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夢の国紀行  作者: 石木 喬
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 小鳥のチチッというさえずりに促がされるようにして目覚めた里美はそこが厳冬のポタンであることを忘れていた。それどころかブハンの存在すら忘れて深い眠りに落ちていたことを知った。二階の小さな窓からは朝のやわらかい光が差し込んでいたはずだが、すでに陽は中空にあった。起き上がって周りを見渡したが寝ていたはずのブハンの布団はもぬけの殻で、寒いはずの家の中もむしろ暑いほどだった。里美は二階の丸木の手すりから体を乗り出して一階を見下ろしてみた。そこにもブハンの姿は見つからなかった。ゴーゴーと音をたてながら真っ赤に燃えるストーブの上に大きなヤカンが乗っていて、そのとび出た口から白い湯気が勢いよく吹き出していた。

 ブハンは相当前に起きたに違いない。里美は昨夜のブハンとの約束を思い出して急いで布団をたたみ、パジャマを脱いで下着の上に厚いダマールの下着を重ね着し、さらに羊毛のセーターとコートを着て下に降りていった。ストーブの周りは近づけないほど熱かった。

 ガタンと音がして入り口のドアが開いて防寒着に身を包んだブハンが入ってきた。内側に毛皮を張ったコートを着て雪だるまのように膨れた里美の姿を見て、ブハンは思わす吹き出した。

「家の中じゃそんなに着たらゆであがっちゃうぞ」

 冗談っぽくブハンが言った。

「だってあなたが息まで凍り付くなんて脅すんですもの。着込めるだけ着込んじゃったのよ」

 灼熱のストーブに照らされた真っ赤な顔をした里美は口をとんがらしてブハンの言葉にささやかに抵抗した。確かに毛皮の下で里美の身体はポッポと火照っていた。慌てたようにコートを脱ぎ始める里美をブハンはいとおしいと思った。

「サトミ」

 ブハンは里美の身体を引き寄せると、その額に唇を寄せた。ブハンの唇が外の空気の冷たさを運んできて、開け放たれた入り口からもひんやりとした冷たい外の空気が流れ込んでいた。里美にはその空気が神秘的な何ものかを運んできているような厳かなものに感じられた。

「クスクスッ」

 姿の見えない笑い声に里美は反射的にブハンから身を離した。

 ドアの向うにカラフルな毛糸で編んだ民族服で身を包んだ背の低い少女が立っていた。

「コンニチワ」

 ブハンが教えたのだろう。片言の日本語の挨拶をしながら入ってきた少女に里美はどう対応してよいのかわからなかった。ブハンから聞いていたイレイに違いないのだが、想像していた以上に小さなそのからだに里美は目を奪われた。毛糸の帽子から二つ編みの長い髪が肩まで垂れていて、褐色の肌に白い歯が目立った。人懐こい二つの黒い瞳に里美は語りかけた。

「こんにちは。イレイね」

 かろうじて里美はぎこちない微笑を浮かべながら返答することができた。

 少女は終始微笑みながら、里美には分からない言葉でブハンに話しかけ、そのまま両手で里美の腰のあたりに抱きついてきた。里美は毎日語りかけた遠い国のイレイが今自分の腕の下にいることが信じられなかった。

「イレイは里美に会えるのを何日も待っていたんだ。どうしたらいいのと聞くから、イレイの好きにしなさいって言ったんだ」

 ブハンと少女の会話を聞きながらようやく里美は心を落ち着けることができた。

 イレイは里美の体に顔を埋めながら左右に振って擦り付けるようにし、里美の顔を見あげた。その日本人よりも日本的な笑顔は美少女というにふさわしいものだった。

 二人の会話の意味は分からなかったが、イレイがブハンの言葉に何度も頷いている様子を見ていると、里美は二人が親子にも似た関係のように感じた。やがてブハンが里美のほうを向いて少女について説明した。

 イレイがまだ六歳だということに里美は驚いた。

 日本では精神的にまだまだ幼い年齢だが、イレイは里美の目からもしっかりしているように見えた。近くに住んでいるというイレイは、数年前からブハンの食事の用意や洗濯の手伝いをしているのだということだった。家族は放牧民で、雪が解けると牧草を求めて広い草原を野営しながら数百キロも移動するのだという。はじめ家族はイレイを連れて放牧に出ていたが、学校に通いたいという少女の願いを聞いて放牧の間はブハンに託しているのだということだった。

 外に出ると、まばらに漂っていた雲が遠くに去って、天いっぱいに青空が広がっていた。夕べの雪が木々や茂みの上にこんもりと盛り上がって、ときおりザザッと音を立てて落ちていた。

