表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢の国紀行  作者: 石木 喬
2/28

「そうか、じゃあ行ってこいよ。里美の未来に乾杯!」

 送別会と称して恋人の坂巻賢司が手配してくれた道玄坂の小料理屋辛夷(こぶし)のこぢんまりとした座敷に二人で向かい合い、ビールを注いでジョッキをあわせたときのカチンという音がジェット機の低いエンジン音の中でリアルによみがえってきた。

 暑い夏が終わりを迎え、ようやく凌ぎやすくなったころだった。

 送別会と言いながら、賢司から別離を惜しむような言葉はひとつも出なかった。「どうしてそんな国に行くのだ」と詰問されるのではないかと恐れていた里美は、いつもよりも甲高い声で話す賢司の態度に、むしろ内心喜んでいるのではないかとさえ思えたのだった。

 テーブルの上には里美にも聞かずに賢司が頼んだ刺身やつまみが次々と運ばれた。

 日焼けして浅黒い顔の賢司の前に、テーブルを隔てて対照的に置物のように沈んで座る里美は、あれほど望んでいた旅であったのに、負け犬が尻尾を巻いて引き上げていくときのような惨めな気持ちにさせられ、恋に破れて傷心のままに海外に赴任するさえないヒロインを演じてでもいるかのような気持ちにさせられた。その日の賢司がいつもの賢司とそれほど違っているというわけではなかったのだが、現実には無理としても、俺も一緒に行きたかったなという言葉くらいはあっても良いのではという蟠りが里美の感情の内に渦巻いていた。

 里美が初めて計画を話したときには、興味深そうにいろいろと聞いたのだが、その日の賢司はまったくそのことには触れようとせず、終始明るく、運ばれた料理にせっせと箸を運びながら、ひとり舞台のように自分の方のことばかり話し続けていた。

「じゃあ、気を付けて行って来いよな。準備で忙しいんだろう」

 そう言って玄関先に待たせていたタクシーに乗せられたとき、里美は当然賢司も一緒に乗るものと思っていた。ところが賢司は運転手に里美のアパートの住所を告げて車を離れ、タクシーは里美だけを乗せてそのまま出発してしまった。

 里美は賢司との最後の夜を期待していた自分が一人取り残されてしまったような空疎な感覚でタクシーの後ろの座席に座っていた。そして賢司とのセックスを心待ちしていた自分に嫌悪感を覚えた。


 里美と賢司との関係は大学時代から続いていた。

 他大学との合コンで初めて賢司を紹介されたとき、水泳で鍛えたがっしりとした体格に似合わぬ甘いマスクでやさしく話しかける賢司に里美は心魅かれ、親しそうに他の女性と話している賢司を見て里美は初めて自分にも嫉妬の気持ちがあるのだと気づかされた。周囲の女性が賢司の名前を口にしているのを聞いたり噂話を耳にしただけで気になって仕方なかった。

 賢司の方では、合コンのグループに全く馴染んでいないとさえ思えるワンピース姿の里美のスタイルの良さと、面長な幼さの残る顔立ちが気になっていた。大人っぽさと子供っぽさが同居しているようなアンバランスが何とも言えず魅力的にみえたのだった。

 二回目の合コンのときに隣の席になった賢司は話術たくみで、里美を飽きさせることがなかった。場が盛り上がってきたとき、賢司はアルコールを覚ましに行くという口実で里美を外に誘った。二人だけで合コンの場を抜け出すのはカップル誕生の証明のようなものだった。はじめて二人だけになったときに、賢司は里美をひと目で好きになったと話した。

「みんなジーンズなんか履いているけど、僕はラフな格好をして活発な女性よりも、里美みたいなおとなしい女性の方が好きだな」

 賢司のおとなしい女性という言葉を違和感を持って聞きながらも、里美はその時はそれほど深い意味に取らなかったし、それ以上考えることもしなかった。そのころ里美の大学ではラフなスタイルが流行していたが、なぜか里美は小さい頃から流行っているものを着るのが好きではなかった。白っぽいワンピースを着て、真っ直ぐな黒髪の里美の姿がかえって賢司の眼を引いのだろうかなどと何となく思っていた。里美自身は決して自分が美人とも思っていなかったし、ましてや賢司の言うようなおとなしい女生と思ったことは一度もなかった。里美の学生仲間は、国内旅行はもとより海外旅行にさえ一人で出かけて行ってしまう里美をむしろ行動的な女性と考えていた。

 しかし里美は賢司の前では理由もなくおとなしい女性を演じてしまっていた。その行動こそ里美自身にとって理解不能でかつ不可解と考えていたことだった。

 賢司は里美に知り合って何度目かに、飲みすぎた里美をはじめて自分の部屋に誘った。里美にとっての初めてのセックスは意識のはるか彼方で過ぎていき、ロマンチックなひと時を思い描いていた里美には味気ない思い出となってしまった。

 賢司が大学を卒業してテレビ局に就職しても交際はだらだらと続いていた。里美が卒業してから結婚のことを持ち出してもあいまいな返事を返すばかりで、そのくせ別れようともしないで会うたびに賢司は里美の体を求めた。

 社会部に所属していた賢司はいつも特ダネのことばかり考えているようだった。

「記事の価値は商品としての価値だ。大衆が興味を持ってくれなかったら一円の価値もない。価値は取材のなかから記者が創造するものだ。つまり事実と真実は違うということだよ。事実は一つだけど、真実はいくつもの映像から記者が選び出すものだ。その眼を持っているかどうかが記者の価値だと思うんだな」

 素人の里美向けにかみ砕いたような賢司のメディア論は非常に説得力があった。しかし里美には映像に偏り過ぎて人間が不在になっているような気がした。マスコミである以上やはり創り出された真実のようなものより、事実のほうに重みがあるのではないかと思われ、賢司の理論に賛成しかねていた。しかし、そんなことは賢司にはどうでもよかったようだった。捏造すら真実と言いかねない持論を吐き出すだけ吐き出すと、里美は賛同しているものと勝手に決め付け、「そんなことはどうでもいいから、まあ一杯やれよ」と常に一段上位に立ったところで話しを終えるのだった。里美はなぜその作られてしまった主従のような関係をなぜ打ち破れなかったのかと後悔し続けていた。

 里美はこの旅が二人の関係を変えてくれることを心の底から願っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