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里美は一か月は滞在するつもりで旅の準備を始めた。
前回、ポタンの空港でポーターに笑われたことなどを思い出し、荷物は最低限にとどめようと無駄を徹底的に排除したのだが、寒さ対策だけは欠かせないと衣類の準備を始めると、それだけで大型スーツケースが一個占領されてしまった。山岳用品の専門店に何度か通い、下着からマイナス三十度まで大丈夫という防寒着まで、店員の意見を聞きながら一つずつ揃えていっての結果だった。衣類以外のものを同じサイズのスーツケースに入れて、結局前回とそう変わらない量の荷物になっていた。前回で無駄が分かった化粧品などは極力少なくしたのだが、今度はブハンやイレイへのお土産も増えていた。
その土地は日本と同じ北半球であり、冬には北海道や東北などと同じくらい雪が降ると聞いていたにもかかわらず、里美はそのことにあまり頓着がなかった。生まれも育ちも神奈川県の湘南地方で、そもそも雪がどんなに生活の障害になるのか知らないものだから、ブハンが脅しのつもりで話したこともまったく効き目がなかった。
ポタンの空港が雪で閉鎖されているため、ヘロン空港で何日も足止めされて、始めて事の重大さを知った。
(こんなにいい天気なのに)
たしかに雪が地表を一面に覆っているとはいうものの、ヘロンの天候は快晴が続き、里美は何度もホテルから空港に問い合わせたが、返ってくる言葉はいつも同じことだった。
ブハンからもポタンの事情を国際電話で伝えてきていた。
「しばらく無理です。ポタンの空港はすっかり雪で覆われてしまって、雪かきをしてもその上からまた雪が降り積もる。ホテルのほうには安くするように言ってあるから、あきらめてゆっくりしてください」
里美はホテルの部屋に缶詰になり、食事に出る以外はテレビのニュースを観たり、東京から持って来た数冊の本を読んだりして退屈な時間を過ごした。
一週間の足止めののちに、飛行機はようやくヘロン空港を飛び立った。
飛行機から見える下界はただ真白な平原ばかりで、真っ青な青空が向かう先に抜けるように飛行機を待ち受けているようだった。機体の揺れも少なく、前回は前の席にしがみ付いたポタン空港での着陸も、雪の上を滑るように穏やかなものだった。
一年半ぶりにやっとの思いで逢えたブハンは体をすっぽり覆った外套から髭を伸び放題伸ばした顔で里美を出迎えた。その髭面に里美はそれまでのすべての思いをぶつけるようにためらうことなく飛びついていった。もじゃもじゃの髭が里美の鼻をくすぐった。それはあまりにも人間的な歓迎のセレモニーであった。
「今回は思ったより荷物が少ないんだね。冬支度で大変だったんじゃない?」
ブハンは空港の職員が運んでくる里美の荷物を車に積みながら言った。
里美は前回の空港での気まずさを思い出していた。
「そうね。でも、前回もあんなにたくさん化粧品をもってきたのにお化粧するのも忘れていましたからね。今回は化粧品の代わりに、寒くないようにって着るものを揃えたら、結局前と同じになってしまったわ」
ブハンは白い歯を見せながら笑みを浮かべて車に乗り込んだ。
広大な草原が純白の大地と化し、二人の乗った車はジャラジャラとチェーンの音をさせながら疾駆した。
前にも乗ったクロスカントリー車は暖房はしていたが、どこからか冷たい風がスースーと入ってきて里美の眠りを妨げた。ただ、雪が道路を平らにしてくれているためか、突然ジャンプするようなことはなかった。
すっかり雪に埋もれて人の姿もまばらな懐かしい町は夏とは様相を変えていた。
懐かしいホテルの従業員たちは里美の到着を全員で歓迎してくれ、その夜はブハンも交えて食堂で一緒に食事会を催してくれた。
