第36話 あの子の最新作を、みんなで見よう!
俺が描いたのは、トリクシーの肖像だ。あの日トリクシーは、いつも座っている俺の隣ではなくて、別の席に移動した。同じテーブルに座るお互いの絵を描けという課題だったのだから、俺は完全に課題無視をしたことになる。
それでも俺はどうしても、トリクシー以外の人を描くことができなかった。
「トリクシーのことが、頭から離れなかったから。ずっと、君のことを描こうと思っていたから」
トリクシーは微笑むと、視線を絵に落とす。鉛筆で描かれたそれは、お世辞にもうまいとは言えない。今見ても左右でバランスがおかしいし、本物のトリクシーはもっと素敵だ。だから俺はあまりその絵が好きではなかった。
「本当のトリクシーはもっと綺麗だよ」と俺が言うと、トリクシーは首を振る。
「でも、この絵は一生懸命に描かれてるのが分かる。ねぇ、あんた、どうして私のことをそんなに思ってくれてるの?」
トリクシーは心底不思議だ、という顔で絵と俺を交互に見る。
「トリクシーが美人でスタイルがいいからだよ」と俺が言うと、彼女は眉間に皺を寄せて、露骨に嫌そうな顔をする。
「やっぱり、私のこと外見で……」と唇を尖らせて反論しようとするこの美少女を、俺は手を出して制する。
「でも、それだけじゃない。正直、トリクシーを見た時、『アメリカはこんな綺麗な子がたくさんいるんだ、やっぱり外国はすごい』としか思わなかったんだ。女優だと聞いても、驚かなかった。トリクシーはそれぐらいできて当たり前だと思ったから。でもきっと、トリクシーに一番惹かれたのは、君の大人っぽさを目の当たりにしたからじゃないかな」
「大人っぽさ?」と彼女が驚いて言うので、俺は続ける。
「そう。自分のこと、仕事のこと、いろんなことにプライドを持っている。自分をアクセサリー的に見ないで欲しいって、強い意志がある。そこまで強い気持ちを持っている女性を、俺は見たことがなかったから」
「私が大人っぽいねぇ」とトリクシーは、ニヤニヤと笑いながら呟く。「やっぱ、あんた、女の子を見る目がないよ」
ケタケタと笑う彼女に、俺は肩をすくめる。
「そうかもしれない」と俺は笑って、「だって、イエローモンキーだからね」と続ける。
「私だって、ホワイトタイガーなんでしょ」
俺たちは腹を抱えて笑った。
リビングのテレビには、今も『キャンディロット・インター』が流れていたが、画面の中で笑うバーナデットよりも、ソファーで笑うトリクシー・コーウェンの方が遥かに素敵だった。
***
「うそ、うそうそ嘘ぉ!」と灯子の叫び声が、リビングに響く。
一週間のサイエンス・キャンプを終えた妹が久々に帰ってきた家にいたのは、
「ハーイ」
真っ白なパナマ帽を被るドラマクイーン、トリクシーだった。
「タカ兄! お母さん、お父さん、これ、どう言うこと?」と灯子は口早に捲し立てる。
「あー、トーコちゃん、英語でお願い。私、ジャパニーズわからないから」とトリクシーが苦笑いしながら言うが、灯子はそれすらも頭に入ってこないらしく、
「トリクシー、本物だよね? え、握手していい? サインは? サインももらえるかな? 待って、私何か……お母さん、色紙なかったっけ! ああもう、あれちょうだい、タカ兄の寄せ書き! あれの裏でいいや、サインしてもらおう!」と日本語で暴れる。
「灯子、落ち着け。いいから、深呼吸、な?」と俺が促すと、灯子はヒーフーヒーフーと胸を押さえて息を吸う。
「あー、私、やっぱこない方が良かったんじゃない?」とトリクシーが眉を困ったように下げながら言うが、俺は首を振る。
「トリクシーに大興奮なんだよ、大丈夫」
「灯子ちゃん、落ち着いて〜」と灯子の肩を揉むのは、レイカちゃんだ。
「そうだよぉ、大丈夫だよぉ、トリクシー、噛み付いたりしないから」とアリソンも続く。
「何あんた、私を猛獣かなんかだと思ってんの?」とトリクシーが本当に噛みつきそうに、ガルルと唸ってみせる。
「そうそう、大丈夫だよ。な、レイカ?」と笑顔でレイカの腰に手を回すサーニャ。こいつら、いつの間にかこんなに仲良くなって……。
「サーニャくん、触らないで」とレイカちゃんは手を払い除ける。
……仲良くなってはいなかったようだ。
しょんぼりとするサーニャを見てみんなで笑ってから、ソファに腰掛ける。
サーニャの課外活動が終わり、アリソンも海外旅行から戻り、俺たちは数週間ぶりに再開した。俺の家に呼んだのは他でもない、とあるものを皆で見ようとなったからだ。
