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夢の国紀行  作者: 石木 喬
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 厳しい寒さを覚悟してポタンまでやってきた里美だったが、案ずるほどではなかった。外の気温に比べて家の中は汗をかくほど暖かく、大きなストーブとそれから伸びるくねくねと曲がった煙突が暖炉のような役割をして家全体を温めていた。家の外はものみな凍りつく寒さだったが、家の中で着込んで暖まってから出ると、しばらくの間はまったく寒さを感じなかった。長い時間外で仕事をしているブハンは、常に身体を動かしているせいか、寒いと言って帰ってくることは一度もなかった。

 ブハンの家にはイレイのほかに馬や馬橇に乗った土地の人間が入れ代わり立ち代わり現れて、肉や卵や野菜と言った食料を置いていった。それはブハンの仕事の報酬であることが多かった。たどたどしい言葉で応対する里美を物珍しそうに眺めながら、その噂を来た者が広めているのか、日に日に来客は増えていった。その中には里美の姿を一目見たいがために用事もないのにわざわざ遠くからやってくる物好きも混じって、動物園のパンダでも観に来るかのような賑わいだった。イレイが会話のできない里美に代わって応対しても、来客はひと言でも里美と話そうと里美に近づいてきた。家に帰ってから自分と話したことを自慢しているのだとブハンから聞くと、里美がこの町を訪れたことは大きな事件になっているのだと知った。おかげで自然の冷蔵庫のようなブハンの家の食糧庫の中は訪れる人たちが持ってきてくれる食料でいっぱいになった。「里美のおかげだよ」とブハンは冗談を言った。


 イレイと暮らす毎日は里美にブハンと過ごす夜の息苦しさを忘れさせてくれた。ブハンはその日以来里美のからだを求めることはなかったが、里美はブハンに対する真摯な愛とそれに矛盾するような拒絶が自分をも分裂させているように感じていた。その根底にセックスから得られる快感に対する罪悪感があることは間違いなかった。そしてそれは賢司とのことが起因していることも分かっていた。誰のせいでもない自分の優柔不断が引き起こしたことで、抜けないトゲのように里美を苦しめているのだった。

 ブハンとの関係は時間が解決してくれると思うしかなかったが、いったいどのようにしてと考えると里美は暗澹とした気持ちになるのだった。互いにそのことについて触れないように気を使いながら、表面上は何事もなかったように取り繕うことはかえって二人の間の溝を深くしてしまうことにもなりかねないと里美は思った。

 イレイがいてくれたことが里美にとって何よりの救いだった。イレイがいることで里美は過度にそのことに囚われることなく生活することができた。


 里美とイレイは仕事の合間を縫って互いの国の言葉を教えあい、徐々に意思を通じ合えるようになっていった。

 里美よりはるかに手綱さばきのうまいイレイは毎日のように里美を遠出に誘い、雪の草原を遠くまで連れて行った。晴れ渡ると地平線の彼方まではっきりと見え、イレイはその地平線を指差して競争しようと里美に言った。里美の乗馬の腕前もめきめき上達し、すぐにイレイに遅れを取らないほどに手綱さばきも上手になった。

 そんなある日、遠出した高台の上で二人は馬を休め、積んできた飼い葉を馬に摂らせながら里美が作ったおにぎりを食べていた。

「うっ」

 イレイがおにぎりの中から出てきた梅干を口から出して眉をしかめている。

 里美が東京から送った食料のひとつだった。

「梅干よ、ウメボシ。ほらっ」

 里美がひとつつまんで口に放り込むとイレイと同じように顔をしかめた。

 イレイは驚いた顔をしながら一呼吸置くと決心したように里美と同じようにポイと口に放り込んだ。相変わらず眉をしかめている。

 二人はジンギスカンの子孫のような格好をしてその毛糸の帽子から覗かせている雪焼けした顔を見合わせて笑った。

「イレイはブハンをどう思ってるの?」

 いつかはイレイに聞いてみようと思っていたことだった。その日本語をイレイはよく理解していないようだった。

「ブハン好き?」

 里美の言葉を理解したイレイは恥ずかしそうにうつむいたままだった。里美は聞くまでもないつまらない質問したと後悔した。しかし、そのしぐさからイレイの気持ちだけははっきりと分かった。

