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夢の国紀行  作者: 石木 喬
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 里美は紀行文の推敲に打ち込んでいた。出版社の編集担当者と二人で、ブハンと巡り歩いたあちこちの写真をどこにどのように入れるかでも何度かの打ち合わせを重ね、ようやく出版にこぎつけることができた。

 書店の旅行関係の棚に里美の『ポタンへの旅』が置かれるようになって、さっそくブハンにもサインを入れた一冊を送り、里美は一区切りがついたような気がした。

 ブハンからその返事に、真白な平原に立つ写真とともに、冬のポタンの生活を伝えてきていた。

 その写真をみて里美は、おやと思った。

 ブハンの半分ほどの背丈しかない女の子がブハンの右に写っていた。

 白樺林を背景にして、毛皮に包まれてダルマのように膨らんで、大きな帽子の中で黒目勝ちな眼ばかりがニコニコ笑っていた。眼ばかりでは正確な年齢を推し量ることもできないが、日本なら小学校へ入学したくらいの年頃だろうか。女の子は大きな手袋をした左手でブハンの上腕のあたりに手を差し入れ、いかにも幸せそうに里美には思えた。

 里美はその写真に自分がいないことで、小鳥のようなつぶらな眼をした年端もない女の子に軽い妬みを覚えた。そんな感情が自分にまだ残っていることに驚きもした。


 池野里美様

「ポタンの旅」出版、おめでとうございます。

 ついに私の案内も報われる時が来ました。

 写真が入って、文章だけのときよりはるかに印象が強くなりました。ポタンを訪れたことのない読者には旅への想いを掻き立てずにいない、立派なガイドブックです。

 この冬は私にとってはポタンでの三度目の冬となりました。

 何もない北海道で育った私には、東京よりもむしろポタンの方が合っていたのかもしれません。あなたには少し残酷に思えるかもしれませんが、今は狩猟の時期で、雪原にウサギやシカを追いかけています。

 狼などの猛獣もいますが、北海道のような獰猛なヒグマがいないのだけは安心です。

 といっても今ごろ、北海道のヒグマは穴の中で春を待って、美味しい食べ物の夢でも見ているころでしょう。

 もう春はそこまで来ています。

 白樺林の中のコブシの芽が膨らんでいて、もうすぐ花を咲かせることでしょう。

 草原に若葉が芽生え始めると、囲いの中の羊たちはそわそわし始めます。

 干し草ばかりじゃ物足りないというわけですね。

 早春のポタンは北海道によく似ています。

 気が変わったらいつでもまたポタンに来てください。

 歓迎します。

 今田恭介ブハン


 里美は写真に写っている女の子のことがいつまでも気になった。

 ブハンは里美の送った本を少女に読んであげているのだろうか。それで里美や里美の住んでいる日本のことも話したりしているのだろうか。想像するにつれ、やはり自分がそこにいないのは不自然だという思いが募っていった。

 二人の関係も気になった。

 里美はブハンと一緒にいられるその少女のことが妬ましく思った。年端も行かない子どもに対しておとなげないと思ったが、その感情が自分とブハンをつなげてくれる微かな望みになるようにも感じた。

「おはよう」

 フォトフレームに入れられた二人の写真が机の上に置かれると、その二人に話しかけるのが里美の日課のようになった。

 ポタンへの募る思いは日増しに強くなっていった。


『ポタンへの旅』は順調な売れ行きをみせて、読後感想が出版社あてに手紙やメールなどが寄せられるようになった。若い女性からのものが圧倒的に多かったが、届いたメッセージを読んで里美は読者の孤独とあこがれのようなものを同時に感じた。急速に発達したネット社会への疲れのようなものも感じた。

 SNSなどの新しい交流システムはどうしてもその中へ入っていけない孤独な人を作り出しているようだった。『いいね』をクリックしないとどうしたのかしらと言われる。一人だけに返事を返すと、秘密は嫌だと言われる。すべてを共有しなければ済まないグループがあちこちでできていって、そこに住みにくさを感じる人たちがポタンへの旅にあこがれを感じている。そんな共通性のある読者が寄せた感想から、里美はネット社会の病弊のようなものを感じた。

 それはあまりにも急速に進む社会の変化に里美も感じ取っていたことであった。

 絶対的にいいものなのだから使わなければ駄目と言われているような問答無用な強制を感じる自分を時代遅れと済まそうとしていたところに、自分と同じような考えの読者が多くいることを知って、里美は書いたことの意図とは異なるものではあったが、新しい発見をした思いだった。


 すぐにでもブハンのところへ行きたい。その気持ちはつのるばかりだった。

 しかし、零下三十度にもなるという極地のような寒さが決断を鈍らせた。果たして自分は耐えられるのだろうか、かえって恭介の足手まといになってしまうのではないか。そう思うと、里美には今の自分のすべてを擲って恭介の下に駆け付けるだけの勇気はなかなか出なかった。

 里美は二人の写真を眺めながら、ブハンの二通の手紙を何度も読み返した。

 何よりも気になったのは今田恭介が日本を去ってブハンとならなければならなかった理由であった。そのヒントが『ポタンへの旅』の読者からの手紙にあったネット社会に疲弊した現代人の心にあるようにも思えた。あるいはブハンのことだから初めからそのようなものには近づこうとせず、もっとブハン個人をめぐる深い事情があったのではないかとも思った。

 不思議な魅力を持ったブハンとあこがれの国ポタンはいよいよ里美の中で膨らんでいった。


 今田恭介様

 ブハンさん

 お写真ありがとうございます。

 机の上に飾って、毎朝あいさつをしています。

 お隣の少女の姿が気になりました。

 一緒に住んでいらっしゃるのでしょうか?

 今度行ったらぜひお会いしたいと思います。

 お友達になれるかしら?

 

 『ポタンへの旅』は予想した以上の売れ行きです。読者からも沢山のお手紙をいただきました。みんなポタンを訪ねてみたいと言っています。

 私もすぐにでも飛んでいきたい気持ちです。

 でも、どうしても雪と経験したことのない気温に自信がありません。

 あなたにご迷惑をおかけするのではないかと思って・・・。

 気持ちの整理がついたらご連絡したしますので、その時は歓迎してくださいね。

 お嬢ちゃんにもよろしくお伝えださい。

 池野里美


 里美がいてもたってもいられなくなったところに、ブハンからの三通目の手紙が届いた。


 あの幼い子の雪原に遊ぶ姿が映っていた。

「イレイもあなたに会いたがっています」

 里美はあらためて机の上に飾った写真の中のイレイと呼ばれる少女の顔をじっと見つめた。写真の中の顔は、自分に微笑みかけているように思えてきた。

 里美はこのときを逃しては自分の人生はいつまでも後悔の人生になるに違いないと思い、冬の旅の決意を固めた。

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