夢(1)
「ああ、もう。綉があんなこと言うから……」
そんな文句とともに目が覚めた。佳はあの日以降、夢に悩まされていた。悪夢というわけではない。悪夢ではないが、本人にとってはなんとも理解し難く悩ましかった。
「夢って深層心理がとかって言うけど……」
ブツクサと文句を言いながら寝床を出ると、部屋の窓を全て開け放つ。真冬だろうと真夏だろうと、子供の頃からの習慣だ。そして薬缶に水をため、お湯を沸かす。いつもなら沸くまでの間に買い物が必要なものや、寝ている間に届いている連絡を確認するのだが、ここのところは見た夢をぼんやり振り返って過ごしてしまうことが多い。
薬缶の笛の音にハッとする。また夢を振り返っていたと気付き、自己嫌悪した。大丈夫、問題ない。分かってる、仕方ない、私は一人で生きなければならないのだからと言い聞かせる。胸の奥が疼いたが、深呼吸をして、なかったことにした。
ゆっくりとお湯を飲みながら辞書を広げる。これも子供の頃からの習慣だった。ある時「もうやらなくていい」と言われたが、それ以降もなんとなく毎日続けている。マーカーで印された言葉を1つずつ確認していく。声に出さないよう気をつけながら。
準備を整え、部屋を出ると眩しいほどの青空が広がっていた。梅雨の晴れ間らしく気温も湿度も高い。自宅から店までは徒歩で十分程で着くがその間にじっとり汗をかきそうだ。
いつも通り、道すがら八百屋に寄り果物を選ぶ。店先に並ぶ果物も夏のものに変わりつつあった。南国の果実が増え、目にも鮮やかだ。気温もこの十日ほどで一気に上がってきている。水出しのアイスコーヒーでも仕込もうかななどと考えていると、店の男に声をかけられた。
「今日は枇杷がいいですよ。もうそろそろ終わりですけどね。先取りならブラックカラントですかね」
初めて見る男だった。レモンとライムだけで済まそうかと思っていたが、たしかに枇杷が美味しそうだ。それにブラックカラントは浸漬して自家製の果実酒を仕込んでもいいだろう。
「……ありがとうございます、どちらもいただこうかしら」
「まいどっ」
男に気さくな笑顔を向けられ、なにか気になったことがあったように思ったがそれが何だったのかわからなくなってしまった。
店につき、氷の仕込みを終える頃にはちょうど開店の三十分前。コーヒーでも飲んで一息つこうとドリッパーに手を伸ばした瞬間。キンと耳鳴りがして思わず目を閉じた。手足の先からしびれるように冷たくなっていく。ざわざわと肌が粟立った。そのまま足元に沈んでいくような感覚に襲われる。ああ、倒れると思ったが…………パッと目の前が明るくなった。
「……え?」
目の前に広がった光景に息を呑む。何もない。全く何もない。ただ真っ白なだけで、何も見えない。振り返ってみても、上を見ても、下を見ても、どこまでもただただ白いだけ。立ってるのか座っているのかさえ判然としない。
『言祝ぎを探せ』
『言祝ぎはどこだ』
『言祝ぎをよこせ』
『言祝ぎを見つけろ』
『言祝ぎを閉じ込めろ』
頭の中に直接文章を無理やりに打ち込まれたような感覚だった。
『こと-ほぎ【寿ぎ/言祝ぎ】①言霊を使い、発した言葉通りの結果を表すこと。②言霊を遣う巫のこと。③伎倆のひとつ。』
『花咲佳の伎倆;言祝ぎ』
『皇国の巫』
『言霊遣い、民に祝福を与える』
『万人に幸せな未来を授ける存在』
次々と文章が頭の中に入ってきて目が回る。文字が列をなしてぐるぐると渦巻いている。気持ちが悪い。吐きそうだ。頭の中に文章が飽和していく。
民に祝福を与える? 幸せな未来を授ける? 一体なんのことだ。
「そんなのは有り得ない。だって、私は……呪われているもの」
佳の小さなつぶやきに、誰かの声がした。よく聞こえない。
「――っ!」
この白い世界へ落ち込んだときと同じような唐突さで、今度は一瞬であたりが色づいた。眼の前でテレビを点けられたときのように色のついた世界が広がり、ただただ白かった世界は、ぷつんと閉じられた。
「佳っ!」
「……綉?」
目の前に綉の顔があった。ひどく取り乱している。
「綉、どうしたの? ひどい顔色よ」
「それはお前だよっ!」
取り乱しているというより、怒っている……? 佳はじっと綉を見つめつつ首を傾げた。綉がため息を吐くと同時に天井を仰ぐ。なぜ、こんな角度で彼の顎と天井が見えるのか不思議だった。今までに一度も見たことがない眺めだ。
「綉?」
「お前さ、ちゃんと寝てる? 食ってる? 軽すぎ、体温低すぎ、顔色悪すぎ……本気で死んでるかと思った」
抱きかかえるように体を起こされて、初めて自分が横たわっていたことを理解した。佳を抱えた綉の腕に力が込められる。
「私、寝てたの、かしら」
「……っ、死んでるかと思うような寝方するな!」
綉に怒鳴りつけられたのも、彼が怒鳴っている姿を見るのも初めてだとぼんやり思った。
「死にかけたのかしら……」
「お前なあっ!……具合は?」
睨みつけるような視線に思わず肩をすくめる。
「……どこも、普通」
「本当かよ……呼んでも起きないし、どんだけマジ寝してんの、店で」
はあーっと再び盛大なため息を吐きながら、首元に顔を埋められ、自分が綉の膝の上で抱きかかえられている状態だったことを思い出した。