 イレイが突然顔を上げて里美の顔をじっと見つめると「サトミは?」と言った。里美も詰まってしまった。しかし自分から聞いて相手の質問に答えないわけにいかない。イレイの方は恥ずかしそうなその態度で充分に自分の気持ちを表現していた。

「わたしも好きよ。大好き」

 里美がそう言うとイレイは里美の体に飛びついてきた。

 里美はイレイの行動が意外だった。それまでイレイがひとり占めしていたブハンに里美といういわば恋敵が闖入してきたのであり、同じ年頃の里美なら複雑な感情を抱いたに違いないのだが、と里美は考えた。幼いイレイにはそれほど不思議なことではないのかもしれないが、恋する年頃になると今のままでは済まないかもしれない。そもそも自分自身がイレイに対抗心を抱いているではないか。そう考えると、里美は三人の関係がいつまでもこのままでは済まないのではないかと思った。

 男女の関係で嫉妬というものが付き物のように考える日本人的な考えからすると、この国にまだ残っている一夫多妻制がなかなか里美には理解できなかった。相手を妬んだりする感情がこの国の女性にはないのだろうか。それぞれの国にはそれぞれの国の価値観があり、他方からはそれが異常なことのように思える。里美は「郷に入りては郷に従え」いう諺を思い出して、自分がこれまでに手に入れてきた価値観を手放すことから始めなければならないと思った。

 自分よりはるかに小さなイレイの体を抱きしめながら、ブハンがイレイのことをどう考えているのか知りたくなっていた。

 ブハンから聞いたこの国の歴史を里美は思い出していた。

 騎馬民族同士の抗争が続き、一方が他を支配するときは相手の男性をひとり残らず根絶やしにし、女性は自民族の繁栄のために捕虜として連れ帰って子供を産ませた。侵略と敗走の歴史の中から一夫多妻の慣習が生まれたというブハンの説明は、日本の歴史においても繰り返されたものだったと里美は思った。

 日本にいたときに三角関係やらさまざまな恋のもつれやらで別れたりくっついたりする友人を見てきた里美には、すぐにイレイの感情を理解することはできなかったが、相手に対する嫉妬のような感情を持たなくてよいほどにイレイはまだ幼かった。仕事や振る舞いは大人でも、日本人のような複雑な感情は持ち合わせていなかった。自分を姉のように慕うイレイに恋敵の感情は持てなかった。

 しかしいつかはその時が来るかもしれない。そのとき里美は自分の日本人として育った狭量な愛の観念から抜け出すことができるかしらと考えると、一抹の不安が残った。イレイの将来についてはブハンに聞いたこともなかったが、いつまでも一緒にいるとは限らないし、それもしばらく先のことで、いまはこんなに楽しいのだからと、里美は結論を先延ばしした。


 イレイはときおり何日も顔を見せないことがあった。そんな時は文字通り新婚生活のような毎日を送った。ブハンは里美を愛し、里美はブハンを愛した。ただひとつのことを除いては二人の間には何の障害もないかのように見えた。そのただひとつのことにブハンも悩んでいた。ブハンは同じ過ちを繰り返したくなかった。

 今田恭介といったその名を愛した一人の女性がいた。今では所在さえ知らないその女性が恭介を愛し、恭介もまた彼女を愛した数年があった。いつかは里美に話さなければならない秘密だった。それには里美が自らヴェールを剥いでブハンを受け入れてくれることが絶対条件だった。そうしなければ同じように里美も自分のもとを去ってゆくという不安がブハンにはあった。

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