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冬のポタンは抜けるような青空がどこまでも続いて爽快な気分を味合わせてくれることもあったが、灰色の雲が低く垂れこめていることの方がはるかに多かった。草原特有の枯れ草の匂いや牧羊の匂いなども雪のためにすっかり封印されたように澄み切った空気が大地を覆い尽くしていた。馬橇が駆けるときのシャンシャンというリズミカルな鈴の音が乾いた空気の中を通ってブハンの家にいる里美の耳にまで届いた。目隠しを付けた馬が長い睫毛に雪を乗せて軽快に走り過ぎていくのはポタンの冬の風物詩のひとつとして里美の心に刻まれた。高台にあるブハンの家からは鈴の音とともにその行き交う様子が手に取るようにはっきりと見えた。
「深呼吸したいけどからだの中が凍りつかないかしら?」
里美の子供のような質問にブハンは笑って答えた。
「それだと僕はとっくに凍りついて死んでいるよ。この辺りは最低でもマイナス三十度くらいだから、まだまだ人間は普通に息を吸うことができるんだ。ただ里美の肺はまだ慣れていないから、一度に冷たい空気をいっぱい吸うのはやめた方がいいな。少しずつ慣れていくと肺が強くなって、そのうち深呼吸もできるようになるよ」
ポタンでは小さなころから零下三十度にもなる冬の晴れた日には外の空気を吸って肺を極寒にも慣れさせているのだというブハンの説明だった。確かにウェックの街の中央にある公園には休日の天気の良い日には家族連れの人々がただベンチに座って日光浴をしたり、大人の男性が上半身裸になって乾布マッサージをしたりしているのを見かけた。その中にはベビーカーに乗せた赤ちゃんなどもいて、里美はあんな小さな子を外に連れ出して風邪でもひかせたらどうするのかしらと思ったことがあったが、むしろ体を守るための習慣であったのだとようやく理解することができた。
冬のポタンでは雄大な景色のほかにも、里美の心を掴んで離さない、神秘的な自然現象も見られた。
冷え込むと、空気中の水分が凍りついて霧のようになってきらめきながら舞うダイヤモンドダストが里美の目を奪った。朝夕のほのかな木漏れ日の中を舞い降りて来る細かな宝石のようなきらめきは、里美にはそれが神様の贈り物のようにも思えた。里美が両手を差し出すと、触れたとたんに宝石はただの霧のようにはかなくも消滅していった。里美はため息交じりにその様子を見つめ続けた。
朝起きて窓ガラスに写る窓霜にも魅入られた。大きさや形がその都度違い、里美はその美しさにため息をつくほどだった。一夜のうちに描き出されて部屋が温まるとともに消えていく美しくも儚い造形に人の命の儚さを重ねてみたりした。里美はそれが雪の結晶であるのだと信じ込んでいたのだが、イレイにコートに付いた六角形の雪の結晶を教えられて、初めてその眼で美しい自然の造形に魅入られた。ルーペを通して観る精巧な作品はとても人の手で作ることができるとは思えなかった。中心から伸びた六本の枝からさらに分岐し、一番美しい形で成長を止めているように見えた。「花の命は短くて苦しきことのみ大かりき」林芙美子の有名な言葉が思い浮かんだ。美しいものはそのままで長くは留まることができない。よく見ると完全な対称とは言えなかったが、吐く息に瞬く間に消え去る美しいシンメトリーに、里美は造形の神がいることを疑わなかった。
遠くから吠えるような風の音とともに吹雪がやってくると、日中でも街中は帳に包まれたように暗くなり、里美がヘロンで足止めを食った時のような荒れた日が何日も続いた。電線への着氷や着雪が原因という停電もしばしば起こったが、里美はランプとストーブの焚口からの灯りにすっかり慣れてしまっていた。吹雪が続くと、頑丈なブハンの家も土台ごと揺れるように感じられ、里美はどうか無事におさまりますようにと祈るような気持であった。
そんな猛吹雪の中でもブハンはしばしば狩りに出かけて行った。里美は猛吹雪の中を雪を掻き分けながら体を低くして進むブハンの姿を思い浮かべると、ひたすらに無事に帰るようにと祈った。何もそんな日に出ていかなくてもと里美が言うと、ブハンは動物が巣穴に潜んでいるところをおびき出して狩りをするので、足跡を追いかけてする狩りよりもはるかに楽なのだと言った。それを聞いた里美は、嵐を避けて巣穴でのんびりしている動物がいかにも可哀想な気がした。
