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日本に帰ってしばらくすると、旅行社への気付けでブハンからの手紙が里美の元に届いた。
その手紙は、里美にとってショッキングなものだった。
池野里美様
ポタンへの旅はいかがでしたか。
体調は崩されていませんか?
何よりも大切な紀行文は書けましたか。
こちらは日に日に気温が低くなって、まもなく白いものも落ちてくるのではないかと思います。
草原では雪が降る前に放牧していた羊を集めて冬越しの準備が始まっています。
雪の量はそれほど多くはないのですが、零下三十度にもなりすべてのものが凍りついてしまいます。
私も土の中の室に新しい藁を入れて野菜を貯蔵する準備を始めています。
最近は石油ストーブが主流になってきていますが、燃料代が高いので私は薪ストーブも使っています。土地の人達は相変わらず羊の糞などの燃料も使っています。
同じ北半球の日本とは言っても日本は南北に長い島国です。季節が南から北へ通り抜けていくようなあの感覚は日本人ならではのものです。
そうなんです。私も日本人なんです。
貴女にそのことを告げなかったのは、たとえいくらかでも貴女の仕事に影響を与えてはいけないと考えてのことですので、なにとぞご容赦ください。
大学を卒業して何年か商社に勤務したのち、仕事で訪れたポタンという国に私は貴女と同じようにすっかり魅せられてしまいました。ポタンに定住することを決意してすべての仕事や交友関係を擲って日本を後にしました。日本からやってくる商社や銀行などの出張者のガイドをしながら細々と暮らしています。今では、この地の宗教を信仰するようになり、郊外に一軒の家を借りて住んでいます。
もう自分は日本人ではありません。また、決して日本人に戻ることはないでしょう。
いくらこの国が好きになったとはいえ、風土も環境もあまりにも異なるこの地に住むにはよほどの事情がと貴女がお考えになるのは自然なことです。
そのことはあまりにも長くなりますし、貴女にはそれほど興味のある話とも思えませんので、この手紙では触れないことにしました。
秘密でも何でもありませんので、お望みとあらばすべてお話しいたします。
できればポタンの空の下でと思うのが私の偽らざる気持ちですが、それが無理な願いであることはよく分かります。
私の期待が貴女の負担になってはいけませんので、ひとつだけお願いがあります。
紀行文が完成しましたらぜひ読んでみたいのです。
お送りいただけないでしょうか。
貴女のお仕事が成功し、充実した人生を送ることができるよう、蔭ながら応援しています。
遠い国ポタンより
今田恭介
インターネットが普及し通信手段がメールやSNSに取って代わられようとしていた日本に比べて、ポタンはまだまだ通信インフラの整備が遅れていた。ブハンからの手紙は一週間ほどかかって里美のもとに届いていた。
里美の体を気遣う書き出しは、ブハンの優しい心遣いを思わせた。
毛皮を厚ぼったくまとい、せっせと冬支度をしている髭面のブハンの姿が目に浮かぶようであった。しかし、ブハンが日本人だったという部分が何よりも里美を驚かせた。あの流暢な日本語は確かにあの国にいたのでは決して身につくものではない。そう思いながらも、意外にも一度もそのことをブハンに訊ねなかった自分を不思議に思った。
気遣いにあふれた文章だった。
ブハンが「貴方にはそれほど興味のある話とは思えない」と言うブハンが日本人であることをやめた理由が里美の一番知りたいことであった。
里美はさっそく返信を書くことにした。
ブハン様
手紙を読んで大変驚きました。
どう考えてもあなたはポタンの人にしか思えないのですもの。
日本語があまりにもお上手なので、何か事情があるとは思いましたが、まさか日本人とは思いませんでした。
拙い文章ですが、まだ推敲前のものをコピーして同封いたしました。推敲してしまうとポタンの大自然の息遣いのようなものが消えてしまうように思うのです。
あなたと二人で駆け巡った広大なポタンの清冷な空気を忘れないうちにと書いた文章です。
どうしてあなたが日本を捨てることになったのか、とても興味があります。
(捨てたとは言ってませんでしたね)
私はあなたが日本をとても愛していらっしゃるのではないかと思っています。遠いところから日本を見ていたいと思われたのではないかと勝手に考えてみたりしているのです。
あれからほんの数週間しかたっていないのに、私の心の中のポタンはますます大きくなり、ますます遠くなっているのです。
あなたのお誘いに乗って今すぐにでもポタンに向かいたいという気持ちと、とても私にはあなたの様にポタンの厳しい環境で生きていくことはできないという気持ちが喧嘩をしています。
つまり、決断しかねているのです。優柔不断な私をお許しください。
冬がそこまで来て、毎日寒い寒いと言いながら暮らしている私を笑ってください。
こんな私ですから、決断にはもう少し時間がかかるでしょう。
高く澄み渡った空にはときどき渡り鳥の姿を見かけるようになりました。
この空には何の隔たりもないのですね。
この手紙が無事あなたの許に届きますように。
池野里美
追伸
文章が記事か書籍になりましたら、あらためてお送りさせていただきます。
マウスをクリックすると瞬時に届くメールに慣れている里美には、手紙を書くことは忘れ去られようとしている習慣であった。今書いている手紙が一週間後にようやくブハンの眼に触れるのだと思うと、手で水を掻くようなもどかしさを覚えたが、そうして何日もかけて恋文などをやり取りしていた古の日本人が素晴らしい文学作品を残してくれていることを思い出し、そののんびりとしたスピードにも心の交流には必要な時の流れであるように思えた。
里美はブハンの内面に起こった転機と言えるものがどのようなものであったのか、とても推し量ることなどできなかったが、立場は違うものの、今の自分が最も必要としているものと似ているものなのではないかと思った。
里美はブハン、いや恭介とめぐりめぐった草原の広大な景色と、あの避難小屋での出来事に思いを馳せた。
いつしか季節が巡り、東京も年が明けて雪の新年を迎えていた。