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ブハンと名乗る前の今田恭介が初めてポタンを訪れたのは十年以上前のことだった。
商社マンとして上海に駐在していた恭介は、本社からの連絡により様々な現地調査に出かけた。主に製品の原材料の調達を手掛けていた恭介は重慶や武漢などに長期に滞在し、そこからさらに足を伸ばして中国の奥地から土や鉱物、植物などのサンプルを採取して深圳にある現地法人の研究所や本社に持ち込むという仕事を続けていた。
恭介が持ち込んだサンプルは試料として受託先企業の研究室に届けられ、分析に掛けられ、新素材の原料となる金属や新しい効能を持つ医薬品開発のために役立てられることになっていた。これらの研究は秘密裏に行われていた。それには中国当局の厳しい規制のために日本国内の研究所に持ち出せないという事情も働いていた。希少金属などは経済面よりも防衛などの安全保障の面でどの国にとっても重要なテーマとなっていた。
依頼主の企業とは新製品開発のための機密保持契約を含む業務委託契約を結び、気の遠くなるような時間をかけてもそれが日の目を見るのは万に一つあるかどうかの神頼みのような作業であった。そのことは医薬品の開発において顕著であった。契約では日常的な活動に充てるための活動費のほかに開発のフェーズごとに、サンプル一点がいくら、基礎研究が終了したらいくら、臨床研究や試作に移行するといくらというように細かく定められていた。商品化が最終的な段階で、そこからは商社として原材料の輸入を一手に引き受けることとなっていた。材料輸入部門ですでにいくつかの成功例があり、会社の利益に大いに寄与していたが、そこまでの足取りは並大抵の苦労ではなかった。恭介のような未開の土地の草の根を踏み分けるような地道な活動があってこその成功であった。
時には目的を偽って輸出許可を取り、日本国内の研究所で素材開発を行うこともあったが、当局に摘発される恐れが常につきまとっていたし、産業スパイなどが暗躍する研究機関からはいつ情報が流出するかという危険も排除できなかった。
しかし恭介が採取したサンプルがどのような用途に利用されているのか知らされていない以上、恭介の意に介することではなかった。
恭介は少数民族の住む高山の奥地にまで分け入り、時には通訳を連れて土地の言い伝えや風習などの中からヒントを得ながら、たくさんのサンプルを試験管に採取して数か月に一度深圳の研究所に持ち込んだり上海を経由して本社に持ち込んだりした。
恭介は徐々に当局の監視の目を感じるようになっていた。
本社への異動を命じられたとき、恭介はちょうどそのときを潮時かと考え、すっぱりと会社を退職してフリーのアドバイザーの道を選んだ。恭介にはそれまでの貢献に見合った役職が本社に用意されていたのだが、それまでほとんど組織からの束縛を受けずに自由に活動してきた自分が、会社の事務室で席を温めるだけの仕事で満足できるとは思えなかった。会社は恭介を手放すことを惜しんでコンサルタント契約を結ぶことで繋ぎ止めることにした。それまでと同じようなサンプル収集の仕事に加えて邦人ビジネスマンの現地案内をも恭介は引き受けることになった。会社にとっても恭介をサラリーマンとして出世のエスカレーターに乗せるよりははるかに貢献してもらえるという思惑があり、破格の条件で恭介とコンサルタント契約を結んだのだった。
恭介には商社に勤めていた間に知り合った多くの現地協力者がいた。長い間に培った協力者との信頼関係が恭介にとってかけがえのない財産だった。
その協力者と共に行動しながら、フリーになってからの恭介の行動範囲は中国以外の東アジアや中央アジアにまで広がっていった。
勤めていた会社から提供されたオフロード車は退社前に使用したものをそのまま恭介の専用とする許可を得ていた。西域を知悉した現地語にも堪能なガイドも雇い、古都長安(今の西安)からシルクロードに沿って西へ西へと車を走らせた。