「トリクシーをはじめ、みんなに集まってもらったのは、今日すごいものが見られるからだ」と俺が言うと、
「えっ、何なに? 何が起きるの?」と妹は身を大きく乗り出して聞く。
「まぁ落ち着け。今日は実は、トリクシーが出る新しいドラマのパイロットビデオを借りてきたんだ!」
「本当はダメなんだけど、仲間内ならこっそり見せてもいいって許可出たからね」とトリクシーが自信満々に言う。
「ええ! まじすごい!」と灯子が拍手するので、みんなも釣られて拍手する。
「女優さんと一緒に見られるなんてすごーい!」とレイカちゃんも続く。
「レイカも女優と間違うぐらいキュートだよ」とどさくさに紛れてサーニャが言うが、レイカちゃんには完全無視されている。がんばれ、サーニャ……。
「では早速、試聴したいと思います! タイトルは『ランニング・デッド』!」
ビデオデッキにディスクを入れると、カウントダウンが始まる。
「「じゅう! きゅう!」」
俺の隣では、トリクシーが嬉しそうに一緒にカウントダウンに混じっている。その笑顔は、紛れもなく、トリクシー本人の、本当の笑顔だ。
「「ろく! ごぉ!」」
こんなにも嬉しそうで、輝いている。
そして俺は今、トリクシーだけではなく、新しい友達に囲まれている。
積み重ねてきたものを失って、新しい環境に来て、こんな幸せが訪れるとは、到底思っていなかった。
「「にぃ! いーち!」」
この国に来て、良かった。この人たちに会えて、良かった。そう心の底から思える。
「「スタート!」」
俺たちは黙って、食い入るように画面を見つめる。
特殊なウイルスが蔓延して、感染したら老若男女もアスリートの如くムキムキになって全力ダッシュするゾンビとなる世界。そこで生き延びようと必死に抗う、元陸上部員やオリンピック選手たち……。F1カーに乗ってゾンビたちとデットヒートを繰り広げるレーサー……。
いや、無茶苦茶な話だろうこれ、と思いながらも、俺たちはハラハラしながら画面を見つめる。
まだか、まだか――。
そう、トリクシーがまだ登場しないのだ。一体どんな役で出るのだろうか?
主人公の仲間となる、新たなアスリートか? はたまた、超スピードのダッシュを見せるゾンビか?
ゾンビメイクのトリクシーも見てみたいな、と思いつつ、俺は手に汗を握りながら、テレビ画面で展開されるドラマに引き込まれていく。
そして、五十分が経過し、画面が暗転する。
「――あれ?」と漏らしたのは、俺だけではないはずだ。
「え?」
「終わり?」と灯子がポカンとする。
「トリクシーは〜?」とアリソンが問う。
「ちゃんと出てるわよ」と当の本人は済ました顔で言う。
「わかった! あれだ、途中で出てきた、戦車に轢き殺されていた上半身だけの女ゾンビ! あれ、トリクシーなんだろ?」
「そんなわけないでしょ!」とトリクシーが顔を真っ赤にして反論する。
「じゃあ、何の役で出てたんだ?」と俺はリモコンを取って映像を巻き戻そうとすると、トリクシーが俺の手を握る。
「あんたたち、大丈夫? これよ、これ!」
彼女が指差したのは、真っ黒な画面に白い文字が流れるエンドロールである。
「えと、この字をトリクシーが書いた?」と俺が聞くと、トリクシーは盛大にため息をつく。
「どうみてもパソコンで作った字でしょうが! そうじゃなくて、こ・れ! 今流れてる歌!」
そういえば、エンドロールのバックに、女性ヴォーカルの歌が流れている。
「え、もしかして……」
得意げに頷くトリクシーを見るや否や、俺たちは黙って、テレビから流れてくる音楽に耳を傾ける。
「本当だぁ……これ歌ってるの、トリクシーだぁ〜」とアリソンが嬉しそうに言う。
「まじか! トリクシー・コーウェンって歌手もできたのか?」
「これがデビューシングルよ」と彼女は嬉しそうに言う。「これからは、歌える女優の時代なの」
トリクシーの歌う曲は、ゾンビ世界にふさわしい、ちょっと悲しげなバラードだ。派手な曲ではない分、歌唱力が求められる。それを巧みに、感情が溢れ出そうな高音と、魂を揺さぶるような低音を使い分けて歌っていく。最後は余韻を残すフェードアウトで、寂しげな荒廃した世界にぴったりのセンチメンタルな後味を残し、画面が完全に暗転した。
たっぷり十秒は完全な静寂に包まれ、トリクシーの歌声がはっきりと心に爪痕を残すのを感じてから、俺は口を開く。
「いい曲だね」と俺が言うと、トリクシーは俺の横で嬉しそうに体をよじらせて、
「でっしょ!」と笑う。