今度の旅ではブハンの家に泊めてもらうことになっていた。ブハンの申し出があった時、里美は躊躇なくそれを受け入れていた。ブハンの懐に入っていかなくては、ブハンが本当の意味で里美に日本を去った理由などを話すことはないと思ったからだった。
食事を終えるとブハンは明日の朝迎えに来るからと言って帰っていった。
前回と同じ部屋を取ってくれていたので、里美は懐かしい家に戻ってきたような穏やかな気持ちになった。窓の外には雪が青白く浮かび上がり、空には遮るもののない冬の星空がキラキラと輝いていた。静まり返った幻想的な景色のどこからか、ウオーンと狼か何かの鳴き声が聞こえてきた。
翌日ブハンは里美を住居に案内していった。
深い雪に覆われた草原は里美が訪れたことのある日高の牧場を思い起こさせた。
雪掻きされて踏み固められた牧場にサラブレッドが遊んでいた。どの馬も鼻から白い息を吐きだしていて、厩舎に戻った馬の身体からはもうもうと湯気が上がっていた。
(あの羊たちはいまどこにいるのかしら)
里美は草原に草を食む沢山の羊たちが、ブハンの言うように狭い小屋の中で窮屈そうに暮らしている姿を思い浮かべた。
その時、澄み切った空気のなかに遠くに「ホー、ホー」という声が聞えた。
「行ってみよう」
車を降りてカンジキのような履物を履くと、ブハンは先に立って深い雪の上を歩きだした。里美はブハンの足跡に合わせるようにして、慎重にそのあとをついて行った。
葉の落ちた大きな楠のような木があった。その中ほどの枝に大きなフクロウが止まっていた。ギョロリとした眼が真っ直ぐ前を向き、時おりくるりと首を回した。突然、ジロリと自分の方を見たように里美は思った。その瞬間、フクロウは二メートルもありそうな大きな羽根を広げてふわりと飛び立ち、里美の方に向かってサッと滑空してきた。里美はあわてて体を低くした。フクロウはそのまま里美の上を過ぎ、数メートル先の雪の中に下りると同時に、鋭いくちばしを雪の中に突き立てていた。里美はフクロウの嘴に大型のネズミが咥えられているのを見た。
リアルな自然の生き物たちの営みに里美はしばらく興奮を抑えられなかった。
よく見ると雪の上には形の違う動物の足跡がいくつも残り、点々とどこまでも続いていた。
「僕はこの足跡を頼りに狩りをするんだけど、あいつは雪の中の獲物をキャッチできるんだからすごいだろう」
ブハンは自慢げに言った。
再び車に戻ると、ブハンは遠くの高台を指差した。
「ほら、あそこだよ」
後ろに連山を従えた見晴らしのよさそうな高台の上に木々に囲まれたブハンの住居が見えていた。
「まあ、素敵」
「でも、水道も無ければ電気もないぞ。はたして何日我慢できるかな。我慢できなくなったらいつでもホテルに移っていいからね」
里美は意地でもブハンのもとに居座るつもりでいた。日本にいたときにその決心を強くしてやってきたのだから、どんな苦労だって我慢してみせる。ブハンの言葉に反発を感じながらも、高台への坂道を登りはじめた車の中から近づいてくるログハウスのような建物に視線を集中していた。
「まあ、この建物をあなたひとりで建てたの?」
車を止めるとすぐに里美の荷物を降ろし始めたブハンにそのあとを追うように走り回りながら里美は訊ねた。
ブハンは住みながら数年かけて完成させたことを里美に説明した。
林に囲まれた建物の近くには小川が流れ、外で食事することが多いというブハンの言葉どおり、バーベキューができるような設備が遠くに町を望む高台の広場に据え付けられているはずだった。
それもいまはすっかり雪に覆われているようだった。
小川へ降りる小道だけが雪をかき分けられていて林の中に消えていた。
近くには小さな家畜小屋もあり、またいくらか畑なども作っているようだった。
