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夢の国紀行  作者: 石木 喬
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「今晩、ちょっと相談に乗ってもらえないかな」

 突然賢司からの電話があった。

 賢司とはきっぱり別れたつもりでいた里美の心にさざ波が立った。

 あまりにも無神経と怒る気持ちと長い付き合いの間に慣れ親しんだ懐かしさがないまぜになっていた。

「お別れしたんですから、もうお会いしません。あなただってそのつもりだったんでしょう」

 里美は憎しみを感じられるよう語調を強めて返した。

「それは僕が悪かった。だけど、里美でなけりゃ頼めないんだよ。これっきりだと思ってちょっとお願いできないかな」

「申し上げましたとおりです。もう電話してこないでください」

 そう言って電話を切った里美の心は穏やかではいられなかった。「里美でなければ」という言葉が里美の判断を鈍らせていた。

 いまさらどんな相談事なのか里美は考えられる限りを想像してみても所詮空想の域を出なかった。

 賢司はショートメールを何度か送ってきた。その中でも電話でと同じように「里美でなければ」と書いていた。

 里美は賢司からの連絡を拒絶し続けるほどの堅い決心はなかった。揺らぐ気持ちの中に隙ができて、何度目かの電話に出てしまっていた。

「もう電話しないでって言ったでしょう」

「そんなこと言ったって、そう簡単に君のことが忘れられるはずもないじゃないか。ちょっと困ってるんだ。ね、話を聴いてくれるだけでいいんだ」

 里美は一度だけと約束して、結局賢司と会うことにした。

 賢司は小料理屋辛夷(こぶし)に部屋を取ってあるからと言ったが、里美はどうしても馴染みの女将と顔を合わせたくないと思った。

 婚約した女性をも辛夷に連れて行っているに違いない。そう里美が考えていると察したのか、賢司は「彼女は辛夷には連れて行ったことはないから」と付け加えた。

 その日は朝から雑誌に連載していたエッセイの執筆を続けていて、時計を見るとすでに三時を回っていた。里美はペンを置き、何を着て行こうかとクローゼットの中に下がっている洋服を掻きまわした。知らぬ間に下着の入っている引き出しまで探し始めていることに気付いて里美は苦笑した。長い間の賢司との付き合いの間に習慣となってしまっていた自分の行動に、いったい何を期待しているのかと自嘲気味にならざるを得なかった。里美のなかで初めてのひとという言葉が特別な意味を持って反芻されていた。


「しばらく顔を見せなかったですね。今日はゆっくりして行ってくださいね」

 応対に出た辛夷の女将がいつもと変わらぬ応対を見せ、賢司と里美の関係の変化にも気付いていないようであったが、そのことがなおのこと里美の気持を辛くさせた。

 離れのようになっている奥の小部屋は賢司と里美の密会の場所だった。その場所に再び足を踏み入れることは決してないと思っていた。二人の関係が変わっていないなら懐かしいと思えるはずのその部屋も、その日の里美には辛い別れの部屋であった。

 一週間と会わないことのなかった賢司に数か月ぶりに会ってみると、里美は二人の関係が何も変わっていないような錯覚にとらわれた。

「元気かい」

 そうポツリと賢司に言われると、気丈にふるまおうと考えてそこまで来たはずの里美は、あふれ来るものを抑えきれずに下を向いたまま嗚咽していた。

 賢司にもその里美の反応は意外であった。

「どうしたんだい」

 里美にもその理由を答えることはできなかった。

 賢司が里美の側に回って肩に手を当てると、里美は崩れるように賢司の胸に顔を埋めた。

 里美の身体を忘れることができず、里美に拒絶されることは当然と思いながらも、会えば何とかなるのではないかとようやく馴染みの店に招き入れたものの、さて何と言ったらいいものかと考えていた賢司は、たった一言「元気かい」と言っただけで窮鳥が向うから腕の中に入ってくるような意外さでいとも簡単に手に入ったことに驚いた。

 賢司に唇を塞がれると、里美は長い間親しんだ賢司の前に抵抗する術を失っていた。賢司のなすがままに体を預けると、賢司がどのように自分を愛撫するのか、ひとつの行為の次に何が来るのか、里美の身体がそれを記憶し期待して身体のの方が先に反応していた。

 唇での首筋へ愛撫に続き、賢司は知り尽くした里美のあらゆる部分に指を這わせ、反応を確認した。

 里美の身体はひとりでに疼いて、敏感な部分への賢司の指使いに全身がとろけるように感じた。

 「出よう」と賢司に言われた時、里美にはその先によく行ったラブホテルが待っていることも予想できた。予想という言葉よりも期待と言った方が正しかったかもしれない。里美は賢司とホテル街の坂を上りながら、きっぱりと別れたはずの賢司に自分の方から隙を見せ、賢司の歓心を買おうとするような行動をとったことに戸惑っていた。賢司はもしかしたら結婚のことなどについて相談したかったかもしれないのに。猛烈な後悔と闘いながらも、これ一度と自分に言い聞かせ、賢司の後をついて行った。

 これきりと思えば思うほど、ベッドの上での里美は賢司の技に翻弄され、燃え尽きるほどのセックスにのめり込んでいった。

 最後のときが訪れると、里美は官能に酔いしれ、賢司に対する憎しみもどこかへ置き去りにされたままになってしまっていた。

 賢司が里美の身体を離れると、里美はようやく落ち着きを取り戻した。

「結婚するのはもうやめられないけど、どうしても里美のことが忘れられなくて、里美の気持を確かめておきたかったんだよ。でも、今日会って里美の気持が分かって良かったよ。もう大丈夫だよ。まあ一杯やろうや」

 相談と言ったことの意味が明らかにされて、里美は自分がドロドロした愛欲のなかに引きずり込まれてしまったような(やま)しさに苛まれた。

 里美は少しも大丈夫ではなかった。捨てられたと感じていた自分がどうしてその相手に体を預けることができたのか。里美は矛盾した行動をどう理解したらよいのか分からなかった。心と体がひとつのものではないことを思い知らされるとともに、深い自己嫌悪に陥った。

 その後何度か賢司から電話があったが、里美は決して電話に出ようとはしなかった。

 婚礼の日程が決まったというショートメールと留守電メッセージを機に、ぴたりと賢司からの音信は途絶えてしまった。


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