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第8話 女の子が暴行されるところを、見てしまった。

「か、勝手にすれば? さっきから言ってるでしょ。それに、あんたらがそんなこと言ったって、だぁれも信じないわよ」トリクシーは裏返った声で言った。それを聞いて男たちは再び笑う。

「はっ、よく言うぜ。あのクラスのほぼ全員が聞いてんだぜ。それにあの中国人を引っ張ってくればよ、すぐに証言してくれんじゃねえの」

「だよな、お前、もうお終いだぜ? なぁ、トリクシー・コーウェンさんよぉ」


 すると小太りの方が、掴んでいるトリクシーの肩をぐんと引っ張って、自分に引き寄せると、両手でトリクシーの胸部を鷲掴みした。


「うわ、でっけ! お前、ハリウッドなんかやめて、ポルノに出ればいいんじゃねえの?」

 トリクシーは両手を振り回して、小太りの男の手を振り解くと、叫ぶように言った。

「やめろ! お前ら、ふざけんなよ!」

 しかし彼女の声は虚しく誰もいないプレハブ教室のあたりで響くだけで、それを聞いて助けに来てくれる人は誰もいない。


 そう、俺を除いては。



 ――今すぐにでも、飛び出すべきだ。そう頭の中では分かっていたのに、俺の足は一向に動こうとしなかった。



『アメリカで撃たれるなよ!』

『ギャングに気をつけてね』

 もうすっかり顔を思い出すことができなくなりつつある、日本の中学の同級生たちの寄せ書きが脳裏に浮かんでくる。

 ――彼らが銃を持っているわけがない。ギャングなわけがない。同じ高校の、同じ一年生だろう?


 頭の中では実に冷静にそう分析しているものの、体が完全に強張ってしまい、一歩も動くことができない。俺はただ窓越しに。トリクシーが駆け出して、それを見ながら男たちが下品な笑い声を上げながらプレハブ群の向こう側、キャンパスの外へとハイタッチしながら去っていくのを見つめることしかできなかった。



 あまりにも格好が悪い。助けに出なかった自分が情けない。全て、自分が悪いと言うのに。


 それでもなお、どこか自分の中で『助けに出ないことが正しい判断だった』と言い聞かせていることに自身で気がづいて、強烈な羞恥と自己嫌悪が俺を襲った。苛立たしさ、後悔、恥ずかしさ……全てが織り混ざって、吐き気を催してくる。


 でも、トリクシーは? あんな目に遭ったトリクシーはどうだと言うのだ?


 二人組が遠くに消えたことを確認してから、俺はプレハブ教室を回り込んで、トリクシーが駆けて行った方向へと足早に向かった。

 果たして二つ先の校舎の影で、両足を抱えてさめざめと泣いているトリクシーの姿を見つけた。


 足音に気づいてびくりと肩を震わせて上げたトリクシーの顔は、涙と共に流れ落ちたファンデーションで黒くなっており、潤んだ青い瞳は充血していた。両腕で体を守るように後ずさった彼女は、俺の姿を見た途端、前に立つのは自分を辱めた二人組ではないと気づいた安堵の表情から、すぐに怒りのそれと変わった。


「トリクシー、俺……いや、大丈夫?」と俺はそっと声をかける。

「見てたのね」とトリクシーは鼻を啜りながら、顔を下ろして言った。被っていたハットが作り出す影で、彼女の表情は見えなかったが、まだ肩を震わせて泣いているのは明らかだった。涙声で、彼女は続ける。

「帰って」

「ごめん、助けるべきだったのは分かっていたんだけど、アメリカに来たばかりで」と俺は、あまりにも情けない、格好が悪すぎる言い訳しか口から出てこなかった。


 トリクシーは静かにかぶりを振って、

「帰って」と再び繰り返した。



 ――彼女のそばにいてあげるべきだろうか?

 俺には自分がどういう行動を取るべきかわからないまま、そのまま間抜けなカカシのように呆然と立ちすくんでいた。

 言われた通りに帰るのはどこか間違いだと感じていたが、でもそれなら何故先ほど、あの二人組がいるときに俺は物陰から出てきて彼女を助けなかったのだろうか?


「あんた」とトリクシーはやはり顔を上げずに、ガラガラとした彼女らしくない声を絞り出すようにだした。「サインが欲しいんだっけ?」

 俺は黙って頷いた。それが彼女に見えたのかはわからないが、長い金髪を細かく揺らしながら、トリクシーは続けた。

「なら、書いてあげようか? 『トリクシー・ザ・ポルノスター』ってね」

「トリクシー、俺は……」

「何よ」と彼女は顔を上げながら言った。「私がかわいそうだって思うの? あんた、私のことどれだけわかっているつもりなの? みくびらないでよ、こんなのいじめのうちに入らない。どれだけ辛い思いをして私がドラマに出ていたかわからないでしょ。こんなの、有名税みたいなものなんだから」


 彼女の目は晴れて、顔は崩れてメイクで汚れてさえいたが、それでも俺は目の前の女性が、神々しいほどに美しいと感じた。苛烈な性格が彼女を内面から照らしているようで、普段の彼女――まだ二日間しか見たことがないが――よりもずっと、力強く、美しくあった。


「トリクシー、ごめん、俺が悪かった。学校では女優じゃなくて、同じ生徒だから、軽々しくサインしてなんて言ってはダメだった。俺が悪いんだ、すまない」

「はっ」と彼女は吐き捨てるように言って、立ち上がった。「別にいいよ、そんなの。あんたのことをイエローモンキーって言ったのは……それは謝るわ。使ってはいけない言葉だった。でもね、だからと言って、あんたに謝ってもらう必要はない。みんな、誰だって、私のことを女優のトリクシー・コーウェンだと思っている。それは名誉なことだって言われてるわ。私だって、誇りに思ってる。私は女優のトリクシー・コーウェンなの。あんたや、さっきのあいつらとは格が違うの。だからね、そんな安っぽい謝罪はいらない」


 トリクシーは顔を手の甲で拭って、充血した目から涙を払い、頭のカウボーイハットの位置を調整しながら言った。

「でも、俺はさっき君のことを助けられなくて……」

「やめてよね」とトリクシーは再度俺の言葉を遮った。「あんたに割って入られても、困るのは私だってわからないの? あんたがボコボコにされたりしたら、それこそ大事になって私の仕事に響くってわからないの?」


 「あんたは――」とトリクシーは俺の目を、その真っ青な瞳で射るように見て、言った。



 あんたは、どんだけ自己中心的なの?

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