思い出
病院の待合室でただただ待つ。知らせを受けて駆け込んで来た彼女の両親も蒼白な顔をしている。
(シエンヌ?なんで?そんなに僕が嫌?そんなわけない。みんな僕のことが好きだって、僕のチョコレートが好きだって言ってくれる。大丈夫、僕は大丈夫)
頭の中がぐちゃぐちゃだ。何か、何か他のことを考えよう。
そうだ、久々に彼女に会った時のことを。会えてとても嬉しかった。彼女にはまるで初対面のように振る舞われたけど。
店の客が増え始めたそんな頃のことだった。知人にパーティーでチョコレートを出して欲しいと頼まれた。そして参加もして欲しいと言われた。新進気鋭のショコラティエと紹介され、多くの人から称賛されたのはガーデンパーティーでのことだった。
何か良い匂いがするなと思ったのだ。チョコレートのような蜂蜜のような甘い匂い。僕はこの匂いを知っていた。久々に嗅いだあの匂い。
僕の番の匂いがする。
匂いに誘われるまま庭を彷徨ったら愛しい人がいた。それなのに彼女は僕を誰なのかわからないと言った。
「え?僕のことわからないの?」
みんな僕のことを有名だって言ってくれるし、街でも声をかけられない日はない。それに彼女とは前に会ったことがあるのに。
『おまえはいらない』
脳裏によぎった冷たい声を頭から振り払い、ショコラトリーの名前を出すが反応はイマイチだ。みんなすごいと言ってくれるのに。
それなのに彼女とはあまり話せなくて、押しかけた他の人達に引き離されてしまった。
(誰もが僕のチョコレートを好きだって、僕のことをすごいって認めた。だからシエンヌだって僕のことが好きなはず)
久々の再会の後すぐ彼女のご両親に婚約の許しを得た。彼らもとても喜んでくれた。
(でもシエンヌは……)
彼女の戸惑ったような表情が忘れられない。色々話したかったのに会話も続かない。僕のことを見てくれない。それに彼女は僕のチョコレートを食べてくれない。いや、食べられないのだ。
(僕を見て)
僕と付き合いたいとせがむ女の子は沢山いた。勿論全員きちんと断っていた。だってシエンヌがいたから。
あなたに好かれるなんて婚約者は幸せ者ねって言われた。
(僕を見て)
全然僕を見てくれなくて、揺れる彼女の髪の毛を引っ張ったら彼女は顔を向けた。
(僕を見た)
でも嬉しくなさそうで。
「地味な髪色」
そう言うと唇を噛み締めた。その反応が嬉しい。
『派手で下品な銀色、おまえの母親にそっくりだ』
シエンヌのチョコレート色の綺麗な髪の毛が好きだった。髪の毛を触った時はこちらを向いてくれるから。
僕の下品な銀髪とは違う、綺麗な髪の毛。
(僕を見て僕を見て僕を見て)
だって君が僕のことを下品じゃないって、人は見た目じゃないと言ってくれたんだ。それに僕のことを綺麗で可愛いって、そう言ってくれたじゃないか。
(君がすごいと言ってくれたからお菓子作りを始めたのに)
この思い出はだめだ、やめよう。
体の中から何かが消えていくような感じがする。番が失われていくとはこんな感覚なのか。気がおかしくなりそうだ。嫌だ嫌だ嫌だ、彼女を連れて行かないで。
『おまえはいらない』
冷たい声が脳内に響く。あいつはもう関係ないのに。
「それじゃ私があなたの大切な人になるわ」
シエンヌはそう言ってにっこり笑ってくれたじゃないか。
『あなたなんていらない』
妄想の声が脳内に鳴り響く。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
気が遠くなりそうな程時間が経ってから医師がやって来た。
「できる限りのことをしましたがどうなるかは正直わかりません。最悪な結果になることも覚悟していてください」
彼女の両親が手で顔を覆った。嗚咽を抑えきれずに肩を震わせている。
でも僕はほっとため息をついた。あの苦しい胸の痛みがなくなったのだ。多分彼女の体は大丈夫。きっと彼女は助かるはずだ。
でも彼女と僕の関係は……。