「そんなとことにいつまでもいたらこごえ死んじゃうよ」
ぐんぐん冷え込んでくる空気が里美の全身を急に振るわせた。
「家に入りなよ。暖かいよ」
重そうな丸木のドアを開けると建物の中には広い土間に大きなストーブが据えられ燃料の薪がバチバチと音をたてながら燃えていた。継ぎ目のない大きな丸木のテーブルの上にいつ沸かしたのか飲み物がコップに入れられて白い湯気をあげていた。
窓の外はいつしかすっかり暗くなっていた。
テーブルの上のランプの明かりとストーブの真っ赤な火が部屋の中を照らし出して、里美とブハンの影をゆらゆらと揺らしていた。
「山羊の乳だよ。温まるよ」
里美はふうふうと湯気を吹きながら熱い飲み物をおいしそうに飲んだ。
「おいしい」
里美は満面に笑顔を浮かべて顔だけブハンの方を向いた。
ブハンが台所と思われる場所で何か料理を作っていた。
「私にも手伝わせて」
「いや、ダメだ。今日はお客さんだから。明日からはたくさん勉強することがあるからね。今日は僕の料理を黙って食べるんだ」
ブハンは大きな瓶から水を汲んで鍋に入れていた。
「そうだな。明日は水汲みから手伝ってもらおうかな」
「まあ、できるかしら」
「大丈夫。はじめは少なめにしてだんだん量を多くしていけば、そのうちコツがわかってくるさ。ただ、途中の道は滑るからね。ちょっと大変かもしれないな」
「何とかなるわよ」
そういいながらも里美は本当にできるかどうか不安だった。
ブハンが大きななべを運んできた。
「ヴォァラ。マトンのシチューでございます。お嬢様」
「まあ」
自分のことをお嬢様と呼んだ初めての男に里美の頬は赤くなった。
羊の肉をソースで煮込んだシチューはなかなかおいしかった。フランスパンよりは少しやわらかいパンをむしりながらその中に漬けて一緒に食べると、里美のおなかは充分満たされた。
食事が終わるとブハンは里美に建物を案内した。
あくまでも質素ではあるがトイレや風呂まで家の中にあり、里美はブハンの多才さに驚きを禁じえなかった。
食事を作りながら風呂の用意もしていたようだった。その手際のよさに里美は舌を巻いた。
大きな木を丸く掘っただけの風呂に入って里美は旅の汗を流しながら、その夜自分とブハンが結ばれる必然をまったく疑わなかった。
風呂の窓からは雪明りでうっすらと小屋を囲む林が見えた。風で木々が揺れるとざわざわという音の後でザザッという枝から雪が落ちる音がした。
おそらくその林の向うにも果てしない草原は続いているのだろう。
里美はその向うに何か恐ろしいものが待っているような気がしてあわてて風呂を出た。
風呂から出て東京で用意してきた厚いピンクのパジャマにベージュのガウンを羽織って食事をした部屋に戻るとブハンが里美を寝室に案内した。
寝室は食事をしていたテーブルのちょうど真上にあり、特にドアなどはないので部屋に上がると一階の様子がすべて手に取るようにわかった。
暖められた空気が建物の上に溜まり、そこはとても暖かかった。
日本と同じような布団がいくつか重ねて置いてあり、ブハンは自ら里美と自分の布団を敷いた。家の中のベランダのような横に長い場所であったので、二つの布団を横に並べて敷くことはできなかった。
ブハンは電車の連結のように並べて敷いた布団に枕をふたつ、その連結部分に寄せて置いた。
その並べ方を見ていた里美に何故だかわからない可笑しさがこみ上げてきた。
「うふふ」
「何がおかしいんだい」
「ううん。あなたがそうして布団を敷いてくださっているのを見ていたらひとりでに・・・。きっとうれしいんです」
「変なひとだなあ。自分のことをきっとだなんて」
その夜は天気も穏やかなようだった。
里美は布団に入るとブハンが風呂から出たのも知らずに眠り込んでいた。