夕方になってもブハンが帰らないことがあった。何かあったのではないかと里美の心配は募るばかりであったが、イレイは一向に平気な様子で、里美にはイレイの気持ちがなかなか理解できなかった。ブハンが翌日になって帰ってくるとイレイは何事もなかったかのようにごく普通にお帰りなさいとブハンに抱きついていった。
ブハンは里美が一晩中心配で眠れなかったと聞いて、きちんと説明していなかったことを謝った。
「そうだった。サトミに話しておくんだった。暗くなってから雪の上を歩いて帰るのは方向が分からなくなってかえって危険だから、そんな時は雪の中に穴を掘って泊るんだよ。ポタンではごく普通のことなんでイレイは心配なんかしないんだ」
狩りに行く時は干し肉などの携帯食を持っていくから、二三日は雪の中に閉じ込められても大丈夫なのだとブハンは説明した。土地の人間で一週間雪の中に閉じ込められて無事帰ってきた例もあるという。雪洞の中は意外に暖かいんだと言われても、里美は俄かには信じがたかった。里美はブハンが狩りに出かける時にリュックに柄の短いスコップが縛り付けられていたのを思い出して、なるほどそうだったのかと一応はブハンの説明に納得したが、吠えるような猛吹雪の夜に里美の心配が消えてなくなることはなかった。
何日も続いた嵐の後で雲間に見える青空がヘロンの人達には冬の何よりの喜びだった。子供たちは外に出てスキーや橇に乗って遊んだり雪合戦などをしていた。里美は着ているもの以外は日本の子供たちと全く変わらないなと思った。
そんなある日、ブハンが里美をスキーに誘った。イレイは数日前から姿を見せていなかったが、家の手伝いでもあるのだろうと、ブハンは気に掛ける様子もなかった。
その日は朝から晴れ上がって絶好のスキー日和だった。
里美にとっては苦い思い出の残るスキー場だったが、そこでの事故が二人の間を近づけた思い出の場所でもあったので、里美は是非ともその場所を再訪してみたかった。ブハンは愛車にスキーなどを積み込み、ウェックの街に一軒だけあるガソリンスタンドに立ち寄って給油すると、馬の足跡なども残る真っ直ぐな道を疾駆させた。車の後ろにはもうもうとした雪煙が舞い上がった。
はじめて馬で遠出をしたその場所まで車で三十分ほどかかった。純白な雪原のなかに立つ赤い屋根のロッジは、スキーシーズンを迎えてペンキを塗り直したとみえ、ゲレンデを背景にして遠くからでもよく引立って見えた。駐車場に車を停めてロッジに入ると、中は大勢のスキー客であふれていたが、誰もが民族服のようなカラフルな衣装を着ていた。山岳用品の店で準備した里美の花柄模様のスキーウエアが珍しいらしく、何人かの顔見知りが近寄ってくるとあっという間に里美の周りには人だかりができていた。この土地では知らぬ人のないブハンの相手を一目見たいという気持ちも手伝っていたようだった。
ロッジから出ると、一面の白い大地はすべての光を反射して刺すような光線を二人に浴びせかけた。
スキー場に遊ぶ人々はボーゲンとかパラレルといった里美の知っている型にはまった滑り方をしている者は少なく、長靴の下に履いた木製の短いスキーをストックを使って器用に操り、まるで馬に乗るようなその滑り方は、騎馬民族特有の乗り方と言っても過言ではなかった。ボーゲンにしてもパラレルにしても里美の良く知っている滑り方は、力を最小限にして効率的に滑る滑り方だったが、目の前の人々はただ真っ直ぐに大きな弧を描いてすべるのではなく、右かと思えば左、左に行ったと思うとまたすぐに右に回転する。よくまあ疲れないものだと、里美はこの土地の人達のエネルギーに感心した。里美はオリンピックで上村愛子が滑っていたモーグルを思い浮かべた。
古そうな大型バスがそのまま止められていて、そのエンジンを利用した簡単な構造のリフトが、ロープでスキーヤーたちを引き上げながら、ゲレンデの端をダッダッダッダというエンジンの音とともにゆっくりと動いていた。
ロープの結び目から下がる紐に掴まり、スキーを履いたまま引かれてゆくと、三分ほどで二人は小山の頂上に到着した。小山の上からはゲレンデに遊ぶ沢山の人々の姿が一望できたが、里美は小さな街のどこにこれだけの人がいたのかしらと驚いた。ゲレンデはあたかも民族服の乱舞を観るようだった。