「あらっ、ポタンのすずめも日本と同じ顔をしているのね」

 それを聞いたブハンは大声で笑い出し、イレイにもそのことを話しているようだった。それを聞いたイレイは腹を抱えて笑った。

 里美は面白くなかった。

 だがよく考えてみるとシンガポールへいったときもアメリカへいったときもすずめはすずめの顔をしていた。

 そう考えると世界中すずめの顔は違っていなければならないと決め付けているような自分の言い方のほうがおかしかったと思いなおしていた。

 三人は顔を見合わせて笑った。

「さあ、食事の前にもう一仕事だ」

 そう言ってブハンは森の中に入っていった。

 その日からイレイが里美の先生になった。

「サトミ」

「イレイ」

 二人はそう呼び合うようになった。

 都会生活に慣れた里美の経験にはまったく未知のことばかりが毎日のように続いた。

 冬のポタンでは零下20度を下回ることもしばしばであった。家畜に水をあげてもすぐに凍り付いてしまったし、夜のうちに部屋の暖房が消えると水がめの中で厚い氷が張って、朝お湯を沸かそうとしても氷を割るのに一苦労した。

 陽のある日中でも、冷たい風が吹く日には外に干した洗濯物は乾く前に木の棒のようになって、取り込むときにはまるでとうもろこしか何かの刈入れ作業をしているようだった。そんな考えもしなかった作業をしている自分の姿を里美はおかしくてならなかった。

 何をやってもイレイにはかなわなかったが、特に雪道での水汲みには脱帽した。同じような担ぎ棒を与えられて小さなバケツをその両端にぶら下げると、イレイは器用にバランスを取りながら凍りついた坂道をヒョイヒョイ登ってゆく。初めのうち里美は担いだまま一歩も進めることができなかった。そうこうしているうちにこんどは肩が痛くなってくる。里美にはイレイのしぐさを見よう見まねで覚える以外に方法がなかった。

「ガンバッテ」

 イレイはいくつかの片言の日本語を使って里美を励まし、時には里美に代わって何度も川と小屋の間を往復してみせた。

 数日生活するうちに自然と二人の間には姉妹のような感情が芽生え始めていた。

 ブハンは決して二人の間に割って入ろうとしなかった。作業をしながら遠くから二人の姿を眺めていつもニコニコしていた。


 里美がブハンの小屋に滞在するようになって一週間が瞬く間に過ぎていった。里美は慣れない雪の中の生活で疲れ果てて、夜は隣りにブハンのいることも忘れて熟睡していた。

「里美」

 ある夜ブハンは浅い眠りに入ったばかりの里美に声をかけた。

「なあに」

「そっちに行ってもいいかい」

「いいわよ」

 それまで体の関係はなかったが、里美にはすでに心を許した相手であった。ブハンが布団に入ってくると狭い布団の中に二人の体は納まりそうになかった。里美は反射的にブハンの体にしがみついてその厚い胸板に顔を埋めるようにした。布団の中は男臭さでいっぱいになった。ブハンに抱擁されると里美は体を固くした。ブハンは自分も少し布団にもぐるようにして里美の唇に自分の唇を重ねた。里美は少しもこれから起こるであろうことに不安はなかった。日本を出発したときの決意にはそのことも含まれていたのだと里美は東京で準備をしていたころのことを思い出していた。ブハンは里美の胸を開き無骨なしぐさで愛撫を加えた。

「いやん・・・」

 里美は徐々に自分の体がブハンを受け入れようと変化していることを感じ取っていた。こらえ切れないブハンに対する情感がブハンからの愛撫によって確実に高まっていた。

 いくつものヴェールをはがされるように里美は自分のすべてがブハンによってさらされることを望んでいた。ブハンの手は少しごつごつしていたが、そのしぐさはあくまでも優しかった。里美の着ているものを少しずつ剥ぎ取りながら、ブハンの手は布団の中を移動していった。最後のヴェールを剥がそうとしたとき里美は自分の意思とは裏腹に突然体を固くした。ブハンが何度か試みようとしても里美の体は石のように押し黙り、決してブハンを受け入れようとはしなかった。

 ブハンはあきらめざるを得なかった。ブハンは里美にも自分と同じような未だに解放されていない暗闇があることを知っていた。その思いははじめて会ったときに直感的に感じたものであった。何か同類の悲しみを相手の女性が抱いている。そのことを、いままでも告げずにいたのだった。ブハンは里美の着ていたものを元通りに整えてやり、初めのように里美の頭の下に手を入れて抱き寄せた。

「ごめんなさい」

 ブハンの胸に顔を埋めたまま里美はそうつぶやいた。ブハンに拒絶ととられたのだと里美は思っていた。

「里美」

 里美の唇に何も話さなくていいというようにブハンは自分の人差し指を当てた。

「気にしなくていいよ。これからもずっと一緒なんだから」

 そういわれると里美はすぐにも自分がブハンを受け入れることができるようになると信じることができたのだが、現実はいつもそうではなかった。

 翌日からブハンは里美の布団で一緒に寝るようになったが、決して最後のヴエールははがそうとしなかった。

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