだろうから、明るいうちに帰らないと道に迷わないとも限らないからね。話しをしていてお腹が空いていたのも忘れてしまっていたから、ロッジに戻って何か食べよう」

 恭介に言われて里美は急に空腹を覚えた。

「そう言われると私も急にお腹が空いてきたわ。何か美味しいもの食べたいわね」

 恭介はストーブの中の熾を十能で掻き出して火消壺の中に入れ、蓋をした。そうしておくと半日近く熾火が残り、緊急な避難者の役に立てる可能性があり、この習慣はこの地方の家庭でも普通のことであった。火の後始末を終えると、里美を促して小屋の外へ出た。

 二人が小屋の中にいる間に雪雲が通り過ぎたのか、辺りはさらりとした雪に覆われていたが、空を見上げるとすっかり元のような青空に戻っていた。大気は冷え込んでいて吐く息が煙のように拡散したが、体はスキーウエアのなかにこもったぽかぽかとしたぬくもりのためにまったく寒さは感じなかった。

 恭介は車道に出るのではなく、スキーヤーが利用している疎林を切り開いた細い道のほうに里美を導いた。緩やかなアップダウンが続く林の間を、里美は恭介の背中を見ながら眼の前に描かれるシュプールを追った。


 今の私の道は恭介が描いたものだ。里美は恭介の描くシュプールを追いながらそう思った。恭介の語る過去はそれまで里美の想像の世界ですらなかったものだった。それがいま、ともに切り開いていこうとする現実のものになっていることがすぐには信じられなかった。恭介は自分を信じてくれているが、その私が頑なな拘りから抜け出せずにいる。それで恭介を信頼していると言えるだろうか。里美の拘りは理屈ではなく生理的なものだっただけに、その難題から抜け出す道は見つけられそうになかった。

 里美にとって初めての男性となった賢司によって教えられ、知ることのできた女性としての性的な喜びは里美に賢司への絶対的な信頼へと形を変え、賢司に裏切られることになって、そのことがかえって里美自身を嫌悪させる原因となってしまっていた。賢司に甘い言葉で籠絡され、身も心も捧げたつもりの果ての裏切りは決して許されないはずだった。それなのに未だに賢司を引きずっている。賢司が別な女性を愛するようになったのならまだ許せたのだが、結婚相手が会社のオーナーのお嬢さんだと聞いたとき、賢司が打算の末に里美を捨てて新しい女性を選んだのだと知った。都合の良いようにセックスだけの友だちとして標的にされ、遊ばれていたのだと思うと自分がすっかり汚れてしまったように感じられた。賢司によって与えられためくるめく快楽を思い出すたびにぬぐい去れない罪だとの思いが里美の身体に沁みついてしまっていた。

 里美は恭介の愛が怖かった。このままの関係でというのが里美の本音だったが、それではあまりに恭介に対して申し訳なかった。恭介に限らず男性が愛する女性に性愛の感情を抱くのは自然であり、当然のことだった。それを賢司への拘りから厭い、避け続けている自分が許せなかった。

 恭介はいつまでも待ってくれるというのだが、そんなことが許されるだろうか。ウェックに骨を埋める覚悟を聞かされていた里美は、自分が変わらなくては恭介との本当の意味での家庭はいつまでたっても築くことはできないと知っていた。

 楽しいはずの恭介との生活すら捨てて、いつか日本へ帰らなければならない日が来る予感が里美のなかで膨らみはじめていた。


 そのことを恭介に打ち明けることができたのはスキーから戻って数日後のことだった。

 恭介は相変わらずいつまでも待つというのだが、里美の心の内を知って里美の焦燥はようやく恭介にも伝わりはじめていた。いつまでも待つと言った恭介にはひとつの考えがあったのだが、それを里美が受け入れるかどうかはまったく予測不可能であったし、それを里美に求めることで永遠に里美を失いかねない恐れも恭介は抱いていた。恭介は里美が自分を受け入れる日が必ず来ることを信じているから、ともかく自分を信じて一緒にいて欲しいと里美に伝えた。


 一夫多妻の風習の残るこの国に生まれたなら里美の負担も違ったものになっていたであろうと恭介は思った。

 一昔前の日本でも女性は男性の経済的基盤の上に生きていた時期があったが、里美の生きる現代は女性の自立が確立されて、職業にも男女が平等に就くことができる時代である。しかし、そんな時代だからといって女性の苦しみが消えたわけではなかった。そこには相変わらず男性優位の考えを持ち続ける社会の存在があった。

 恭介はこの国に残る男女のおおらかさに惹かれていた。前近代的ともいえる様々な風習がポタンには残っていたが、西洋から流入する近代化の波がいつかそれらの風習をも変容させていくであろうことは間違いない。しかし、もうしばらくは心の豊かな国であり続けるであろうから、そのあいだにこの国の持つ不思議な力で何とか里美の傷ついた心を癒してあげたいと恭介は思い続けていた。

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