いま登って来た整備されたロッジへのコースと、それとは反対に自然そのままの雑木林を抜け、その先に小さな避難小屋の立っているコースの二つのコースが目に入った。小さな小屋のあるコースは、リフトがないために、一度滑り降りてしまうとぐるりと山の裾野を迂回してロッジに戻らなければならないのだが、裾野を回るために距離もあり相当時間がかかりそうだった。山頂のスタート地点には、そんな内容を知らせているらしい絵図の入った大きな看板が立てられていた。
ブハンは雪国の生まれで子供のころからスキーを生活のために利用していたので、プロ並みの滑りを見せた。里美も毎年冬には家族で何度か滑りに行っており、ブハンほどとは言えないまでも乗馬でみせた運動神経の良さでしなやかな滑りを披露した。
ブハンは山小屋のあるバックカントリーの方に里美を誘いたかったが、里美を危険な目に遭わせたくないと思いゲレンデで里美のすべる様子を見ていた。しかし、ブハンの思う以上に里美の腕は上級者のものだった。ブハンと里美が滑り降りていくと、他の客たちは滑りを止めて二人の大きな滑りに見入った。
何度目かに頂上に立った時、ブハンは決心した。その日の好天は、晴れ間の少ない雪国ではひと冬の間でめったにないチャンスでもあった。ブハンは里美に声をかけると、さっと小屋のコースの方に降りていった。里美もすぐにブハンのあとに続いた。
さらりとした新雪を巻き上げながら風を切って滑り降りてゆくのは、このうえもなく爽快な気分だった。里美は深い新雪にスキーを取られるように感じながら滑るのは初めてのことだったが、スピードが乗ってくるとまるで雲の上を進んでいるように雪の抵抗も感じなくなった。ターンする時に上がる雪煙が爽快なバックカントリーの醍醐味を里美に味合わせた。
何度かブハンと里美が入れ替わって、二人は新雪の上を大きなシュプールを描きながら斜面が緩やかになる白樺の林まで降りていった。
里美はブハンは里美に追いつくと、白樺の木を背にした里美を正面から抱擁した。二人の体はすっかり温まっていた。白い息が二人の間に煙のように漂った。無言で唇を交わすと、互いの冷たい唇の間から漏れてくる暖かい息が、清冷な大気の中にあって、二人の命がそこに存在したことの確かな証しのように里美には思えた。
「もう一滑りだ」
「競争よ」
里美は恭介の先に立ってストックを雪に突き立てると、大きなシュプールを描きながら一気に小さな小屋のほうに向かって滑り降りていった。恭介が滑り降りてゆくと、里美はすでに小屋の前に立っていた。
小屋の入り口は、前夜の雪が吹き溜まりになっていてなかなか開けにくかった。入り口の横の壁に掛けられていたスコップを使って、ブハンは溜まっていた雪を掻いて脇に積み上げ、玄関前を踏み固めた。ドアの閂を外して中へ入ってゆくと、雪に覆われた小屋の中は薄暗かった。目が慣れてくると鍬や鎌などの農具などが壁にいくつもかけられているのが分かった。入り口の両側に小さな窓がついていたが、窓に雪が付着していたためにそこから入ってくる光はほんの薄明かりの程度でしかなかった。
ブハンがランプに火を入れると、柔らかな明かりが小屋の中全体を照らした。里美はそこが始めてきた場所のように感じた。
その場所は確かにけがをした里美を運んでブハンが看病してくれた避難小屋に違いないのだが、ほとんど里美の記憶になかった。ただ、意識が戻ったとき、窓際に置いてあったベッドに寝かされていてことだけは覚えていたが、そのベッドは小屋の隅の方に移されて、その上に毛布などが積み重ねられていた。
部屋の中央のストーブには見覚えがあった。灯されたランプの下でブハンが語った伝説のことを思い出すと、その時の記憶が徐々によみがえってきた。
奥にはたくさんの藁が積まれていた。ブハンは一晩をその藁のなかにもぐって過ごしたのだった。ストーブの周りは土間になっていて大きな切り株が椅子のように置いてあり、薪がぐるりとストーブを囲むように並べられていた。
ブハンは里美をわらの上に座らせると、藁と薪でいとも簡単に火を起こした。ストーブに火が入ると、ストーブの小窓からの灯りで小屋の中は幾分明るくなったようだった。小屋の中が温まると、入り口の両側の窓の雪が少しずつ融けて流れ落ちていった。
ブハンは、里美の横に座ってただじっとストーブの燃え盛る炎を見つめていた。里美がちらりとブハンの横顔を見たときも、ブハンの視線は微動だにしなかった。
「どうしたの」
沈黙に耐えられなくなって里美が尋ねると、ブハンは重い口を開いた。